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資源
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総督
歴史的瞬間
バシレイオス2世
固有能力

ポルフュロゲネトス

ビザンティンと同じ宗教の都市に対する重騎兵と軽騎兵の攻撃が、都心に最大のダメージを与える。社会制度「王権神授説」を発見すると、固有ユニット「タグマ」を得る。

概要
ビザンティンは宗教戦略と軍事戦略の組み合わせにより、制覇による勝利や宗教による勝利を狙います。
詳細説明
ビザンティンは、宗教面での勝利が軍の戦闘力強化につながり、軍の強化が宗教面での優位につながるので、宗教を創始して広めることが最優先事項になります。固有アビリティである「位階」により、聖都を改宗させるごとに 戦闘力と 宗教戦闘力が上昇し、敵ユニットを倒すとビザンティンが創始した宗教の影響範囲が拡大します。さらに、ライバルの都市の改宗に成功した場合は、バシレイオスの固有能力により、その都市への近接攻撃ダメージが最大になります。固有ユニットである「タグマ」は、隣接する宗教ユニットや軍事ユニットの戦闘力を向上させます。また、ビザンティンの固有区域である「ヒッポドローム」がもたらす重騎兵ユニット (タグマなど) と初期の海洋ユニットである「デュロモイ」 (ユニットに対するダメージと射程が向上) も、ビザンティンの軍事力拡大に貢献します。こうした宗教と軍隊の相乗効果を持つビザンティンは、宗教による勝利や制覇による勝利に適した文明です。
歴史的背景
バシレイオス2世の幼年時代はシェイクスピア劇さながらだった。バシレイオス2世は西暦958年、時の皇帝ロマノス2世と2番目の妻テオファノの間に生まれた。息子たちが対等に扱われるよう、ロマノス2世はバシレイオスと弟のコンスタンティノス8世をビザンティン帝国の共同皇帝とした。それから間もなく、ロマノス2世は不慮の死を遂げる。その若すぎる死の原因をテオファノによる毒殺と考える歴史家もいるが、当時のテオファノはすでに摂政として権力を手にしていた。2人の息子はまだ幼く、国を統治できる年齢ではなかったからだ。テオファノに匹敵する権力を持ち、彼女を悩ませていたのは、パラコイモメノスであったヨセフ・ブリンガスだけだった。「寝室管理長官」とも訳され、宦官が就くことも多かったこの地位は、文字どおり「皇帝のかたわらで眠ること」を意味する最高位の官職だった。しかしブリンガスは不安定な立場で生き残れず、職を拝して半年もしないうちに逃亡を余儀なくされる。後ろ盾の消えた王位と先帝ロマノス2世の妻は、ニケフォロス将軍が引き継いだ。ところが2度目の結婚は早々に終わり、テオファノは再び寡婦となる。今度はニケフォロスの甥でテオファノの新しい恋人と噂されていた将軍、ヨハネス・ツィミスケスが宮殿に忍び込み、ニケフォロスを暗殺したのだ。テオファノは3度目の結婚を考えていたようだが、教会の賛意を得られずに追放された。ツィミスケスの死後、西暦976年にバシレイオス2世が即位すると、息子は母を宮廷に呼び戻した。

バシレイオス2世はそれまでの皇帝と比べると変わり者で、人生の楽しみに興味を示さなかった。優雅なローブをまとうことはなく、盛大な宴も開かなかった。禁欲主義ではなかったが気性が荒く、ほとんどの皇帝が強く望んだ贅沢を嫌った。彼は民からも宮廷からもあまり愛されなかった。愉快な男ではなかったようだ。

バシレイオス2世はその治世の初期に、多くの将軍や貴族を排斥した。反乱、クーデター、権力に目がくらんだ王族など、争いの種には事欠かなかった。反乱が起きてもバシレイオス2世はひるまず、剣を手に戦場に赴き、敵を切り捨てた。自分より経験豊富な将軍が相手だろうと、彼がひるむことはなかった。数々の反乱がバシレイオス2世の統治哲学に影響を与えたのは間違いない。彼は帝国を冷徹な目で見るようになっていた。同盟には慎重だったが、助けはビザンティン帝国の外に求めた。キエフ大公ウラジーミル1世の援軍を受け入れ、国の外から支持基盤を固めたのだ。大公の支援や兵力の見返りとして、バシレイオス2世は妹のアンナを嫁がせた。母親と違ってアンナの結婚は血塗られた事件と無縁だった。キエフ大公国はバシレイオス2世が受け入れた数少ない味方の1つであった。余計な煩わしさから身を守るため、バシレイオス2世は生涯結婚せず、親族を遠ざけた。

バシレイオス2世は、貴族に隙を見せてはならないことを知っていた。そのため、自分に逆らった者を見せしめにした。また、貧しい者が税を払えなければ金持ちに払わせる税制を設け、貴族の力を削いだ。権力を狙う輩が現れないよう、貴族の常備軍の規模を縮小する必要もあった。ビザンティン帝国では納税の代わりに兵役に就くのが一般的だったが、バシレイオス2世は現金で払うことを認めた。時間より金の方が自由になる人々は、この新たな制度を喜んで受け入れた。

バシレイオス2世はビザンティン帝国が長い年月の間に失っていった領土を取り戻した。さらに、ビザンティン帝国の北に位置し、着実に力をつけていたブルガリアへの復讐に意欲を燃やした。即位して間もない頃、彼はブルガリア皇帝サムイルに挑んで大敗を喫していたのだ。ブルガリアの執拗な襲撃と帝国領内への拡大は、バシレイオス2世の傷ついた誇りに塩を塗る行為に他ならなかった。ブルガリアとビザンティン帝国の争いは、どちらも決定的な勝利をつかめないまま一進一退を繰り返していたが、バシレイオス2世は個々の戦いから学び、1014年、ついに決定的な勝利を収めた。宿敵サムイルはあと一歩のところで取り逃がしたが、配下の兵士1万5千人を捕らえたのだ。この勝利において、バシレイオス2世は残酷きわまりない創造性を発揮した。捕虜にしたサムイルの部下100人につき99人の両目を潰し、残る1人は片目だけを潰すに留め、この幸運な1人に残り99人の世話をさせてブルガリアへ帰したのだ。これ以降、バシレイオス2世はブルガロクトノス、すなわち「ブルガリア人殺し」という渾名を奉られることとなった。

その情け容赦のない性格と老獪さが幸いし、バシレイオス2世は名将として長く力を発揮しつづけた。エーゲ海と地中海北部の大部分を奪い、帝国の領土を実質的に倍増させた。彼の征服は帝国に誇りをもたらし、軍からも民からも信頼を得た。ブルガリアなど、新たに併合した地域の離反に苦しむこともなかった。税の安さも一因だったが、場合によっては属州に自治を認めたことも大きかった。

バシレイオス2世は1025年12月に没した。贅沢に興味のなかった彼らしく、コンスタンティノープル郊外の小さな墓に埋葬されることを望んだという。だが残念なことに、バシレイオス2世の帝国はやがて滅びることになる。彼が50年の治世で手に入れた富と領土を、後継者たちは守り抜くことができなかったのだ。
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余はバシレイオス、「ブルガリア人殺し」と呼ばれる者。

特性

文明
特殊ユニット
タグマ

設定

アジェンダ
聖なる守護者
自分と同じ宗教を信仰している文明を好み、主流宗教が自分と異なる文明を嫌う。
宗教
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余はバシレイオス、「ブルガリア人殺し」と呼ばれる者。

特性

文明
特殊ユニット
タグマ

設定

アジェンダ
聖なる守護者
自分と同じ宗教を信仰している文明を好み、主流宗教が自分と異なる文明を嫌う。
宗教
固有能力

ポルフュロゲネトス

ビザンティンと同じ宗教の都市に対する重騎兵と軽騎兵の攻撃が、都心に最大のダメージを与える。社会制度「王権神授説」を発見すると、固有ユニット「タグマ」を得る。

概要
ビザンティンは宗教戦略と軍事戦略の組み合わせにより、制覇による勝利や宗教による勝利を狙います。
詳細説明
ビザンティンは、宗教面での勝利が軍の戦闘力強化につながり、軍の強化が宗教面での優位につながるので、宗教を創始して広めることが最優先事項になります。固有アビリティである「位階」により、聖都を改宗させるごとに 戦闘力と 宗教戦闘力が上昇し、敵ユニットを倒すとビザンティンが創始した宗教の影響範囲が拡大します。さらに、ライバルの都市の改宗に成功した場合は、バシレイオスの固有能力により、その都市への近接攻撃ダメージが最大になります。固有ユニットである「タグマ」は、隣接する宗教ユニットや軍事ユニットの戦闘力を向上させます。また、ビザンティンの固有区域である「ヒッポドローム」がもたらす重騎兵ユニット (タグマなど) と初期の海洋ユニットである「デュロモイ」 (ユニットに対するダメージと射程が向上) も、ビザンティンの軍事力拡大に貢献します。こうした宗教と軍隊の相乗効果を持つビザンティンは、宗教による勝利や制覇による勝利に適した文明です。
歴史的背景
バシレイオス2世の幼年時代はシェイクスピア劇さながらだった。バシレイオス2世は西暦958年、時の皇帝ロマノス2世と2番目の妻テオファノの間に生まれた。息子たちが対等に扱われるよう、ロマノス2世はバシレイオスと弟のコンスタンティノス8世をビザンティン帝国の共同皇帝とした。それから間もなく、ロマノス2世は不慮の死を遂げる。その若すぎる死の原因をテオファノによる毒殺と考える歴史家もいるが、当時のテオファノはすでに摂政として権力を手にしていた。2人の息子はまだ幼く、国を統治できる年齢ではなかったからだ。テオファノに匹敵する権力を持ち、彼女を悩ませていたのは、パラコイモメノスであったヨセフ・ブリンガスだけだった。「寝室管理長官」とも訳され、宦官が就くことも多かったこの地位は、文字どおり「皇帝のかたわらで眠ること」を意味する最高位の官職だった。しかしブリンガスは不安定な立場で生き残れず、職を拝して半年もしないうちに逃亡を余儀なくされる。後ろ盾の消えた王位と先帝ロマノス2世の妻は、ニケフォロス将軍が引き継いだ。ところが2度目の結婚は早々に終わり、テオファノは再び寡婦となる。今度はニケフォロスの甥でテオファノの新しい恋人と噂されていた将軍、ヨハネス・ツィミスケスが宮殿に忍び込み、ニケフォロスを暗殺したのだ。テオファノは3度目の結婚を考えていたようだが、教会の賛意を得られずに追放された。ツィミスケスの死後、西暦976年にバシレイオス2世が即位すると、息子は母を宮廷に呼び戻した。

バシレイオス2世はそれまでの皇帝と比べると変わり者で、人生の楽しみに興味を示さなかった。優雅なローブをまとうことはなく、盛大な宴も開かなかった。禁欲主義ではなかったが気性が荒く、ほとんどの皇帝が強く望んだ贅沢を嫌った。彼は民からも宮廷からもあまり愛されなかった。愉快な男ではなかったようだ。

バシレイオス2世はその治世の初期に、多くの将軍や貴族を排斥した。反乱、クーデター、権力に目がくらんだ王族など、争いの種には事欠かなかった。反乱が起きてもバシレイオス2世はひるまず、剣を手に戦場に赴き、敵を切り捨てた。自分より経験豊富な将軍が相手だろうと、彼がひるむことはなかった。数々の反乱がバシレイオス2世の統治哲学に影響を与えたのは間違いない。彼は帝国を冷徹な目で見るようになっていた。同盟には慎重だったが、助けはビザンティン帝国の外に求めた。キエフ大公ウラジーミル1世の援軍を受け入れ、国の外から支持基盤を固めたのだ。大公の支援や兵力の見返りとして、バシレイオス2世は妹のアンナを嫁がせた。母親と違ってアンナの結婚は血塗られた事件と無縁だった。キエフ大公国はバシレイオス2世が受け入れた数少ない味方の1つであった。余計な煩わしさから身を守るため、バシレイオス2世は生涯結婚せず、親族を遠ざけた。

バシレイオス2世は、貴族に隙を見せてはならないことを知っていた。そのため、自分に逆らった者を見せしめにした。また、貧しい者が税を払えなければ金持ちに払わせる税制を設け、貴族の力を削いだ。権力を狙う輩が現れないよう、貴族の常備軍の規模を縮小する必要もあった。ビザンティン帝国では納税の代わりに兵役に就くのが一般的だったが、バシレイオス2世は現金で払うことを認めた。時間より金の方が自由になる人々は、この新たな制度を喜んで受け入れた。

バシレイオス2世はビザンティン帝国が長い年月の間に失っていった領土を取り戻した。さらに、ビザンティン帝国の北に位置し、着実に力をつけていたブルガリアへの復讐に意欲を燃やした。即位して間もない頃、彼はブルガリア皇帝サムイルに挑んで大敗を喫していたのだ。ブルガリアの執拗な襲撃と帝国領内への拡大は、バシレイオス2世の傷ついた誇りに塩を塗る行為に他ならなかった。ブルガリアとビザンティン帝国の争いは、どちらも決定的な勝利をつかめないまま一進一退を繰り返していたが、バシレイオス2世は個々の戦いから学び、1014年、ついに決定的な勝利を収めた。宿敵サムイルはあと一歩のところで取り逃がしたが、配下の兵士1万5千人を捕らえたのだ。この勝利において、バシレイオス2世は残酷きわまりない創造性を発揮した。捕虜にしたサムイルの部下100人につき99人の両目を潰し、残る1人は片目だけを潰すに留め、この幸運な1人に残り99人の世話をさせてブルガリアへ帰したのだ。これ以降、バシレイオス2世はブルガロクトノス、すなわち「ブルガリア人殺し」という渾名を奉られることとなった。

その情け容赦のない性格と老獪さが幸いし、バシレイオス2世は名将として長く力を発揮しつづけた。エーゲ海と地中海北部の大部分を奪い、帝国の領土を実質的に倍増させた。彼の征服は帝国に誇りをもたらし、軍からも民からも信頼を得た。ブルガリアなど、新たに併合した地域の離反に苦しむこともなかった。税の安さも一因だったが、場合によっては属州に自治を認めたことも大きかった。

バシレイオス2世は1025年12月に没した。贅沢に興味のなかった彼らしく、コンスタンティノープル郊外の小さな墓に埋葬されることを望んだという。だが残念なことに、バシレイオス2世の帝国はやがて滅びることになる。彼が50年の治世で手に入れた富と領土を、後継者たちは守り抜くことができなかったのだ。