コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
ゴルゴー
固有能力

テルモピュラエ

戦闘に勝利すると、倒したユニットの 戦闘力の50%に等しい 文化力を得る (標準のスピードで) 。スロットに入れた軍事政策ごとに 戦闘力+1。

概要
ギリシャ人ほど市民としての生き方に通じている者はいません。スパルタ人であるゴルゴーは、社会制度システムを柔軟に活用することで、あらゆる種類の勝利を目指すことができます。
詳細説明
ギリシャは、ゲーム序盤の 文化力産出量において他の文明に勝っています。ゴルゴーは、戦争で敵を倒したり、区域や遺産で囲まれた丘の上にアクロポリスを建てたりすることで、 文化力をさらに増やせます。また、ワイルドカード政策スロットが1つ与えられるので、ゲーム全体を通して政策面で優位に立てるでしょう。勝利のための戦略をいっそう強化する社会制度を研究すれば、必要な政策はひととおり整備されるはずです。政策面での柔軟性が高く、どのような勝利でも目指せますが、一番適しているのは文化による勝利です。
歴史的背景
ゴルゴーはスパルタの王の娘として生まれ、スパルタの王に嫁ぎ、スパルタの王を産んだ。古代ギリシャの歴史には女性がまったくといってよいほど登場しないことを考えると、彼女に関する記録がこれだけ残っているのは驚嘆すべきことかもしれない。ヘロドトス、クセノポン、トゥキュディデスといった者たちは、歴代の王妃に関してほとんど記録を残していないが、それは古代ギリシャの歴史家のほとんどがアテネ人だったことを考えると当然ともいえる。アテネでは女性が大衆の目に触れることをよしとしなかったし、人々の口の端にかかることなどさらに許されなかったからだ。ペリクレスはかつて「女にとって最大の美徳は他者の話題に上らないことである。それは自らを賛美する言葉であっても批判する言葉であっても同様だ」と語ったというが、そうした認識から考えてもゴルゴーは異端の存在だったといえるだろう。

紀元前513年頃、ゴルゴーはアギス朝のスパルタ王クレオメネス1世の娘として生まれた。クレオメネスはスパルタを強権によって治めるだけでなく、アルゴスを侵略し、アテネの政策に干渉し、ペロポネソス同盟を設立するなど、無節操ともいえる外交政策を進めた人物だったが、ゴルゴーは愛する父から多くのことを学んだと思われる。彼女の少女時代についてはほとんどなにもわかっていないが、歴史家の文書にありがちな「絶世の美女であった」といった類の記述が見られないことからも、それほど変わったところのない娘だったのではないかと思われる。ただしミレトスのアリスタゴラスがクレオメネスのもとを訪れ、ペルシアに対するイオニア人の反乱を支援するよう要請した際に、ゴルゴーはこの男を信じないようにと助言している。そう考えると少女の頃からその賢さは際立っていたともいえる。いずれにせよ彼女が当時のスパルタの高貴な血筋の娘たちと同じように、読み書きや算術、舞踊、歌、(鞍をつけない状態での) 乗馬、二輪馬車の操縦などを習っていたことは確かであり、肉体的な鍛錬やレスリングといった現代人の目から見ると女性らしさに欠ける活動も日々奨励されていたはずである。

どのような個性を持っていたにせよ、ゴルゴーが自信にあふれ、歯に衣を着せずに物を言う典型的なスパルタの女であったことは確かである。ヘロドトスによると、ゴルゴーは大仰な振る舞いを嫌い、宮廷を訪れた人物が奴隷を使って身支度をしているのを見た際には「この人には手がないの?」と言ったという (ただしヘロドトスは伝聞をそのまま事実として伝えることも多かったため、こうしたエピソードの信憑性はさだかでない)。また大人になったゴルゴーが、優雅に着飾った男の訪問者に対し、「スパルタにおいては女の役すら果たせない人物」と非難したという逸話も残っている。

ゴルゴーは父が死亡した紀元前490年頃に、叔父にあたる (父クレオメネスとは異母兄弟) レオニダス1世と結婚したといわれている。スパルタには王が2人おり、民が2人の王に同時に仕えるという独特の体制をとっていた。2人の王は同等の権力を持っていたが、レオニダス1世がクレオメネスの跡をついでアギス朝の王となると、ゴルゴーは自分の夫をその影響力と決定力において、もうひとりの王レオテュキデスを上回らせることに成功する。そして軍事都市国家の王妃となったゴルゴーは、「賢女」としてスパルタに幾度も貢献することとなる。紀元前480年にギリシャはクセルクセス1世が率いるペルシアに侵略されたが、その少し前に当時亡命中だったデマラトスが、その計画をスパルタに知らせるために密使を送った。しかし届いたのはなにも書かれていない書板だったため、王も5人の行政官もその意味をはかりかねたが、ゴルゴーが板についたロウを削り取るようにと提案したことで、その真の内容が明らかとなった。このように彼女が宮廷において王やその他の者に助言をおこなったとされるエピソードは、歴史家の記述の中にいくつか見ることができる。

ゴルゴーはレオニダス1世との間にプレイスタルコスという子をもうけたが、それ以外に子供を産んだかどうかはわかっていない。レオニダス1世との結婚から彼がテルモピュライの戦いで命を落とすまでの期間を考えると、産んだ子供が1人だったとしても不思議はない。またヘレネ―などに代表される他のスパルタの王妃が不貞によって非難されることが多かったのに対し、ゴルゴーはその堅実で貞淑な姿勢がたびたび言及されている。ただし「真の男を産めるのはスパルタの女だけ」という彼女の有名な言葉が物語るように、スパルタ以外の人間を見下していた一面もあったことが想像できる。後世の歴史家プルタルコスによると、300人のスパルタ兵を率いて北上しようとしていた夫レオニダス1世に対し、自分はどうすればよいかとゴルゴーが訊ねたところ、死を覚悟していたレオニダスは「よき夫と結婚し、よき子供を産め」と言ったという。ただし彼女がその言葉に従ったかどうかはわかっていない。

ペルシア軍の侵攻の前後、都市国家による共同防衛体制を実現するべく奔走するレオニダス1世にともなって、ゴルゴーもまたギリシャの各地をまわったものと思われる。レオニダス1世はその統治期間のほぼすべてをスパルタ主導による同盟の設立についやし、とりわけ当時最強の海軍を有していたアテネとの同盟を重要視していた。アテネに到着したゴルゴーは大変な注目を集めたに違いない。当時のアテネでは結婚していようといまいと、女性が大衆に姿をさらすのはふしだらなことであると考えられていたが、ゴルゴーは自ら二輪馬車を操って街中を走り回ったという。さらにアテネの女性は顔と足先と手先をのぞき、身体のすべてを厚手の衣服で隠していたが、ゴルゴーが着ていたのは薄手の短いスカートと腕がむき出しになったチュニックという、スパルタの伝統的な女性服だった。これはスパルタの女性が当時の他の都市国家の女性には与えられていなかった地位と敬意を得ていたことを物語っており、レオニダス1世とゴルゴーがこうしたインパクトを自らの魅力として交渉に活用したことは間違いないだろう。

テルモピュライの戦いでレオニダス1世を含む300人のスパルタ兵が戦死すると、ゴルゴーの息子プレイスタルコスが王となった。ただし彼はまだ幼かったため、最初はその叔父が、そしてその次にはいとこが執政をつとめ、正式に即位したのは紀元前478年のことだった。その後ギリシャがペルシアと戦争を継続する間も、ゴルゴーは息子や執政官たちに助言をしていたものと思われるが、夫の死後、彼女は歴史家の記述から姿を消し、その最期についても記録は残っていない。
icon_leader_gorgo
都市はレンガの壁よりも、人の壁を用いたほうがよく守れる。

特性

文明

設定

アジェンダ
尚武の気質
和平交渉でけっして妥協せず、同じような姿勢の文明を好む。相手の要求をそのまま受け入れる文明や、一度も戦争をしたことのない文明を嫌う。この指導者に対する不平は、通常の倍の速度で薄らいでいく。
icon_leader_gorgo
都市はレンガの壁よりも、人の壁を用いたほうがよく守れる。

特性

文明

設定

アジェンダ
尚武の気質
和平交渉でけっして妥協せず、同じような姿勢の文明を好む。相手の要求をそのまま受け入れる文明や、一度も戦争をしたことのない文明を嫌う。この指導者に対する不平は、通常の倍の速度で薄らいでいく。
固有能力

テルモピュラエ

戦闘に勝利すると、倒したユニットの 戦闘力の50%に等しい 文化力を得る (標準のスピードで) 。スロットに入れた軍事政策ごとに 戦闘力+1。

概要
ギリシャ人ほど市民としての生き方に通じている者はいません。スパルタ人であるゴルゴーは、社会制度システムを柔軟に活用することで、あらゆる種類の勝利を目指すことができます。
詳細説明
ギリシャは、ゲーム序盤の 文化力産出量において他の文明に勝っています。ゴルゴーは、戦争で敵を倒したり、区域や遺産で囲まれた丘の上にアクロポリスを建てたりすることで、 文化力をさらに増やせます。また、ワイルドカード政策スロットが1つ与えられるので、ゲーム全体を通して政策面で優位に立てるでしょう。勝利のための戦略をいっそう強化する社会制度を研究すれば、必要な政策はひととおり整備されるはずです。政策面での柔軟性が高く、どのような勝利でも目指せますが、一番適しているのは文化による勝利です。
歴史的背景
ゴルゴーはスパルタの王の娘として生まれ、スパルタの王に嫁ぎ、スパルタの王を産んだ。古代ギリシャの歴史には女性がまったくといってよいほど登場しないことを考えると、彼女に関する記録がこれだけ残っているのは驚嘆すべきことかもしれない。ヘロドトス、クセノポン、トゥキュディデスといった者たちは、歴代の王妃に関してほとんど記録を残していないが、それは古代ギリシャの歴史家のほとんどがアテネ人だったことを考えると当然ともいえる。アテネでは女性が大衆の目に触れることをよしとしなかったし、人々の口の端にかかることなどさらに許されなかったからだ。ペリクレスはかつて「女にとって最大の美徳は他者の話題に上らないことである。それは自らを賛美する言葉であっても批判する言葉であっても同様だ」と語ったというが、そうした認識から考えてもゴルゴーは異端の存在だったといえるだろう。

紀元前513年頃、ゴルゴーはアギス朝のスパルタ王クレオメネス1世の娘として生まれた。クレオメネスはスパルタを強権によって治めるだけでなく、アルゴスを侵略し、アテネの政策に干渉し、ペロポネソス同盟を設立するなど、無節操ともいえる外交政策を進めた人物だったが、ゴルゴーは愛する父から多くのことを学んだと思われる。彼女の少女時代についてはほとんどなにもわかっていないが、歴史家の文書にありがちな「絶世の美女であった」といった類の記述が見られないことからも、それほど変わったところのない娘だったのではないかと思われる。ただしミレトスのアリスタゴラスがクレオメネスのもとを訪れ、ペルシアに対するイオニア人の反乱を支援するよう要請した際に、ゴルゴーはこの男を信じないようにと助言している。そう考えると少女の頃からその賢さは際立っていたともいえる。いずれにせよ彼女が当時のスパルタの高貴な血筋の娘たちと同じように、読み書きや算術、舞踊、歌、(鞍をつけない状態での) 乗馬、二輪馬車の操縦などを習っていたことは確かであり、肉体的な鍛錬やレスリングといった現代人の目から見ると女性らしさに欠ける活動も日々奨励されていたはずである。

どのような個性を持っていたにせよ、ゴルゴーが自信にあふれ、歯に衣を着せずに物を言う典型的なスパルタの女であったことは確かである。ヘロドトスによると、ゴルゴーは大仰な振る舞いを嫌い、宮廷を訪れた人物が奴隷を使って身支度をしているのを見た際には「この人には手がないの?」と言ったという (ただしヘロドトスは伝聞をそのまま事実として伝えることも多かったため、こうしたエピソードの信憑性はさだかでない)。また大人になったゴルゴーが、優雅に着飾った男の訪問者に対し、「スパルタにおいては女の役すら果たせない人物」と非難したという逸話も残っている。

ゴルゴーは父が死亡した紀元前490年頃に、叔父にあたる (父クレオメネスとは異母兄弟) レオニダス1世と結婚したといわれている。スパルタには王が2人おり、民が2人の王に同時に仕えるという独特の体制をとっていた。2人の王は同等の権力を持っていたが、レオニダス1世がクレオメネスの跡をついでアギス朝の王となると、ゴルゴーは自分の夫をその影響力と決定力において、もうひとりの王レオテュキデスを上回らせることに成功する。そして軍事都市国家の王妃となったゴルゴーは、「賢女」としてスパルタに幾度も貢献することとなる。紀元前480年にギリシャはクセルクセス1世が率いるペルシアに侵略されたが、その少し前に当時亡命中だったデマラトスが、その計画をスパルタに知らせるために密使を送った。しかし届いたのはなにも書かれていない書板だったため、王も5人の行政官もその意味をはかりかねたが、ゴルゴーが板についたロウを削り取るようにと提案したことで、その真の内容が明らかとなった。このように彼女が宮廷において王やその他の者に助言をおこなったとされるエピソードは、歴史家の記述の中にいくつか見ることができる。

ゴルゴーはレオニダス1世との間にプレイスタルコスという子をもうけたが、それ以外に子供を産んだかどうかはわかっていない。レオニダス1世との結婚から彼がテルモピュライの戦いで命を落とすまでの期間を考えると、産んだ子供が1人だったとしても不思議はない。またヘレネ―などに代表される他のスパルタの王妃が不貞によって非難されることが多かったのに対し、ゴルゴーはその堅実で貞淑な姿勢がたびたび言及されている。ただし「真の男を産めるのはスパルタの女だけ」という彼女の有名な言葉が物語るように、スパルタ以外の人間を見下していた一面もあったことが想像できる。後世の歴史家プルタルコスによると、300人のスパルタ兵を率いて北上しようとしていた夫レオニダス1世に対し、自分はどうすればよいかとゴルゴーが訊ねたところ、死を覚悟していたレオニダスは「よき夫と結婚し、よき子供を産め」と言ったという。ただし彼女がその言葉に従ったかどうかはわかっていない。

ペルシア軍の侵攻の前後、都市国家による共同防衛体制を実現するべく奔走するレオニダス1世にともなって、ゴルゴーもまたギリシャの各地をまわったものと思われる。レオニダス1世はその統治期間のほぼすべてをスパルタ主導による同盟の設立についやし、とりわけ当時最強の海軍を有していたアテネとの同盟を重要視していた。アテネに到着したゴルゴーは大変な注目を集めたに違いない。当時のアテネでは結婚していようといまいと、女性が大衆に姿をさらすのはふしだらなことであると考えられていたが、ゴルゴーは自ら二輪馬車を操って街中を走り回ったという。さらにアテネの女性は顔と足先と手先をのぞき、身体のすべてを厚手の衣服で隠していたが、ゴルゴーが着ていたのは薄手の短いスカートと腕がむき出しになったチュニックという、スパルタの伝統的な女性服だった。これはスパルタの女性が当時の他の都市国家の女性には与えられていなかった地位と敬意を得ていたことを物語っており、レオニダス1世とゴルゴーがこうしたインパクトを自らの魅力として交渉に活用したことは間違いないだろう。

テルモピュライの戦いでレオニダス1世を含む300人のスパルタ兵が戦死すると、ゴルゴーの息子プレイスタルコスが王となった。ただし彼はまだ幼かったため、最初はその叔父が、そしてその次にはいとこが執政をつとめ、正式に即位したのは紀元前478年のことだった。その後ギリシャがペルシアと戦争を継続する間も、ゴルゴーは息子や執政官たちに助言をしていたものと思われるが、夫の死後、彼女は歴史家の記述から姿を消し、その最期についても記録は残っていない。