コンセプト
文明/指導者
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区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
フェリペ2世
固有能力

エル・エスコリアル

審問官が異端の排除を1回多くおこなえる。異なる宗教を信奉するプレイヤーとの戦闘時に、戦闘ユニットと宗教ユニットが 戦闘力+5のボーナスを得る。

概要
フェリペ2世も巨大な海洋帝国を率いる指導者ですが、イギリスと違い、スペインが目指すのは宗教による勝利です。
詳細説明
フェリペ2世の望みは、自分が愛するカトリックをすべての者が信仰するようになることです。大陸の沿岸に小さな国を築き、新たな入植先を求めて航海に出ることを彼は夢見ています。しかし、平和に入植できる土地が他の大陸を探してもみつからない場合には、コンキスタドールを使って力づくで足がかりを築こうとするでしょう。ひとたび足がかりができれば、伝道所や財宝船団といった文明固有の能力により、他国の存在から富を得られるようになります。全世界が自分と同じ宗教を信じるようになるまで、彼が布教の手を緩めることはありません。
歴史的背景
ハプスブルク家の歴代当主たちのおかげで、フェリペ (出生時の名前) は世界の大部分を相続した。その所有地は、ヨーロッパの重要な土地の大半だけでなく、ヨーロッパ人が知っていたすべての大陸まで及んでいた (ここには彼にちなんで名付けられたフィリピン諸島も含まれていた)。71年の人生において、フェリペは名高い専制君主であっただけでなく、音楽や芸術を愛した文人でもあった。彼はサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル (マドリード郊外の宮殿) に美術品や稀少な本をコレクションしたが、その規模は世界最大級だった。信仰が篤かったフェリペは、エスコリアルにジェロニモス修道院やアウグスチノ修道会が運営する学院を併設し、所蔵する聖遺物箱はバチカンにつぐ数となった。スペインの黄金時代は彼の生涯と重なっているが、それはいくつかの明らかな理由があった。

1527年5月、「銀のスプーン」どころではない富をもって生まれたフェリペは、神聖ローマ皇帝カール5世とポルトガル王女イサベラの息子である。生後11ヶ月のときにカスティーリャのコルテス (身分制議会) から誓約を受け、その将来は保証された。宮廷で養育され、フアン・シリセオ
(のちにトレドの大司教となる) や人本主義者のフアン・ド・エストレラから教育を施された。軍事に関しては、カスティーリャの司令官兼市長だったフアン・ド・ズニガと、有名なアルバ公の手ほどきを受け、1542年のイタリア戦争には、アルバ公の部下として参加している。

病床にあった皇帝は、息子の用意が整っていると確信し、その多くの王位をフェリペに譲っていった。最初に渡されたのは、1554年のシチリア島とナポリの王位だった。すでにミラノ公だったフェリペ2世は、27歳にして王となった。1555年、カール5世はオランダ総督を退いて修道院へ入り、以後はフェリペがその地を治めることを広く世に知らしめた。カール5世はその後の1558年1月、スペイン帝国の玉座もあっさりと退いている。これによりフィリペは文字どおり太陽の沈まぬ帝国を支配することになった。

ナバラ州に兵を駐留させてアラゴンの法を犯したり、パンプローナでカスティーリャの役人を不正に指名した件で彼と対立したアラゴンの法務長官が処刑されるといった不愉快な事件もありはしたが (彼はスペインの法をうっとうしく思っていたようである)、フェリペ2世の治世の初期は穏やかなものだった。しかし彼が王権神授説を固く信じていたことは間違いない。神が自分をスペインの王にした。神が間違うはずはない。よって王も間違わない。これが彼の3段論法だった。

1度目の結婚は1543年で、相手はいとこであったポルトガル王女マリアだった。マリアは2年後の出産時に亡くなり、その不幸な子ドン・カルロスは父の命でのちにマドリードのアルカサル宮殿に幽閉され、6ヶ月後に死亡した。10年後にフェリペはイングランド女王メアリー1世 (「血塗れのメアリー」として有名) と結婚し、イングランドとアイルランドの女王の配偶者となったが、メアリーは1558年に死去。メアリーが葬られたのは、次の妻ヴァロワ朝のエリザベート (フランス王アンリ2世の娘) が1559年にカトー・カンブレジ条約を結び、スペインとフランスの戦争を終結させる直前のことだった。エリザベートはフェリペ2世との間に2人の娘をもうけたが、1568年に亡くなった。フェリペは婚姻関係を再び家系の内部に留め、1570年に姪のアナ・デ・アウストリアと結婚した。彼女は10年後に亡くなるが、男子の後継者を産んでおり、その子がフェリペ3世となる。

しかし、スペインに変化をもたらしたのは、フェリペ2世と別の女性との間に発生した諸問題だった。フェリペ2世はヘンリー8世の長女、チューダー朝のメアリー1世と結婚したことから、イングランドの王にもなっていた――少なくとも本人はそう考えていた。メアリー1世が死去すると、頑迷なイングランド人はフェリペ2世を迎えず、エリザベス1世を王位に就かせたため、フェリペ2世は怒りを覚えた。さらに悪いことに、エリザベス1世は父の創始したイギリス国教会を奨励し、血塗れのメアリーが復権させていたカトリックを廃止しようとした。イングランドは再びプロテスタント国家となり、これにもフェリペ2世は我慢ならなかった。その上、エリザベス1世は新世界の植民地化を推進し… スペインの船舶を襲うイギリスの「海賊」を暗黙のうちに支援していたのだ。もはやこれで怒るなというほうが無理である。

その後、1585年にエリザベス1世がスペインの支配に対して反乱を起こしたプロテスタント国オランダに兵を送ると、これが最後のきっかけとなった。2年後、エリザベス1世のお気に入りだったフランシス・ドレイクがスペインの港カディスへの襲撃を成功させ、フェリペ2世の軍艦を複数破壊した。フェリペ2世は艦隊を再建すると、1588年7月に「無敵艦隊」を出発させた… しかし、これは純然たる失敗だった。そして、パワーバランスはプロテスタントのイングランドへと傾いた。無敵艦隊はさらに3度編成されたが、1596年と1597年に編成された艦隊は敗北し、1599年に編成された艦隊はイングランドの襲撃を退けるためにアゾレス諸島へと差し向けなければならなかった。英西戦争はその後もつづき、フェリペ2世とエリザベス1世の両者が没した後の1604年、まとまりのない形で終結した。

スペインは弱体化し、フェリペ2世は増えつづる困難に直面した。オランダでの反乱、地中海でのオスマン帝国との戦争、フランスでの宗教戦争、各所での議会の動揺、教皇の要請によるイタリア戦争の難局、植民地での社会不安… その上彼は資金難にも陥っていた。カール5世はフェリペ2世に3600万ダカットという借金と毎年100万ダカットという赤字財政を押しつけてこの世を去ったのだ。実際、フェリペ2世は1596年までに4回も債務不履行に陥っている。国外からの歳入が減少する一方 (一部はイングランドの海賊のせいだ)、数多くの戦争に関与していたせいで、事態は悪化する一方だった。一部の歴史学者は、フェリペ2世の財政上の苦難が、次の世紀にスペインが大国から転落したことに大きく関与していると考えている。

フェリペ2世はヨーロッパで最も強力な君主という立場を維持していたが、1598年9月にエル・エスコリアルで病に倒れたのも無理なからぬことではある。彼がその病床から立ち上がることは二度となかった。
icon_leader_philip_ii
いつの日か、世界地図を見ても世界地図の体をなさないことになるだろう。なぜならそれはスペイン地図になるのだから。

特性

文明

設定

アジェンダ
対抗宗教改革者
同じ宗教を信仰する文明を好み、その文明の街でも同じ宗教を信仰することを望む。また自分の帝国に他の宗教を広めようとする文明を憎む。
宗教
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いつの日か、世界地図を見ても世界地図の体をなさないことになるだろう。なぜならそれはスペイン地図になるのだから。

特性

文明

設定

アジェンダ
対抗宗教改革者
同じ宗教を信仰する文明を好み、その文明の街でも同じ宗教を信仰することを望む。また自分の帝国に他の宗教を広めようとする文明を憎む。
宗教
固有能力

エル・エスコリアル

審問官が異端の排除を1回多くおこなえる。異なる宗教を信奉するプレイヤーとの戦闘時に、戦闘ユニットと宗教ユニットが 戦闘力+5のボーナスを得る。

概要
フェリペ2世も巨大な海洋帝国を率いる指導者ですが、イギリスと違い、スペインが目指すのは宗教による勝利です。
詳細説明
フェリペ2世の望みは、自分が愛するカトリックをすべての者が信仰するようになることです。大陸の沿岸に小さな国を築き、新たな入植先を求めて航海に出ることを彼は夢見ています。しかし、平和に入植できる土地が他の大陸を探してもみつからない場合には、コンキスタドールを使って力づくで足がかりを築こうとするでしょう。ひとたび足がかりができれば、伝道所や財宝船団といった文明固有の能力により、他国の存在から富を得られるようになります。全世界が自分と同じ宗教を信じるようになるまで、彼が布教の手を緩めることはありません。
歴史的背景
ハプスブルク家の歴代当主たちのおかげで、フェリペ (出生時の名前) は世界の大部分を相続した。その所有地は、ヨーロッパの重要な土地の大半だけでなく、ヨーロッパ人が知っていたすべての大陸まで及んでいた (ここには彼にちなんで名付けられたフィリピン諸島も含まれていた)。71年の人生において、フェリペは名高い専制君主であっただけでなく、音楽や芸術を愛した文人でもあった。彼はサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル (マドリード郊外の宮殿) に美術品や稀少な本をコレクションしたが、その規模は世界最大級だった。信仰が篤かったフェリペは、エスコリアルにジェロニモス修道院やアウグスチノ修道会が運営する学院を併設し、所蔵する聖遺物箱はバチカンにつぐ数となった。スペインの黄金時代は彼の生涯と重なっているが、それはいくつかの明らかな理由があった。

1527年5月、「銀のスプーン」どころではない富をもって生まれたフェリペは、神聖ローマ皇帝カール5世とポルトガル王女イサベラの息子である。生後11ヶ月のときにカスティーリャのコルテス (身分制議会) から誓約を受け、その将来は保証された。宮廷で養育され、フアン・シリセオ
(のちにトレドの大司教となる) や人本主義者のフアン・ド・エストレラから教育を施された。軍事に関しては、カスティーリャの司令官兼市長だったフアン・ド・ズニガと、有名なアルバ公の手ほどきを受け、1542年のイタリア戦争には、アルバ公の部下として参加している。

病床にあった皇帝は、息子の用意が整っていると確信し、その多くの王位をフェリペに譲っていった。最初に渡されたのは、1554年のシチリア島とナポリの王位だった。すでにミラノ公だったフェリペ2世は、27歳にして王となった。1555年、カール5世はオランダ総督を退いて修道院へ入り、以後はフェリペがその地を治めることを広く世に知らしめた。カール5世はその後の1558年1月、スペイン帝国の玉座もあっさりと退いている。これによりフィリペは文字どおり太陽の沈まぬ帝国を支配することになった。

ナバラ州に兵を駐留させてアラゴンの法を犯したり、パンプローナでカスティーリャの役人を不正に指名した件で彼と対立したアラゴンの法務長官が処刑されるといった不愉快な事件もありはしたが (彼はスペインの法をうっとうしく思っていたようである)、フェリペ2世の治世の初期は穏やかなものだった。しかし彼が王権神授説を固く信じていたことは間違いない。神が自分をスペインの王にした。神が間違うはずはない。よって王も間違わない。これが彼の3段論法だった。

1度目の結婚は1543年で、相手はいとこであったポルトガル王女マリアだった。マリアは2年後の出産時に亡くなり、その不幸な子ドン・カルロスは父の命でのちにマドリードのアルカサル宮殿に幽閉され、6ヶ月後に死亡した。10年後にフェリペはイングランド女王メアリー1世 (「血塗れのメアリー」として有名) と結婚し、イングランドとアイルランドの女王の配偶者となったが、メアリーは1558年に死去。メアリーが葬られたのは、次の妻ヴァロワ朝のエリザベート (フランス王アンリ2世の娘) が1559年にカトー・カンブレジ条約を結び、スペインとフランスの戦争を終結させる直前のことだった。エリザベートはフェリペ2世との間に2人の娘をもうけたが、1568年に亡くなった。フェリペは婚姻関係を再び家系の内部に留め、1570年に姪のアナ・デ・アウストリアと結婚した。彼女は10年後に亡くなるが、男子の後継者を産んでおり、その子がフェリペ3世となる。

しかし、スペインに変化をもたらしたのは、フェリペ2世と別の女性との間に発生した諸問題だった。フェリペ2世はヘンリー8世の長女、チューダー朝のメアリー1世と結婚したことから、イングランドの王にもなっていた――少なくとも本人はそう考えていた。メアリー1世が死去すると、頑迷なイングランド人はフェリペ2世を迎えず、エリザベス1世を王位に就かせたため、フェリペ2世は怒りを覚えた。さらに悪いことに、エリザベス1世は父の創始したイギリス国教会を奨励し、血塗れのメアリーが復権させていたカトリックを廃止しようとした。イングランドは再びプロテスタント国家となり、これにもフェリペ2世は我慢ならなかった。その上、エリザベス1世は新世界の植民地化を推進し… スペインの船舶を襲うイギリスの「海賊」を暗黙のうちに支援していたのだ。もはやこれで怒るなというほうが無理である。

その後、1585年にエリザベス1世がスペインの支配に対して反乱を起こしたプロテスタント国オランダに兵を送ると、これが最後のきっかけとなった。2年後、エリザベス1世のお気に入りだったフランシス・ドレイクがスペインの港カディスへの襲撃を成功させ、フェリペ2世の軍艦を複数破壊した。フェリペ2世は艦隊を再建すると、1588年7月に「無敵艦隊」を出発させた… しかし、これは純然たる失敗だった。そして、パワーバランスはプロテスタントのイングランドへと傾いた。無敵艦隊はさらに3度編成されたが、1596年と1597年に編成された艦隊は敗北し、1599年に編成された艦隊はイングランドの襲撃を退けるためにアゾレス諸島へと差し向けなければならなかった。英西戦争はその後もつづき、フェリペ2世とエリザベス1世の両者が没した後の1604年、まとまりのない形で終結した。

スペインは弱体化し、フェリペ2世は増えつづる困難に直面した。オランダでの反乱、地中海でのオスマン帝国との戦争、フランスでの宗教戦争、各所での議会の動揺、教皇の要請によるイタリア戦争の難局、植民地での社会不安… その上彼は資金難にも陥っていた。カール5世はフェリペ2世に3600万ダカットという借金と毎年100万ダカットという赤字財政を押しつけてこの世を去ったのだ。実際、フェリペ2世は1596年までに4回も債務不履行に陥っている。国外からの歳入が減少する一方 (一部はイングランドの海賊のせいだ)、数多くの戦争に関与していたせいで、事態は悪化する一方だった。一部の歴史学者は、フェリペ2世の財政上の苦難が、次の世紀にスペインが大国から転落したことに大きく関与していると考えている。

フェリペ2世はヨーロッパで最も強力な君主という立場を維持していたが、1598年9月にエル・エスコリアルで病に倒れたのも無理なからぬことではある。彼がその病床から立ち上がることは二度となかった。