コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
キュロス
固有能力

バビロン陥落

有力な文明に奇襲戦争を宣言してから10ターンの間、 移動力+2。占領中の都市に守備隊ユニットがいると忠誠心+5。奇襲戦争を宣言しても戦争による疲労と好戦性ペナルティが増加しない (正式に宣戦布告した場合と同じ)。

概要
キュロスは奇襲戦争をしかけて帝国の版図を広げる好機を見逃しません。ひとたび侵略された土地は、高度に整備された道路網によって結ばれたペルシアの都市ネットワークに、またたくまに組み込まれることでしょう。
詳細説明
ペルシアは自文明の都市同士の交易についてボーナスが得られるので、その力を最大限に発揮させるには、都市と都市の間に 交易路を張りめぐらせる必要があります。固有ユニットである「不死隊」と高度な道路網は、あらゆる脅威に即応可能な防衛体制の構築にも有効です。自文明内での交易とパイリダエーザによって得られる 文化力ボーナスを活かせば、社会制度に関してはあらゆる文明中でトップクラスの発展速度を実現できます。そうして構築した強固な帝国の外部へキュロスが打って出るのは、版図の拡大が必要だと考えたときに限られるでしょう。とはいえ、キュロスには奇襲戦争をしかけることでボーナスを得られる固有能力があるので、周辺の文明はくれぐれも警戒する必要があります。
歴史的背景
ペルシアの最初の王であるキュロス2世にまつわる逸話は、もはや伝説の域に達している。彼は紀元前600年または紀元前576年に (古代の暦の不正確さから、後世の歴史家はどちらの年か決めかねている)、アンシャン王カンビュセスとメディア王アステュアゲスの娘マンダネの間に生まれた。言い伝えによると、祖父アステュアゲスはいつの日か孫に王座を奪われるという夢を繰り返し見たため、ついにはその夢を信じるようになったという。このメディア王にとって権力は血縁より大切なものだった。王は身ごもっていた娘を呼び出し、赤ん坊が生まれたらすぐ殺すよう命じた。その役目を任されたのは羊飼いのミトリダテスという男だったが、彼は生まれたばかりのキュロスを殺さず、自分の息子の1人として育てた。ヘロドトスは、キュロスが10歳になったとき、その出自の秘密が明らかになったと記している。露見のきっかけは、彼の振る舞いが「あまりにも高貴であった」ことだった。内戦が起きるのをよしとせず、娘婿カンビュセスとの対立も望まなかったアステュアゲスは、キュロスをペルシアにいる実の親のもとへと返した。

自らの孫を危険視したアステュアゲスは正しかった。キュロスの父が死んだのは紀元前551年のことだが、彼は紀元前559年にはすでに王位に就いていた。それまでの王たちと同様、キュロスもメディア王の存在を強く意識していた… そして紀元前553年、奇襲という形で祖父に反旗を翻したのである。彼はさまざまな部族 (アケメネス朝に属する妻カッサンダネの親族を含む) の力を結集し、幾度かの戦いを経てメディアを撃破。紀元前549年にはその首都エクバタナを制圧した。紀元前546年にメディアの王冠を受諾したキュロスは、「ペルシア王」を名乗った。その後アステュアゲスがどうなったのか歴史は記録していないが、自分の殺害を命じられた羊飼いの養子になったという可能性は低いだろう。

メディア征服はキュロスの血なまぐさい歴史の序章にすぎなかった。祖父アステュアゲスは、バビロンのナボニドゥス、エジプトのイアフメネス、義理の兄弟にあたるリディアのクロイソスと同盟を結んでいたからである。アステュアゲスの敗北から1年と経たずして、リディアが兵を挙げた。キュロスは自国の隅々から兵士を徴発し、ペテイラでの戦いを痛み分けにもちこむと、逆にリディアの首都サルデスに攻め込み、前線にラクダを投入するという作戦でリディアの誇る騎兵に完勝した。ヘロドトスによると、キュロスはクロイソスの命を助け、軍師として信を置いたという。もっとも、『ナボニドゥスの年代記』の記述は正反対で、こちらにはキュロスは敗軍の王を裏切り、その命を奪ったと記されている。

クロイソスの財宝は莫大であったのだろう。それを宮殿に運ぶ役目を負っていた役人がメディアで起こした反乱を鎮めた後、キュロスのペルシア軍はバビロニアに向かい、その途中でエラム国の首都を制圧した。紀元前540年の10月初旬ごろ、キュロスはバビロンのすぐ北、チグリス川の岸にあるオピスの街の近くでバビロニアに決戦を強いることに成功する。バビロニア軍は完敗を喫し、ナボニドゥスは逃走。キュロスは停戦交渉を取りまとめ、無抵抗でシッパルに足を踏み入れた。そしてバビロンに達したキュロスは、既存の大水路を利用してユーフラテス川を迂回し、川岸に沿って兵を進ませた。兵士たちは夜陰に乗じて都市を襲い、手薄な守りを蹴散らしてナボニドゥスを「拘束」するに至った (『ナボニドゥスの年代記』によると、彼は追放されはしたものの、近隣のカルマニアでキュロスの監視を受けながら生きることを許されたという)。

攻め落としたバビロニアを領土に加えたのち、キュロスはシリア、ユダヤ、そしてペトラエアでも領土を広げていった。これに意を得た彼は、自らを「バビロンの王、シュメールとアッカドの王、世界の隅々を統べる王」と称するようになる。この尊称は、バビロニアの主神マルドゥクを祀るエサギラの神殿で見つかった「キュロスの円筒」に刻まれていた有名な (あるいは悪名高い) 碑文によって知られている。この円筒は、ナボニドゥスを不信心の輩として糾弾し、キュロスを「マルドゥクを喜ばせる者」として描いているほか、彼がバビロニア人の暮らしを改善したこと、禁じられていた神殿と教団を再興したこと、故郷を追われた人々を帰国させたこと (実際、キュロスは紀元前538年に捕囚となっていたユダヤ人をユダに戻すよう命じている) などについても記している。

一部の歴史家や妄想家のなかには、この円筒を人類初期の人権憲章と見る向きもある。しかしほとんどの学者は、メソポタミアの長く続いた伝統を踏まえてこの円筒を解釈している。すなわち、新たな指導者 (とりわけ、不人気な王が倒れたあとに現れた指導者) が統治をはじめるにあたり、その寛大さと改革を宣言したものがこの碑文だというのである。

晩年のキュロスは、アケメネス朝の基盤を安定させることに尽力した。征服から間もない土地で反乱が起きるのを防ぐため、彼は多くの貴族が政府の役人になることを許すとともに、ペルシアの貴族と同等の地位を与えた。さらに、被征服地の制度を残し、自治に近い形での統治も認めた。また、各地の土着の宗教には、いっさい口を挟まなかった (これはきわめて賢明な判断だった)。そして中央アジアの遊牧民から国を守るため、東の国境に沿って堅牢な要塞都市をいくつも築かせた。首都パサルガダエに効率の良い中央政府を設け、地域の長老を介して統治をおこなうということもしている。要するに彼は、自ら征服した広大な領土をまとめあげ、「帝国」のようなものへと変貌させたのである。

キュロスの死についてはさまざまな説がある。ヘロドトスによれば (彼の物語にはだいたい異説があるのだが)、彼の裏切りに憤慨したスキタイの女王にして戦士であるトミュリスの手にかかって殺されたという (この説については、シヴィロペディアのトミュリスの項に解説がある)。ヘロドトスよりは信憑性が落ちるものの、クテシアスは自著
『ペルシア誌』で、キュロスはダービスの抵抗勢力を鎮圧する途中で殺されたと主張している。ベロッソスが唱えている説は、このペルシア王はシルダリヤ川源流北西のダアイ族の射手たちと戦って死んだというものだ。もう1つ、クセノフォンの『キュロスの教育』に記されているものとして、首都での休養中に穏やかに亡くなったという説も紹介しておこう。いずれにしても、キュロスの亡骸は、パサルガダエにある石灰岩の陵墓に葬られた (だとすると、クセノフォンの説が正しいのかもしれない)。多くの者が、この墓はかつての都の遺跡のどこかに今も眠っていると考えている。
icon_leader_default
敵の誹謗に心を乱すな。味方の賛辞に惑わされるな。信じられるものは己自身をおいて他にない。

特性

文明

設定

アジェンダ
機を見るに敏
奇襲戦争を宣言する指導者を好み、そうでない指導者を好まない。
宗教
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敵の誹謗に心を乱すな。味方の賛辞に惑わされるな。信じられるものは己自身をおいて他にない。

特性

文明

設定

アジェンダ
機を見るに敏
奇襲戦争を宣言する指導者を好み、そうでない指導者を好まない。
宗教
固有能力

バビロン陥落

有力な文明に奇襲戦争を宣言してから10ターンの間、 移動力+2。占領中の都市に守備隊ユニットがいると忠誠心+5。奇襲戦争を宣言しても戦争による疲労と好戦性ペナルティが増加しない (正式に宣戦布告した場合と同じ)。

概要
キュロスは奇襲戦争をしかけて帝国の版図を広げる好機を見逃しません。ひとたび侵略された土地は、高度に整備された道路網によって結ばれたペルシアの都市ネットワークに、またたくまに組み込まれることでしょう。
詳細説明
ペルシアは自文明の都市同士の交易についてボーナスが得られるので、その力を最大限に発揮させるには、都市と都市の間に 交易路を張りめぐらせる必要があります。固有ユニットである「不死隊」と高度な道路網は、あらゆる脅威に即応可能な防衛体制の構築にも有効です。自文明内での交易とパイリダエーザによって得られる 文化力ボーナスを活かせば、社会制度に関してはあらゆる文明中でトップクラスの発展速度を実現できます。そうして構築した強固な帝国の外部へキュロスが打って出るのは、版図の拡大が必要だと考えたときに限られるでしょう。とはいえ、キュロスには奇襲戦争をしかけることでボーナスを得られる固有能力があるので、周辺の文明はくれぐれも警戒する必要があります。
歴史的背景
ペルシアの最初の王であるキュロス2世にまつわる逸話は、もはや伝説の域に達している。彼は紀元前600年または紀元前576年に (古代の暦の不正確さから、後世の歴史家はどちらの年か決めかねている)、アンシャン王カンビュセスとメディア王アステュアゲスの娘マンダネの間に生まれた。言い伝えによると、祖父アステュアゲスはいつの日か孫に王座を奪われるという夢を繰り返し見たため、ついにはその夢を信じるようになったという。このメディア王にとって権力は血縁より大切なものだった。王は身ごもっていた娘を呼び出し、赤ん坊が生まれたらすぐ殺すよう命じた。その役目を任されたのは羊飼いのミトリダテスという男だったが、彼は生まれたばかりのキュロスを殺さず、自分の息子の1人として育てた。ヘロドトスは、キュロスが10歳になったとき、その出自の秘密が明らかになったと記している。露見のきっかけは、彼の振る舞いが「あまりにも高貴であった」ことだった。内戦が起きるのをよしとせず、娘婿カンビュセスとの対立も望まなかったアステュアゲスは、キュロスをペルシアにいる実の親のもとへと返した。

自らの孫を危険視したアステュアゲスは正しかった。キュロスの父が死んだのは紀元前551年のことだが、彼は紀元前559年にはすでに王位に就いていた。それまでの王たちと同様、キュロスもメディア王の存在を強く意識していた… そして紀元前553年、奇襲という形で祖父に反旗を翻したのである。彼はさまざまな部族 (アケメネス朝に属する妻カッサンダネの親族を含む) の力を結集し、幾度かの戦いを経てメディアを撃破。紀元前549年にはその首都エクバタナを制圧した。紀元前546年にメディアの王冠を受諾したキュロスは、「ペルシア王」を名乗った。その後アステュアゲスがどうなったのか歴史は記録していないが、自分の殺害を命じられた羊飼いの養子になったという可能性は低いだろう。

メディア征服はキュロスの血なまぐさい歴史の序章にすぎなかった。祖父アステュアゲスは、バビロンのナボニドゥス、エジプトのイアフメネス、義理の兄弟にあたるリディアのクロイソスと同盟を結んでいたからである。アステュアゲスの敗北から1年と経たずして、リディアが兵を挙げた。キュロスは自国の隅々から兵士を徴発し、ペテイラでの戦いを痛み分けにもちこむと、逆にリディアの首都サルデスに攻め込み、前線にラクダを投入するという作戦でリディアの誇る騎兵に完勝した。ヘロドトスによると、キュロスはクロイソスの命を助け、軍師として信を置いたという。もっとも、『ナボニドゥスの年代記』の記述は正反対で、こちらにはキュロスは敗軍の王を裏切り、その命を奪ったと記されている。

クロイソスの財宝は莫大であったのだろう。それを宮殿に運ぶ役目を負っていた役人がメディアで起こした反乱を鎮めた後、キュロスのペルシア軍はバビロニアに向かい、その途中でエラム国の首都を制圧した。紀元前540年の10月初旬ごろ、キュロスはバビロンのすぐ北、チグリス川の岸にあるオピスの街の近くでバビロニアに決戦を強いることに成功する。バビロニア軍は完敗を喫し、ナボニドゥスは逃走。キュロスは停戦交渉を取りまとめ、無抵抗でシッパルに足を踏み入れた。そしてバビロンに達したキュロスは、既存の大水路を利用してユーフラテス川を迂回し、川岸に沿って兵を進ませた。兵士たちは夜陰に乗じて都市を襲い、手薄な守りを蹴散らしてナボニドゥスを「拘束」するに至った (『ナボニドゥスの年代記』によると、彼は追放されはしたものの、近隣のカルマニアでキュロスの監視を受けながら生きることを許されたという)。

攻め落としたバビロニアを領土に加えたのち、キュロスはシリア、ユダヤ、そしてペトラエアでも領土を広げていった。これに意を得た彼は、自らを「バビロンの王、シュメールとアッカドの王、世界の隅々を統べる王」と称するようになる。この尊称は、バビロニアの主神マルドゥクを祀るエサギラの神殿で見つかった「キュロスの円筒」に刻まれていた有名な (あるいは悪名高い) 碑文によって知られている。この円筒は、ナボニドゥスを不信心の輩として糾弾し、キュロスを「マルドゥクを喜ばせる者」として描いているほか、彼がバビロニア人の暮らしを改善したこと、禁じられていた神殿と教団を再興したこと、故郷を追われた人々を帰国させたこと (実際、キュロスは紀元前538年に捕囚となっていたユダヤ人をユダに戻すよう命じている) などについても記している。

一部の歴史家や妄想家のなかには、この円筒を人類初期の人権憲章と見る向きもある。しかしほとんどの学者は、メソポタミアの長く続いた伝統を踏まえてこの円筒を解釈している。すなわち、新たな指導者 (とりわけ、不人気な王が倒れたあとに現れた指導者) が統治をはじめるにあたり、その寛大さと改革を宣言したものがこの碑文だというのである。

晩年のキュロスは、アケメネス朝の基盤を安定させることに尽力した。征服から間もない土地で反乱が起きるのを防ぐため、彼は多くの貴族が政府の役人になることを許すとともに、ペルシアの貴族と同等の地位を与えた。さらに、被征服地の制度を残し、自治に近い形での統治も認めた。また、各地の土着の宗教には、いっさい口を挟まなかった (これはきわめて賢明な判断だった)。そして中央アジアの遊牧民から国を守るため、東の国境に沿って堅牢な要塞都市をいくつも築かせた。首都パサルガダエに効率の良い中央政府を設け、地域の長老を介して統治をおこなうということもしている。要するに彼は、自ら征服した広大な領土をまとめあげ、「帝国」のようなものへと変貌させたのである。

キュロスの死についてはさまざまな説がある。ヘロドトスによれば (彼の物語にはだいたい異説があるのだが)、彼の裏切りに憤慨したスキタイの女王にして戦士であるトミュリスの手にかかって殺されたという (この説については、シヴィロペディアのトミュリスの項に解説がある)。ヘロドトスよりは信憑性が落ちるものの、クテシアスは自著
『ペルシア誌』で、キュロスはダービスの抵抗勢力を鎮圧する途中で殺されたと主張している。ベロッソスが唱えている説は、このペルシア王はシルダリヤ川源流北西のダアイ族の射手たちと戦って死んだというものだ。もう1つ、クセノフォンの『キュロスの教育』に記されているものとして、首都での休養中に穏やかに亡くなったという説も紹介しておこう。いずれにしても、キュロスの亡骸は、パサルガダエにある石灰岩の陵墓に葬られた (だとすると、クセノフォンの説が正しいのかもしれない)。多くの者が、この墓はかつての都の遺跡のどこかに今も眠っていると考えている。