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資源
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総督
歴史的瞬間
ヤドヴィガ
固有能力

リトアニア連合

隣接し、かつポーランドの文化爆弾でタイルを失った都市において、ポーランドの創始した宗教が主流になる。聖地は隣接する区域から通常の信仰力ボーナスを得る。すべての 遺物と 英雄の遺物が 信仰力+2、 文化力+4、 ゴールド+4のボーナスをもたらす。

概要
ヤドヴィガのポーランドは、軍事と宗教の両方に強みを持ち、様々な局面に対応できます。都市を築く際は、ヤドヴィガの治める都市に近づきすぎないようにしましょう。あまり近くに入植すると、「要塞」や「兵営」による文化爆弾によって国境付近のタイルを奪われてしまいます。
詳細説明
ポーランドは多面的な文明であり、別の用途に役立てることも可能な優れた軍事能力を有しています。軍事政策スロットの1つがワイルドカードスロットに変換されているため、他の文明より一足早く大預言者を獲得して宗教を創始できます。さらに、要塞や兵営を築くと、「文化爆弾」によって無償でタイルを手に入れることができます。ヤドヴィガの治めるこの国にタイルを奪われた都市は、彼女が信じる宗教に改宗させられてしまいます。たとえヤドヴィガが軍事を重視し、軍事スロットのある政府を選んで国境の守りを固めたとしても、ポーランドの宗教や経済の力はやはり侮れません。
歴史的背景
14世紀後半のポーランドにおいて、王の三女が婚姻による同盟によって国の未来を左右することになると予想できた者は、おそらく誰もいなかったろう。しかしその短い生涯において、敬虔なヤドヴィガがポーランドのすべてを統治したのは、紛れもない事実である。無私でありながら抜け目のない彼女は、苦悩する民を、共通の、そして理解しやすい信仰によってまとめようと努めた。

ヤドヴィガは、1373年、ボスニア太守の娘エリザベタとハンガリー・ポーランド王ラヨシュ1世の間に生まれた。ブダとヴィシェグラードの宮廷で育てられた彼女は、教養に富み、5つの言語を流暢に操る、非常に信心深い人物であったという。1382年にラヨシュ王が崩御すると王位をめぐる争いが起きたが、母エリザベタは幼いヤドヴィガをクラクフに送り、その争いを終息させた。その優しさでポーランドの人々に愛され、その信仰でカトリック教会に推され、その物腰の柔らかさで頑固なポーランド貴族たちにも認められた王女ヤドヴィガは、1384年、11歳にして大ポーランド王国の王となった。

彼女が即位したのは危険に満ちた時代だった。彼女よりカジミェシュとの血縁が薄い者たちが、あきらめることなく王位を狙っていたからである。なお悪いことに、ポーランドはドイツ諸邦やモスクワ大公国の支配者たちにも脅かされており、モンゴルやタタールの侵略を受ける可能性もあった。味方の力を強め、ポーランドの未来を守るため、ヤドヴィガはリトアニア大公ヨガイラとの結婚を決める。その条件としてヨガイラに (そしてその国民に) 求められたのは、カトリックへの改宗だった。

かくしてヤドヴィガは、1386年、洗礼を受けたばかりのヨガイラと結婚した。愛国的なポーランド国民の心証をよくするため、ヨガイラはすぐにポーランド風の名前であるヴワディスワフ2世を名乗り、それからすぐに「妻の権利によって」王となった。リトアニアが「エルサレムのドイツ人の聖母マリア騎士修道会」(別名「チュートン騎士団」) の侵略を受ける2日前のことである。この騎士団はカジミェシュに奪われた土地の奪回を大義名分として掲げていたが、実際のところ、荒らすのはどの土地でもよかったのだ。

ポーランド王ヤドヴィガは、リトアニアにキリスト教を普及させた人物でもある。彼女は改宗に難色を示すリトアニアの聖職者たちと何度も会合を重ね、彼らにキリスト教の教義を説きつづけた。こうした活動においては、夫のヴワディスワフ2世も大きく貢献した。彼は、故国で「聖なる場所」 (もちろん異教にとっての聖なる場所だ) としてあがめられていた林の木を、自分の手で切り倒したともいわれている。ヤドヴィガは毎年私財を投じて20人のリトアニア人をプラハ・カレル大学で学ばせ、こうした者たちが故国に戻って信仰の普及にあたれるようにした。また、異教の中心となっていたヴィルニュスには司教区を創設した。

ヤドヴィガとヴワディスワフは、共同統治者として目覚ましい成果をあげた。外交的な義務としてチュートン騎士団の総長に会った際、ヤドヴィガの敬虔さに打たれた彼は血と欲にまみれた己の騎士団を恥じ、一時的に略奪をやめたとまで言われている。彼女はまた、夫ヴワディスワフを、その従弟でリトアニアの王位を狙っていたヴィータウタスと和解させてもいる。1387年、ヤドヴィガはハンガリー領だったルテニアを奪回するため、2度にわたって軍勢を派遣した。戦闘はあまり起きなかったが、ヤドヴィガの努力によってこの地域はポーランドの手に戻り、モルダヴィアの君主ペトル1世はポーランドの君主に敬意を払ったという。

文化的に洗練された人物だったヤドヴィガは、民衆の啓蒙活動にも力をそそぎ、多くのポーランド人の芸術家や著述家の後援者となっただけでなく、クラクフ大学を復活させることでポーランドの文化の向上に大きく貢献した。ヤドヴィガが私財を投じたおかげで大学は経営を成り立たせることができ、在籍していた学生たちは天文学、法学、神学を学べたのである。他にもヤドヴィガは、信仰のさらなる普及を促すため、ラテン語聖書をポーランドの自国語に翻訳させている。

ヤドヴィガの統治は長くはなかった。1399年、彼女は初めての子となる娘を出産したが、それから1ヶ月もたたないうちに母子は分娩後の合併症で命を落としたのである。ヤドヴィガの生涯は25年でしかなかったが、その半分は王としての人生だった。リトアニアとの絆を強めることで、彼女は両国の未来を確かなものとしたのである。共同統治者だったヴワディスワフは、妻の死後、さらに35年ポーランドとリトアニアを統治した。

ヤドヴィガはヴァヴェル大聖堂の石棺で永遠の眠りについたが、その眠りはあまり安らかなものではなかったかもしれない。やがて国民が彼女の高潔さを讃えるようになり、その神聖さを伝える物語が、彼女が起こしたとされる奇跡と共に、国中に広まっていったからだ。ある話では、黒い十字架にかけられたキリストが、祈りを捧げている彼女に語りかけてきたとされている。またある話では、ヤドヴィガが貧しい石工に宝石を与えてその場を去ると、固い漆喰の床に彼女の足跡が残っていたという。「コルプス・クリスティ」(「キリストの体」の意) の行進に加わっていたヤドヴィガが、近くで溺れた銅職人の息子にマントを投げかけて生き返らせたという話もある。これら3つの奇跡が認められ、1997年、カトリック教会は彼女を公式に聖女とした。
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神につかえる者は、よき主人を持つ者である。

特性

文明

設定

アジェンダ
聖人
信仰力を高めることを重視し、同じように 信仰力の強化に注力する文明を好む。
宗教
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神につかえる者は、よき主人を持つ者である。

特性

文明

設定

アジェンダ
聖人
信仰力を高めることを重視し、同じように 信仰力の強化に注力する文明を好む。
宗教
固有能力

リトアニア連合

隣接し、かつポーランドの文化爆弾でタイルを失った都市において、ポーランドの創始した宗教が主流になる。聖地は隣接する区域から通常の信仰力ボーナスを得る。すべての 遺物と 英雄の遺物が 信仰力+2、 文化力+4、 ゴールド+4のボーナスをもたらす。

概要
ヤドヴィガのポーランドは、軍事と宗教の両方に強みを持ち、様々な局面に対応できます。都市を築く際は、ヤドヴィガの治める都市に近づきすぎないようにしましょう。あまり近くに入植すると、「要塞」や「兵営」による文化爆弾によって国境付近のタイルを奪われてしまいます。
詳細説明
ポーランドは多面的な文明であり、別の用途に役立てることも可能な優れた軍事能力を有しています。軍事政策スロットの1つがワイルドカードスロットに変換されているため、他の文明より一足早く大預言者を獲得して宗教を創始できます。さらに、要塞や兵営を築くと、「文化爆弾」によって無償でタイルを手に入れることができます。ヤドヴィガの治めるこの国にタイルを奪われた都市は、彼女が信じる宗教に改宗させられてしまいます。たとえヤドヴィガが軍事を重視し、軍事スロットのある政府を選んで国境の守りを固めたとしても、ポーランドの宗教や経済の力はやはり侮れません。
歴史的背景
14世紀後半のポーランドにおいて、王の三女が婚姻による同盟によって国の未来を左右することになると予想できた者は、おそらく誰もいなかったろう。しかしその短い生涯において、敬虔なヤドヴィガがポーランドのすべてを統治したのは、紛れもない事実である。無私でありながら抜け目のない彼女は、苦悩する民を、共通の、そして理解しやすい信仰によってまとめようと努めた。

ヤドヴィガは、1373年、ボスニア太守の娘エリザベタとハンガリー・ポーランド王ラヨシュ1世の間に生まれた。ブダとヴィシェグラードの宮廷で育てられた彼女は、教養に富み、5つの言語を流暢に操る、非常に信心深い人物であったという。1382年にラヨシュ王が崩御すると王位をめぐる争いが起きたが、母エリザベタは幼いヤドヴィガをクラクフに送り、その争いを終息させた。その優しさでポーランドの人々に愛され、その信仰でカトリック教会に推され、その物腰の柔らかさで頑固なポーランド貴族たちにも認められた王女ヤドヴィガは、1384年、11歳にして大ポーランド王国の王となった。

彼女が即位したのは危険に満ちた時代だった。彼女よりカジミェシュとの血縁が薄い者たちが、あきらめることなく王位を狙っていたからである。なお悪いことに、ポーランドはドイツ諸邦やモスクワ大公国の支配者たちにも脅かされており、モンゴルやタタールの侵略を受ける可能性もあった。味方の力を強め、ポーランドの未来を守るため、ヤドヴィガはリトアニア大公ヨガイラとの結婚を決める。その条件としてヨガイラに (そしてその国民に) 求められたのは、カトリックへの改宗だった。

かくしてヤドヴィガは、1386年、洗礼を受けたばかりのヨガイラと結婚した。愛国的なポーランド国民の心証をよくするため、ヨガイラはすぐにポーランド風の名前であるヴワディスワフ2世を名乗り、それからすぐに「妻の権利によって」王となった。リトアニアが「エルサレムのドイツ人の聖母マリア騎士修道会」(別名「チュートン騎士団」) の侵略を受ける2日前のことである。この騎士団はカジミェシュに奪われた土地の奪回を大義名分として掲げていたが、実際のところ、荒らすのはどの土地でもよかったのだ。

ポーランド王ヤドヴィガは、リトアニアにキリスト教を普及させた人物でもある。彼女は改宗に難色を示すリトアニアの聖職者たちと何度も会合を重ね、彼らにキリスト教の教義を説きつづけた。こうした活動においては、夫のヴワディスワフ2世も大きく貢献した。彼は、故国で「聖なる場所」 (もちろん異教にとっての聖なる場所だ) としてあがめられていた林の木を、自分の手で切り倒したともいわれている。ヤドヴィガは毎年私財を投じて20人のリトアニア人をプラハ・カレル大学で学ばせ、こうした者たちが故国に戻って信仰の普及にあたれるようにした。また、異教の中心となっていたヴィルニュスには司教区を創設した。

ヤドヴィガとヴワディスワフは、共同統治者として目覚ましい成果をあげた。外交的な義務としてチュートン騎士団の総長に会った際、ヤドヴィガの敬虔さに打たれた彼は血と欲にまみれた己の騎士団を恥じ、一時的に略奪をやめたとまで言われている。彼女はまた、夫ヴワディスワフを、その従弟でリトアニアの王位を狙っていたヴィータウタスと和解させてもいる。1387年、ヤドヴィガはハンガリー領だったルテニアを奪回するため、2度にわたって軍勢を派遣した。戦闘はあまり起きなかったが、ヤドヴィガの努力によってこの地域はポーランドの手に戻り、モルダヴィアの君主ペトル1世はポーランドの君主に敬意を払ったという。

文化的に洗練された人物だったヤドヴィガは、民衆の啓蒙活動にも力をそそぎ、多くのポーランド人の芸術家や著述家の後援者となっただけでなく、クラクフ大学を復活させることでポーランドの文化の向上に大きく貢献した。ヤドヴィガが私財を投じたおかげで大学は経営を成り立たせることができ、在籍していた学生たちは天文学、法学、神学を学べたのである。他にもヤドヴィガは、信仰のさらなる普及を促すため、ラテン語聖書をポーランドの自国語に翻訳させている。

ヤドヴィガの統治は長くはなかった。1399年、彼女は初めての子となる娘を出産したが、それから1ヶ月もたたないうちに母子は分娩後の合併症で命を落としたのである。ヤドヴィガの生涯は25年でしかなかったが、その半分は王としての人生だった。リトアニアとの絆を強めることで、彼女は両国の未来を確かなものとしたのである。共同統治者だったヴワディスワフは、妻の死後、さらに35年ポーランドとリトアニアを統治した。

ヤドヴィガはヴァヴェル大聖堂の石棺で永遠の眠りについたが、その眠りはあまり安らかなものではなかったかもしれない。やがて国民が彼女の高潔さを讃えるようになり、その神聖さを伝える物語が、彼女が起こしたとされる奇跡と共に、国中に広まっていったからだ。ある話では、黒い十字架にかけられたキリストが、祈りを捧げている彼女に語りかけてきたとされている。またある話では、ヤドヴィガが貧しい石工に宝石を与えてその場を去ると、固い漆喰の床に彼女の足跡が残っていたという。「コルプス・クリスティ」(「キリストの体」の意) の行進に加わっていたヤドヴィガが、近くで溺れた銅職人の息子にマントを投げかけて生き返らせたという話もある。これら3つの奇跡が認められ、1997年、カトリック教会は彼女を公式に聖女とした。