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カトリーヌ・ド・メディシス (黒妃)

カトリーヌ・ド・メディシス (麗妃)

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ギターチャ

キュロス

ギルガメシュ

クレオパトラ (エジプト)

クレオパトラ (プトレマイオス朝)

ゴルゴー

サラディン (スルタン)

サラディン (宰相)

シモン・ボリバル

シャカ

ジャヤーヴァルマン7世

ジョアン3世

ジョン・カーティン

ソンドク

タマル

チャンドラグプタ

チンギス・ハン

テオドラ

テディ・ルーズベルト (ブルムース)

テディ・ルーズベルト (ラフライダー)

トミュリス

トラヤヌス

ナーディル・シャー

パウンドメーカー

バシレイオス2世

ハンムラビ

ピョートル

フェリペ2世

フビライ・ハン (モンゴル)

フビライ・ハン (中国)

ペドロ2世

ペリクレス

ムベンバ・ア・ンジンガ

メネリク2世

モンテスマ

ヤドヴィガ

ユリウス・カエサル

ラウタロ

ラムセス2世

ルートヴィヒ2世

レディ・シックス・スカイ

ロバート・ブルース

ンジンガ・ムバンデ

永楽帝

苛烈王ハーラル3世 (ヴァリャーギ)

苛烈王ハーラル3世 (王)

始皇帝 (天命)

始皇帝 (統一者)

世宗大王

赤髭王フリードリヒ1世

徳川家康

武則天

北条時宗

趙氏貞

チンギス・ハン
固有能力

モンゴル軍団

すべての騎兵型ユニットの 戦闘力+3。さらに、倒した敵の騎兵ユニットを一定の確率で捕獲する。

概要
チンギス・ハン率いる強大な騎兵軍団にとって、どこまでもつづく広大な草原地帯は、その力を発揮するのに絶好の場所です。
詳細説明
チンギス・ハンが早い段階で目指すべきことは2つあります。1つは近隣文明との交易、もう1つは 馬資源のある土地に都市を建設することです。交易施設を設けると、すぐさま近隣の様子が明らかになります。親しくすべき相手は誰で、征服すべきは誰か、見極めてください。兵営区域にオルドを築けば、騎乗ユニットの強化を図れます。この固有施設の特性を活かし、進軍速度を最大限に高めましょう。あとはあらゆる機会を見つけ、騎兵戦力を拡充させていくだけです。無敵の軍勢を編成し、大陸全土を席巻してください。
歴史的背景
チンギス・ハンはかつて2種類の旗を掲げた。1つは平和な時代に用いる白い馬の尾を用いた旗、もう1つはそれ以外の時代、すなわち戦時に掲げる黒い馬の尾を使った旗である。彼の死後、その魂は黒い旗に宿っているとされた。軍勢を率いてステップ地方を震えあがらせ、その名が「野蛮人」と同義になった男にふさわしい言い伝えかもしれない。

西暦1162年、中央アジアのブルカン・カルドゥンの近くで生まれた少年は、モンゴルの族長であった父イェスゲイから「テムジン」という名を与えられる。この名前は、イェスゲイが捕虜にした勇敢なタタール人にちなんだものだといわれている。母ホエルンは、イェスゲイが半ば連れ去るようにして娶った妻だったが、夫がタタール人に毒殺された後も、各地を流浪しながらテムジンと兄弟たちを育てあげた。

無論、テムジンはのちに父の仇を討った。

少年は、10歳になる前に父親の部族から追放され、16歳になる前に異母弟を殺し、コンギラト部族の娘ボルテと結婚した。その間ずっと母ホエルンは息子に対し、国の舵を取る方法や、味方に影響を与え、敵を操る方法を指南しつづけた。

こうした教えは、テムジンが20代の頃、かつては味方だったタイチウト氏族に捕らわれたときに役立った。彼はすぐさま難を逃れ、弟たちと共に軍勢を編成した。そして自ら襲撃の先頭に立ち、徐々に勢力を拡大していったのだ。彼はモンゴルの伝統を破り、血縁ではなく実力によって戦士たちを選り分けていった。腕の立つ者を見分けるのは、テムジンの得意とするところだった。

総勢2万の軍でタタール人を破り、父の仇を討ったテムジンは、のちに広く知られる容赦のない残酷さを見せる。身長90cm以上のタタール人男子全員の殺害を命じのだ。さらにこの後、彼は自分を奴隷扱いしたタイチウト氏族を倒し、全員を生きながら釜茹でにした。テムジンは息子たちの力も駆使し、版図の北西部を平定するために長男のジョチを派遣した。西暦1207年のことである。

敵を倒すことにかけて右に出る者のないその能力により、テムジンは草原に暮らす諸部族の統一を果たした。1206年、彼は「チンギス・ハン」、すなわち「世界を支配する者」という称号を授けられた。また財産や結婚にとどまらず、行政に関することまで定める聖なる法令集であるヤッサを定め、その執行を次男チャガタイに任せた。

ヤッサでは他人の妻を強奪することを禁じ、称号の相続も廃止するなど、部族間の争いの原因を排除した。彼には統べるべき帝国があり、内紛を許すわけにいかなかったのである。

彼はまた、臣民の信仰に関して寛容な態度をとった (チンギス・ハンを最高の権威と認め、服従する限りにおいてだが)。こうした方針により、神から授かったと称する彼の権力は確固たるものとなり、彼を怒らせることは神を怒らせることに等しい愚行となった。それがどういうことか、身をもって知ることになったのが、ペルシアの都市ブハラの民である。

1220年、モンゴル軍はこの都市を攻めた。発端は、君主であったアラーウッディーン・ムハンマドが、チンギス・ハンの大使や商人たちを処刑したことだった。攻囲は15日におよび、殺されなかった者は奴隷とされた。このときチンギス・ハンは、自らを「神の鞭」と称し、彼らを罰し処刑するために遣わされたのだと語ったという。

戦争に明け暮れた彼は、やがて陣中で命を落とすことになる。もっとも、それは60代に達してからのことだった。西夏への遠征の途上、彼はあろうことか落馬してしまい、結局この負傷が癒えぬまま没することになったのだ。この世を去る前に、彼は三男オゴデイに王位を譲った。そしてチンギス・ハンの死後も代々のハンは征服をつづけ、やがては東アジアからバルカン半島に至る大帝国を築いたのだった。
icon_leader_genghis_khan
馬に乗って世界を征服することはたやすい。しかし、馬を降りて統治するのは容易ではない。

特性

文明
icon_civilization_mongolia
モンゴル

設定

アジェンダ
騎馬王
世界一の騎兵戦力を持つ文明を目指す。騎兵の規模で競う相手を嫌い、そうでない文明に好意を示す。
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馬に乗って世界を征服することはたやすい。しかし、馬を降りて統治するのは容易ではない。

特性

文明
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モンゴル

設定

アジェンダ
騎馬王
世界一の騎兵戦力を持つ文明を目指す。騎兵の規模で競う相手を嫌い、そうでない文明に好意を示す。
固有能力

モンゴル軍団

すべての騎兵型ユニットの 戦闘力+3。さらに、倒した敵の騎兵ユニットを一定の確率で捕獲する。

概要
チンギス・ハン率いる強大な騎兵軍団にとって、どこまでもつづく広大な草原地帯は、その力を発揮するのに絶好の場所です。
詳細説明
チンギス・ハンが早い段階で目指すべきことは2つあります。1つは近隣文明との交易、もう1つは 馬資源のある土地に都市を建設することです。交易施設を設けると、すぐさま近隣の様子が明らかになります。親しくすべき相手は誰で、征服すべきは誰か、見極めてください。兵営区域にオルドを築けば、騎乗ユニットの強化を図れます。この固有施設の特性を活かし、進軍速度を最大限に高めましょう。あとはあらゆる機会を見つけ、騎兵戦力を拡充させていくだけです。無敵の軍勢を編成し、大陸全土を席巻してください。
歴史的背景
チンギス・ハンはかつて2種類の旗を掲げた。1つは平和な時代に用いる白い馬の尾を用いた旗、もう1つはそれ以外の時代、すなわち戦時に掲げる黒い馬の尾を使った旗である。彼の死後、その魂は黒い旗に宿っているとされた。軍勢を率いてステップ地方を震えあがらせ、その名が「野蛮人」と同義になった男にふさわしい言い伝えかもしれない。

西暦1162年、中央アジアのブルカン・カルドゥンの近くで生まれた少年は、モンゴルの族長であった父イェスゲイから「テムジン」という名を与えられる。この名前は、イェスゲイが捕虜にした勇敢なタタール人にちなんだものだといわれている。母ホエルンは、イェスゲイが半ば連れ去るようにして娶った妻だったが、夫がタタール人に毒殺された後も、各地を流浪しながらテムジンと兄弟たちを育てあげた。

無論、テムジンはのちに父の仇を討った。

少年は、10歳になる前に父親の部族から追放され、16歳になる前に異母弟を殺し、コンギラト部族の娘ボルテと結婚した。その間ずっと母ホエルンは息子に対し、国の舵を取る方法や、味方に影響を与え、敵を操る方法を指南しつづけた。

こうした教えは、テムジンが20代の頃、かつては味方だったタイチウト氏族に捕らわれたときに役立った。彼はすぐさま難を逃れ、弟たちと共に軍勢を編成した。そして自ら襲撃の先頭に立ち、徐々に勢力を拡大していったのだ。彼はモンゴルの伝統を破り、血縁ではなく実力によって戦士たちを選り分けていった。腕の立つ者を見分けるのは、テムジンの得意とするところだった。

総勢2万の軍でタタール人を破り、父の仇を討ったテムジンは、のちに広く知られる容赦のない残酷さを見せる。身長90cm以上のタタール人男子全員の殺害を命じのだ。さらにこの後、彼は自分を奴隷扱いしたタイチウト氏族を倒し、全員を生きながら釜茹でにした。テムジンは息子たちの力も駆使し、版図の北西部を平定するために長男のジョチを派遣した。西暦1207年のことである。

敵を倒すことにかけて右に出る者のないその能力により、テムジンは草原に暮らす諸部族の統一を果たした。1206年、彼は「チンギス・ハン」、すなわち「世界を支配する者」という称号を授けられた。また財産や結婚にとどまらず、行政に関することまで定める聖なる法令集であるヤッサを定め、その執行を次男チャガタイに任せた。

ヤッサでは他人の妻を強奪することを禁じ、称号の相続も廃止するなど、部族間の争いの原因を排除した。彼には統べるべき帝国があり、内紛を許すわけにいかなかったのである。

彼はまた、臣民の信仰に関して寛容な態度をとった (チンギス・ハンを最高の権威と認め、服従する限りにおいてだが)。こうした方針により、神から授かったと称する彼の権力は確固たるものとなり、彼を怒らせることは神を怒らせることに等しい愚行となった。それがどういうことか、身をもって知ることになったのが、ペルシアの都市ブハラの民である。

1220年、モンゴル軍はこの都市を攻めた。発端は、君主であったアラーウッディーン・ムハンマドが、チンギス・ハンの大使や商人たちを処刑したことだった。攻囲は15日におよび、殺されなかった者は奴隷とされた。このときチンギス・ハンは、自らを「神の鞭」と称し、彼らを罰し処刑するために遣わされたのだと語ったという。

戦争に明け暮れた彼は、やがて陣中で命を落とすことになる。もっとも、それは60代に達してからのことだった。西夏への遠征の途上、彼はあろうことか落馬してしまい、結局この負傷が癒えぬまま没することになったのだ。この世を去る前に、彼は三男オゴデイに王位を譲った。そしてチンギス・ハンの死後も代々のハンは征服をつづけ、やがては東アジアからバルカン半島に至る大帝国を築いたのだった。
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