コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
永楽帝
固有能力

里甲制

生産力の50%を 食料か 信仰力に、あるいは100%を ゴールドに換えられるプロジェクトをすべての都市が受け取る。人口が10以上の都市は、その都市の人口ごとに毎ターン ゴールド+2、 科学力+1、 文化力+1を得る。

概要
永楽帝はまずプロジェクトで都市を管理します。大規模な都市は、人口からさらなる ゴールド、 科学力、 文化力を得られます。
詳細説明
永楽帝でプレイする場合は、「里甲制」能力で人口を管理すると良いでしょう。彼の都市では、固有のプロジェクトが 生産力を 食料や 信仰力、 ゴールドに変換します。その後、都市の人口が10に達すると、さらなる ゴールド、 科学力、 文化力が生み出されます。永楽帝の文明固有の能力は、より優れた無償のひらめきと天啓により、 科学力と 文化力の発展をさらに補助します。虎蹲砲は帝国を侵略者から守ってくれますが、万里の長城こそが文化による勝利を達成する原動力となるでしょう。
歴史的背景
明の歴代皇帝の中で最も先見の明があり、国外にもしっかりと目を向けていた永楽帝は、明の外交制度の基礎を築き、社会基盤を再建した。その過程では皇帝の権威を守るために容赦なく戦い、敵対する者をことごとく滅ぼしたが、その後は国外に勢力を拡大して支持と黄金を集め、後世の範となる中華帝国を築きあげた。

明代は中国にとって再統合の時代だった。長年にわたって外国勢力に支配された後、漢民族は自分たちを中心とする権力構造を築き上げ、それは数世紀にわたって続き、栄えることになった。明は豊かで平和であり、一時は高度な技術を持っていた。また、隣国の服属でも成功を収め、朝貢関係で東アジアの大部分を保護下に置き、地域の安定と儒教的価値観の拡大をもたらした。しかし時の流れとともに明は慢心し、孤立していった。当初は他国のはるか先を行っていたにも関わらず、やがて弱体化し、外国からもたらされる金に頼りすぎるようになり、国外の変化に対応する準備を怠ったのだ。

そのようなことは、永楽帝が玉座にあったなら起きなかったかもしれない。

永楽帝の誕生は1360年、即位前の名は朱棣といった。父は明の開祖である洪武帝である。公子として朱棣は軍を率い、モンゴル (元王朝の残党と西方の諸ハン国の両方) と戦った。朱棣は兄の朱標に次ぐ皇位継承者だった。… と言われているが、朱棣は皇帝と正妃の子ではなく、もっと身分の低い側室の子だったという説もある。

しかし朱標は父のお気に入りだった。そしてそのひいきは朱標の家族や息子にまで及んだ。そのため朱標が急死すると、洪武帝は朱棣ではなく朱標の息子を皇位継承者とし… 朱棣は反乱を起こした。

朱棣は3年にわたる戦いの末に勝利し、即位して永楽帝と号した。続いて彼がしたのは、甥の痕跡を完全に消すため、官吏たちを厳しく監視することだった。平和な統治を是とする儒教の教えに照らし合わせればこれは由々しき事態であり、多くの儒者がこの帝位簒奪に異を唱えた。しかしこれに巻き込まれて多くの者が粛清されることになる。永楽帝は自分に歯向かう者の処刑を命じた。その中には有名な儒者である方孝孺ばかりか、彼の在職中に官吏登用試験に合格した者たち全員、さらには彼の一族全員も含まれていた (これは「滅十族」と呼ばれている)。おびただしい数の人間が処刑された。さらに永楽帝は、元の時代に普及したモンゴル風の文化も禁止した。

永楽帝はその後、新たな社会を築き始めた。宦官の役割を増やし、皇帝に忠実な秘密警察 (東廠) も創設した。また、甥の痕跡を歴史から抹消することに同意した儒者や歴史家も増やした (永楽帝が朝鮮半島出身の側室の子ではなく洪武帝と正妃の子であると史書を書き換えることにも同意したとも言われている)。さらに、モンゴルの領土に近く (つまり戦いやすい)、かつて永楽帝が預かっていた前哨基地からも近い北京を新都として紫禁城を築き、そこから領土の拡大に乗り出した。これにともなって万里の長城の改築と再補強が行われ、大運河も再び開かれることになった。

洪武帝 (永楽帝の父) は孤立主義者であった。いや、洪武帝にとどまらず、孤立主義は明の持病のようなものだった。しかし永楽帝はその逆だった。彼は積極的に朝貢制度を整備、拡大していった。実際、新たな属国を探すことこそ、鄭和の大航海の目的だったのだ。実際に朝貢をする国は東アジアの国々に限られていたものの、鄭和の足跡はインド、ペルシア湾、アフリカにまで達した。ここで注目に値するのは、チベットに歩み寄ったことである。チベットは中国の歴史において常に仏教の情報源であり、それは明にとっても同じであった。軍事面では、永楽帝はモンゴルとベトナムを攻めた。特にベトナムは明に征服され、陳朝は滅亡した。

永楽帝のもう一つの偉業は、中国がそれまで蓄積してきたあらゆる知識をまとめた史上最大級の百科事典、『永楽大典』の編纂である。新しい内容は多くないものの、この書物には過去のあらゆる知識が集約、分類されていた。

永楽帝は1424年、モンゴル遠征中に64歳でこの世を去った。
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為政者が世事に疎いが故に、古来、数多の国が滅んできた。

特性

文明

設定

アジェンダ
インディン
ターン毎の収入がプラスの文明を好み、ターン毎の収入がマイナスの文明を嫌う。
宗教
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為政者が世事に疎いが故に、古来、数多の国が滅んできた。

特性

文明

設定

アジェンダ
インディン
ターン毎の収入がプラスの文明を好み、ターン毎の収入がマイナスの文明を嫌う。
宗教
固有能力

里甲制

生産力の50%を 食料か 信仰力に、あるいは100%を ゴールドに換えられるプロジェクトをすべての都市が受け取る。人口が10以上の都市は、その都市の人口ごとに毎ターン ゴールド+2、 科学力+1、 文化力+1を得る。

概要
永楽帝はまずプロジェクトで都市を管理します。大規模な都市は、人口からさらなる ゴールド、 科学力、 文化力を得られます。
詳細説明
永楽帝でプレイする場合は、「里甲制」能力で人口を管理すると良いでしょう。彼の都市では、固有のプロジェクトが 生産力を 食料や 信仰力、 ゴールドに変換します。その後、都市の人口が10に達すると、さらなる ゴールド、 科学力、 文化力が生み出されます。永楽帝の文明固有の能力は、より優れた無償のひらめきと天啓により、 科学力と 文化力の発展をさらに補助します。虎蹲砲は帝国を侵略者から守ってくれますが、万里の長城こそが文化による勝利を達成する原動力となるでしょう。
歴史的背景
明の歴代皇帝の中で最も先見の明があり、国外にもしっかりと目を向けていた永楽帝は、明の外交制度の基礎を築き、社会基盤を再建した。その過程では皇帝の権威を守るために容赦なく戦い、敵対する者をことごとく滅ぼしたが、その後は国外に勢力を拡大して支持と黄金を集め、後世の範となる中華帝国を築きあげた。

明代は中国にとって再統合の時代だった。長年にわたって外国勢力に支配された後、漢民族は自分たちを中心とする権力構造を築き上げ、それは数世紀にわたって続き、栄えることになった。明は豊かで平和であり、一時は高度な技術を持っていた。また、隣国の服属でも成功を収め、朝貢関係で東アジアの大部分を保護下に置き、地域の安定と儒教的価値観の拡大をもたらした。しかし時の流れとともに明は慢心し、孤立していった。当初は他国のはるか先を行っていたにも関わらず、やがて弱体化し、外国からもたらされる金に頼りすぎるようになり、国外の変化に対応する準備を怠ったのだ。

そのようなことは、永楽帝が玉座にあったなら起きなかったかもしれない。

永楽帝の誕生は1360年、即位前の名は朱棣といった。父は明の開祖である洪武帝である。公子として朱棣は軍を率い、モンゴル (元王朝の残党と西方の諸ハン国の両方) と戦った。朱棣は兄の朱標に次ぐ皇位継承者だった。… と言われているが、朱棣は皇帝と正妃の子ではなく、もっと身分の低い側室の子だったという説もある。

しかし朱標は父のお気に入りだった。そしてそのひいきは朱標の家族や息子にまで及んだ。そのため朱標が急死すると、洪武帝は朱棣ではなく朱標の息子を皇位継承者とし… 朱棣は反乱を起こした。

朱棣は3年にわたる戦いの末に勝利し、即位して永楽帝と号した。続いて彼がしたのは、甥の痕跡を完全に消すため、官吏たちを厳しく監視することだった。平和な統治を是とする儒教の教えに照らし合わせればこれは由々しき事態であり、多くの儒者がこの帝位簒奪に異を唱えた。しかしこれに巻き込まれて多くの者が粛清されることになる。永楽帝は自分に歯向かう者の処刑を命じた。その中には有名な儒者である方孝孺ばかりか、彼の在職中に官吏登用試験に合格した者たち全員、さらには彼の一族全員も含まれていた (これは「滅十族」と呼ばれている)。おびただしい数の人間が処刑された。さらに永楽帝は、元の時代に普及したモンゴル風の文化も禁止した。

永楽帝はその後、新たな社会を築き始めた。宦官の役割を増やし、皇帝に忠実な秘密警察 (東廠) も創設した。また、甥の痕跡を歴史から抹消することに同意した儒者や歴史家も増やした (永楽帝が朝鮮半島出身の側室の子ではなく洪武帝と正妃の子であると史書を書き換えることにも同意したとも言われている)。さらに、モンゴルの領土に近く (つまり戦いやすい)、かつて永楽帝が預かっていた前哨基地からも近い北京を新都として紫禁城を築き、そこから領土の拡大に乗り出した。これにともなって万里の長城の改築と再補強が行われ、大運河も再び開かれることになった。

洪武帝 (永楽帝の父) は孤立主義者であった。いや、洪武帝にとどまらず、孤立主義は明の持病のようなものだった。しかし永楽帝はその逆だった。彼は積極的に朝貢制度を整備、拡大していった。実際、新たな属国を探すことこそ、鄭和の大航海の目的だったのだ。実際に朝貢をする国は東アジアの国々に限られていたものの、鄭和の足跡はインド、ペルシア湾、アフリカにまで達した。ここで注目に値するのは、チベットに歩み寄ったことである。チベットは中国の歴史において常に仏教の情報源であり、それは明にとっても同じであった。軍事面では、永楽帝はモンゴルとベトナムを攻めた。特にベトナムは明に征服され、陳朝は滅亡した。

永楽帝のもう一つの偉業は、中国がそれまで蓄積してきたあらゆる知識をまとめた史上最大級の百科事典、『永楽大典』の編纂である。新しい内容は多くないものの、この書物には過去のあらゆる知識が集約、分類されていた。

永楽帝は1424年、モンゴル遠征中に64歳でこの世を去った。