コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
パウンドメーカー (ピティクワハナピウィン)
固有能力

有利な条件

すべての種類の同盟が視野を共有する。
パウンドメーカーは自文明から他文明に向かう 交易路の目的地にあるキャンプまたは牧草地1つにつき 食料+1。自文明の都市を目指す 交易路は、目的地にあるキャンプまたは牧草地1つにつき ゴールド+1をパウンドメーカーにもたらす。

概要
クリーはゲーム序盤に大変な強さを発揮します。この文明が持つ交易の才を活かせば、序盤の優位を後々まで維持できるでしょう。
詳細説明
クリーにとって、最初に訓練すべき軍事ユニットは、難しい選択ではありません。固有ユニットのオキチタウは、最初から無償のレベルアップを1つ持ち、探索にかけてはあらゆる文明の中で随一の偵察ユニットです。戦闘力も通常の斥候より高いので、戦士なしでも最初の都市を守れるかもしれません。「陶磁器」の技術を速やかに完成させることも、クリーにとっては当然の選択です。これによって序盤から交易路を開設し、他文明の都市 (特に何もしなくても、オキチタウが見つけてくれるはずです) と交易できるようになります。その過程で領土も広げられるでしょう。パウンドメーカーは商人としても交渉者としても優秀です。キャンパスや牧草地のある都市と交易すれば、さらに収益を増やせます。ゲームが中盤以降に入り、他文明の行動を把握することが必須になった後は、友好的な同盟を結んで世界を広く見渡せることが非常に大きな意味を持ちます。
歴史的背景
パウンドメーカーはクリー族が危機に瀕していた当時の長である。カナダ政府との和平、ひいては民族の生き残りに全身全霊で努力したが、望みなき話し合いに臨まざるをえず、その結果を不当に糾弾され、裏切り者の汚名を着せられることになった。

パウンドメーカーは1842年ごろ、現在のサスカチュワン州バトルフォードの近隣で、ストーニー族のシャーマンとメティ (先住民とヨーロッパ人の混血) の女性の間に生まれた。多くの証言によると、父親は有名な「バイソン呼び」だった。これは読んで字のごとく、バイソンを囲い (パウンド) に呼び入れる者のことである。パウンドメーカーも父親からこの技術を譲り受けていたといわれている。また、すぐれた演説家としても認められていた。

バイソンの囲いは円形をしており、入口からなだれ込んだバイソンが勝手には出られない構造になっていた。バイソン呼びは群れの先頭に立つメスを歌や呪文で誘導した。いったん囲いの中に入れてしまえば、猟師にとってバイソンを仕留めるのは容易いことだ。。群れを崖に追い詰めて突き落としていた昔のバイソン猟と比べれば格段の進歩である。バイソンを興奮させることが少ない点も猟師にとっては好都合だった。実利的な面からも、部族にとっての精神的重要性の観点からも、バイソン呼びは大いに尊敬されていた。

1873年、パウンドメーカーはブラックフット族の指導者クロウフットの養子になる。クロウフットはクリー族とブラックフット族の和解をはじめ、悲惨な争いと対立の時代に終止符を打った人物である。クロウフットの妻はパウンドメーカーを目にして、数年前にクリー族の戦士に殺された我が子に似ていることに衝撃を受けた。養子としてクロウフットに迎えられた後、パウンドメーカーは「細足のオオカミ」 (マコイコヒン) という名を与えられ、数年にわたって生活を共にした。これによって彼の立場はクリー族とブラックフット族の両方で高まり、パウンドメーカーはクリー族の相談役兼副族長となった。

1876年8月、クリー族とカナダ政府の間で、いわゆる「第6条約」に関して、徹底した話し合いの場が持たれた。交渉はフォート・カールトンでおこなわれた。この席上でのパウンドメーカーは、懐疑派の筆頭だった。彼は条件の内容に異議を唱え、飢餓条項の導入を強く働きかけた。また、クリー族が農業や交易を学ぶための支援も訴えた。最終的にパウンドメーカーは第6条約に調印したが、1879年まで彼はバイソン狩りをつづけ、国境を越えてアメリカ合衆国に足を踏み入れることもあった。

そうやって入り込んだモンタナ州で、パウンドメーカーの一隊は合衆国騎兵隊と小競り合いを起こした。彼らはカナダへ引き返し、バトル川とカットナイフ川の合流地点にある居留地に退いた。当初は居留地に疑念を抱き、そこで暮らすことを渋っていたパウンドメーカーだが、やがて農耕によって自給自足するすべを身につけるため、あらゆる努力を惜しまなくなる。政府からの配給に頼ることを彼は好しとしなかったのだ。

1881年、パウンドメーカーはバトルフォードからカルガリーまで、カナダ総督の通訳兼案内役を務めた。彼の非暴力思想と文化的知識に、総督一行は大いに感銘を受けたといわれている。パウンドメーカー自身も、カナダ政府が本気を出せばどれだけの力を行使しうるか、認識を新たにしたようだ。その後もなく彼は、白人の入植の流れはもはや止めようがなく、対立するのは危険だと説き、同胞に平和を促すようになった。

しかし彼の平和への尽力は、間もなく試練に直面する。1883年、物的支援の不足、担当省庁の人員削減、そして1884年にかけての冬の厳しさにより、飢えと自暴自棄が先住民の間に蔓延したのである。1884年6月、指導者的な立場にあった若い戦士たちが率いる主戦派が集結した。そこにクリーの指導者ビッグ・ベア率いる勢力も合流し、状況を話し合うべくパウンドメーカーの居留地で「サーストダンス」の儀式がはじまった。

北西騎馬警官隊 (NWMP) がこの集会を解散させようとしたがかなわず、援軍がバトルフォード地域に派遣された。さらに、先住民の男が居留地の役人を襲ったとして、NWMPが逮捕にやってきたが、パウンドメーカーとビッグ・ベアは、ダンスがつづいている間は無理だとして身柄の引き渡しを拒否。双方は膠着状態に陥る。こうした出来事により、クリー族と政府の間の信頼は次第に損なわれていった。

一度失われた信用を取り戻すのは容易ではなく、事態は悪化の一途をたどろうとしていた。1885年、メティの指導者であるルイ・リエルが追放先のモンタナから戻ると、各地でクリー族、アシニボイン族、メティが蜂起。ダック・レイクでメティが勝利したとの知らせが届くに至り、パウンドメーカーとクリー族は大きな選択を迫られることになった。

クリー族の戦士たちはリエルの反乱に加わりたがっていたが、パウンドメーカーは戦いに引きずりこまれることを避けたいと考えていた。ストーニー族の一部と合流したのち、パウンドメーカーは同胞たちを率いてバトルフォードに向かった。彼はそこで平和の継続を訴え、食糧や物資の支援について新たな約束を取りつけるつもりだった。ところがバトルフォードに着いてみると、入植者たちは既に街を引き払っていた。パウンドメーカーの努力もむなしく、街は略奪され、一行は居留地に戻った。

1885年5月2日の朝、パウンドメーカーこそ反乱の首謀者であると考えていたオッター中佐率いる政府軍が、パウンドメーカーの野営地を襲撃した。激しい戦闘の末、オッターは退却を余儀なくされた。クリー族とストーニー族の戦士たちは敵を追撃しようとしたが、パウンドメーカーがそれを阻んだため、さらなる流血は避けられた。その後、同胞たちが政府軍の補給部隊を襲って物資を手に入れた際も、パウンドメーカーは御者たちが殺されないよう手を尽くした。

それから間もなく、ルイ・リエルがバトッシュの戦いで敗北したとの知らせが届く。「ノースウェストの反乱」は事実上この時点で終結した。パウンドメーカーは、ルイ・コーチンという神父に手紙を送り、政府軍にも和平会談を希望する旨を知らせた。5月26日、パウンドメーカー率いる一隊は、降伏の条件を話し合うため、再びバトルフォードの地を踏んだ。

しかし政府側の雰囲気は話し合いどころではなかった。砦に入ったとたん、パウンドメーカーたちは政府反逆罪によって拘束されてしまう。パウンドメーカーはレジャイナに送られ、そこで形だけの裁判にかけられることになった。わずか30分の審議のあと、陪審団が下したのは有罪の判決だった。3年の禁固刑を言い渡されたパウンドメーカーは、ストーニー・マウンテン刑務所で1年服役したあとで仮釈放されたが、刑務所暮らしで彼は肉体的にも精神的にもボロボロになっていた。それから間もなく、ブラックフットの居留地に養父クロウフットを訪ねる途中、肺出血でパウンドメーカーはこの世を去った。

パウンドメーカーの歴史的評価は死後すみやかに回復された。クリー族と政府の間に永続的かつ公正な平和を築こうとしつづけた態度や先見性が認められたのである。彼はその生涯において、先住民族同士の争いを終わらせる平和の使者として働いた。また、カナダ政府と誠意を持って交渉し、融和的なアプローチを打ち立てようと奔走した。さらには、不満の爆発と政府に対する暴動が報復のスパイラルに陥らないよう、死力を尽くして鎮静化に務めた。現在では、クリー族とカナダの人々のいずれもが、ひとしく彼の偉業を称えている。
icon_leader_poundmaker
もし私にやましいことがあるなら、どうしてお前の前に顔を出せようか。

特性

文明

設定

アジェンダ
鉄の同盟
複数の同盟を結ぶことに腐心する。同じようにふるまう文明に敬意を払う。同盟が少ない相手を嫌う。
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もし私にやましいことがあるなら、どうしてお前の前に顔を出せようか。

特性

文明

設定

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鉄の同盟
複数の同盟を結ぶことに腐心する。同じようにふるまう文明に敬意を払う。同盟が少ない相手を嫌う。
固有能力

有利な条件

すべての種類の同盟が視野を共有する。
パウンドメーカーは自文明から他文明に向かう 交易路の目的地にあるキャンプまたは牧草地1つにつき 食料+1。自文明の都市を目指す 交易路は、目的地にあるキャンプまたは牧草地1つにつき ゴールド+1をパウンドメーカーにもたらす。

概要
クリーはゲーム序盤に大変な強さを発揮します。この文明が持つ交易の才を活かせば、序盤の優位を後々まで維持できるでしょう。
詳細説明
クリーにとって、最初に訓練すべき軍事ユニットは、難しい選択ではありません。固有ユニットのオキチタウは、最初から無償のレベルアップを1つ持ち、探索にかけてはあらゆる文明の中で随一の偵察ユニットです。戦闘力も通常の斥候より高いので、戦士なしでも最初の都市を守れるかもしれません。「陶磁器」の技術を速やかに完成させることも、クリーにとっては当然の選択です。これによって序盤から交易路を開設し、他文明の都市 (特に何もしなくても、オキチタウが見つけてくれるはずです) と交易できるようになります。その過程で領土も広げられるでしょう。パウンドメーカーは商人としても交渉者としても優秀です。キャンパスや牧草地のある都市と交易すれば、さらに収益を増やせます。ゲームが中盤以降に入り、他文明の行動を把握することが必須になった後は、友好的な同盟を結んで世界を広く見渡せることが非常に大きな意味を持ちます。
歴史的背景
パウンドメーカーはクリー族が危機に瀕していた当時の長である。カナダ政府との和平、ひいては民族の生き残りに全身全霊で努力したが、望みなき話し合いに臨まざるをえず、その結果を不当に糾弾され、裏切り者の汚名を着せられることになった。

パウンドメーカーは1842年ごろ、現在のサスカチュワン州バトルフォードの近隣で、ストーニー族のシャーマンとメティ (先住民とヨーロッパ人の混血) の女性の間に生まれた。多くの証言によると、父親は有名な「バイソン呼び」だった。これは読んで字のごとく、バイソンを囲い (パウンド) に呼び入れる者のことである。パウンドメーカーも父親からこの技術を譲り受けていたといわれている。また、すぐれた演説家としても認められていた。

バイソンの囲いは円形をしており、入口からなだれ込んだバイソンが勝手には出られない構造になっていた。バイソン呼びは群れの先頭に立つメスを歌や呪文で誘導した。いったん囲いの中に入れてしまえば、猟師にとってバイソンを仕留めるのは容易いことだ。。群れを崖に追い詰めて突き落としていた昔のバイソン猟と比べれば格段の進歩である。バイソンを興奮させることが少ない点も猟師にとっては好都合だった。実利的な面からも、部族にとっての精神的重要性の観点からも、バイソン呼びは大いに尊敬されていた。

1873年、パウンドメーカーはブラックフット族の指導者クロウフットの養子になる。クロウフットはクリー族とブラックフット族の和解をはじめ、悲惨な争いと対立の時代に終止符を打った人物である。クロウフットの妻はパウンドメーカーを目にして、数年前にクリー族の戦士に殺された我が子に似ていることに衝撃を受けた。養子としてクロウフットに迎えられた後、パウンドメーカーは「細足のオオカミ」 (マコイコヒン) という名を与えられ、数年にわたって生活を共にした。これによって彼の立場はクリー族とブラックフット族の両方で高まり、パウンドメーカーはクリー族の相談役兼副族長となった。

1876年8月、クリー族とカナダ政府の間で、いわゆる「第6条約」に関して、徹底した話し合いの場が持たれた。交渉はフォート・カールトンでおこなわれた。この席上でのパウンドメーカーは、懐疑派の筆頭だった。彼は条件の内容に異議を唱え、飢餓条項の導入を強く働きかけた。また、クリー族が農業や交易を学ぶための支援も訴えた。最終的にパウンドメーカーは第6条約に調印したが、1879年まで彼はバイソン狩りをつづけ、国境を越えてアメリカ合衆国に足を踏み入れることもあった。

そうやって入り込んだモンタナ州で、パウンドメーカーの一隊は合衆国騎兵隊と小競り合いを起こした。彼らはカナダへ引き返し、バトル川とカットナイフ川の合流地点にある居留地に退いた。当初は居留地に疑念を抱き、そこで暮らすことを渋っていたパウンドメーカーだが、やがて農耕によって自給自足するすべを身につけるため、あらゆる努力を惜しまなくなる。政府からの配給に頼ることを彼は好しとしなかったのだ。

1881年、パウンドメーカーはバトルフォードからカルガリーまで、カナダ総督の通訳兼案内役を務めた。彼の非暴力思想と文化的知識に、総督一行は大いに感銘を受けたといわれている。パウンドメーカー自身も、カナダ政府が本気を出せばどれだけの力を行使しうるか、認識を新たにしたようだ。その後もなく彼は、白人の入植の流れはもはや止めようがなく、対立するのは危険だと説き、同胞に平和を促すようになった。

しかし彼の平和への尽力は、間もなく試練に直面する。1883年、物的支援の不足、担当省庁の人員削減、そして1884年にかけての冬の厳しさにより、飢えと自暴自棄が先住民の間に蔓延したのである。1884年6月、指導者的な立場にあった若い戦士たちが率いる主戦派が集結した。そこにクリーの指導者ビッグ・ベア率いる勢力も合流し、状況を話し合うべくパウンドメーカーの居留地で「サーストダンス」の儀式がはじまった。

北西騎馬警官隊 (NWMP) がこの集会を解散させようとしたがかなわず、援軍がバトルフォード地域に派遣された。さらに、先住民の男が居留地の役人を襲ったとして、NWMPが逮捕にやってきたが、パウンドメーカーとビッグ・ベアは、ダンスがつづいている間は無理だとして身柄の引き渡しを拒否。双方は膠着状態に陥る。こうした出来事により、クリー族と政府の間の信頼は次第に損なわれていった。

一度失われた信用を取り戻すのは容易ではなく、事態は悪化の一途をたどろうとしていた。1885年、メティの指導者であるルイ・リエルが追放先のモンタナから戻ると、各地でクリー族、アシニボイン族、メティが蜂起。ダック・レイクでメティが勝利したとの知らせが届くに至り、パウンドメーカーとクリー族は大きな選択を迫られることになった。

クリー族の戦士たちはリエルの反乱に加わりたがっていたが、パウンドメーカーは戦いに引きずりこまれることを避けたいと考えていた。ストーニー族の一部と合流したのち、パウンドメーカーは同胞たちを率いてバトルフォードに向かった。彼はそこで平和の継続を訴え、食糧や物資の支援について新たな約束を取りつけるつもりだった。ところがバトルフォードに着いてみると、入植者たちは既に街を引き払っていた。パウンドメーカーの努力もむなしく、街は略奪され、一行は居留地に戻った。

1885年5月2日の朝、パウンドメーカーこそ反乱の首謀者であると考えていたオッター中佐率いる政府軍が、パウンドメーカーの野営地を襲撃した。激しい戦闘の末、オッターは退却を余儀なくされた。クリー族とストーニー族の戦士たちは敵を追撃しようとしたが、パウンドメーカーがそれを阻んだため、さらなる流血は避けられた。その後、同胞たちが政府軍の補給部隊を襲って物資を手に入れた際も、パウンドメーカーは御者たちが殺されないよう手を尽くした。

それから間もなく、ルイ・リエルがバトッシュの戦いで敗北したとの知らせが届く。「ノースウェストの反乱」は事実上この時点で終結した。パウンドメーカーは、ルイ・コーチンという神父に手紙を送り、政府軍にも和平会談を希望する旨を知らせた。5月26日、パウンドメーカー率いる一隊は、降伏の条件を話し合うため、再びバトルフォードの地を踏んだ。

しかし政府側の雰囲気は話し合いどころではなかった。砦に入ったとたん、パウンドメーカーたちは政府反逆罪によって拘束されてしまう。パウンドメーカーはレジャイナに送られ、そこで形だけの裁判にかけられることになった。わずか30分の審議のあと、陪審団が下したのは有罪の判決だった。3年の禁固刑を言い渡されたパウンドメーカーは、ストーニー・マウンテン刑務所で1年服役したあとで仮釈放されたが、刑務所暮らしで彼は肉体的にも精神的にもボロボロになっていた。それから間もなく、ブラックフットの居留地に養父クロウフットを訪ねる途中、肺出血でパウンドメーカーはこの世を去った。

パウンドメーカーの歴史的評価は死後すみやかに回復された。クリー族と政府の間に永続的かつ公正な平和を築こうとしつづけた態度や先見性が認められたのである。彼はその生涯において、先住民族同士の争いを終わらせる平和の使者として働いた。また、カナダ政府と誠意を持って交渉し、融和的なアプローチを打ち立てようと奔走した。さらには、不満の爆発と政府に対する暴動が報復のスパイラルに陥らないよう、死力を尽くして鎮静化に務めた。現在では、クリー族とカナダの人々のいずれもが、ひとしく彼の偉業を称えている。