コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
ヴィクトリア
固有能力

パクス・ブリタニカ

自文明の首都が存在しない大陸で建設したすべての都市が、近接戦闘ユニット1つを無償で得る。王立海軍造船所をその都市に建設すると、さらに近接戦闘ユニット1つが無償でもたらされる。「軍事学」技術を研究すると、固有ユニット「レッドコート」が手に入る。

概要
ヴィクトリア女王は礼儀正しくて穏やかな淑女ですが、彼女の大陸進出を阻んだりすれば、その態度は一変します。ヴィクトリアはそこまで寛容ではないのです。
詳細説明
イギリス (とヴィクトリア) には、その威信を全大陸に示すだけの力があります。彼女はまず王立海軍造船所とシー
ドッグを利用して海の覇権を握ろうとするでしょう。そして産業時代にはレッドコートを各地に派遣し、全世界で確固たる地位を築こうとするはずです。こうして獲得した海外領土に考古学の効果が2倍になる能力が組み合わされば、文化による勝利の達成は難しいことではありません。
歴史的背景
アルバート公子と結婚し、9人の子の母、42人の孫の祖母となり (結果的にウィンザー家はヨーロッパのほぼすべての君主と関係をもった)、波乱の時代に63年にわたって大英帝国を治めることになるヴィクトリアは、幼い頃から王位継承の第1候補として育てられた。彼女は自分の少女時代を「あまり浮かなかった」と表現している。母は非常に過保護で、ヴィクトリアは、「ケンジントン・システム」という行動のあらゆる面を律する複雑な規則としきたりに従い、他の子供からは隔離されて育てられた。彼女は「望ましくない」人間 (母の考えではほぼ全員) と会うことを許されなかった。

驚くことではないが、利発――彼女はほとんど宮殿から出ず、家庭教師からきわめて高度な教育を受けていた――若きヴィクトリアにとって、この規則はどれもくだらないものだった。成人すると彼女は父王に2つのことを求めた。1つは1日1時間、付添人から解放されること。もう1つは、彼女のベッドを母の部屋から移し、自分だけの寝室を用意することだった。1836年5月、ヴィクトリアは多くの求婚者の1人、ザクセン・コーブルク・ゴータ公国の公子アルバートに紹介された。他の求婚者には心を動かされなかったヴィクトリアだが、アルバートにだけは強く心惹かれ、紹介者である叔父のベルギー王レオポルドに手紙を書き、「親愛なアルバートのかわりに、素晴らしい幸せを予見してくれた」ことを感謝した。しかし彼女はまだ17歳だったため、その時点では結婚の申し入れはすべて断っていた。

1837年の5月にヴィクトリアが18歳の誕生日を迎えたことにより、イギリスはヴィクトリアの母とその愛人だった野心家ジョン・コンロイによる摂政政治という、ありえないわけではなかった悲劇をかろうじて逃れた (ヴィクトリアが王位を継げる歳まで生きられれば良いと苦言していた王ウィリアム4世も、そうなることを恐れていた)。ヴィクトリアの父はそれから1ヶ月も経たずに崩御し、ヴィクトリアはイギリスの女王となった。最初にしたことの1つは、コンロイを自分の近くから追い払い、前王妃との個人的なつながりをすべて断つことだった。アルバートはヴィクトリアとの親交を新たなものにしようとロンドンを再訪し、5日後、1839年10月にウィンザー城で2人は結婚した。彼にどんな欠点があったにしても、その存在はヴィクトリアを安定させ、また、くつろがせた。ヴィクトリアは、アルバートの社会改革や「近代的な」革新についての考えにも魅了されていた。

ヴィクトリアの女王としての長い在位期間は、遠方の地で戦われた非常に多くの戦争の期間と見ることもできる。アフガン戦争、アヘン戦争、シーク戦争、コーサ戦争、ビルマ戦争、クリミア戦争、アングロ・ペルシア戦争、インド大反乱 (これによりヴィクトリアは「女帝」の称号を得る)、アシャンティ戦争、ズールー戦争、2度のボーア戦争、マフディー戦争、義和団の乱、そしてその他の軍事的な冒険などである。パックス・ブリタニカ (イギリスの平和) の実現は、多くの流血と同義だったのだ。しかし、ヴィクトリアはそうした愚かしい事柄のすべてを大臣たちや議会にゆだね、自身はその望むところを追求して過ごした。すなわち、繰り返された妊娠と、アルバートに促されての下層階級のための社会改革である。

当時のイギリスは産業社会のあらゆる病を患っており、王位にあったヴィクトリアとアルバートがその問題への対処を先導した。酒、薬物、貧困。こうした不幸は自然に解決するという「自然治癒」思想を信奉する者もいたが、多くの人々は政府や豊かな者が国民の大半を占める庶民にもっと手を差し伸べるべきだと考えていた。そこでイギリス全土で数百もの慈善基金が設立され、ヴィクトリアやアルバートはその多くに自分たちの名声を貸した。ロバート・オーウェンの理想郷的なコミュニティーのような社会的「実験」も開始された。ディケンズやサッカレーといった作家は、労働者階級の窮状に注意を向けさせた。イギリスの王室は政府に対して多少の影響力を残していたため (世論を動かすだけだったにせよ)、ヴィクトリアは初等教育法 (10歳までのすべての子供に無償の学校教育を提供する) や婚姻事件法 (離婚を宗教的な問題ではなく法的な問題とし、女性に公民権を認め、さらに後には財産まで認めた) といった改革にも注力した。

一方、アルバートの関心は民衆の暮らしを大きく改善する科学へと向けられていた。暇をもてあまし、楽しみを求めていた多くの上流階級の好事家も、同様の関心を抱いていた。そして、その関心はヴィクトリアにも受け継がれた。世界をまたにかけ、山に登ったり、砂漠を横断したり、ジャングルに分け入ったり、珍しい動物を狩ったり収集したり、未開の人々と生活を共にしたりと、とにかくなんにでも首を突っ込んでいた数多くのイギリス人冒険家を2人は激励し、ときには資金面での支援すらした。合理主義が大流行しており、ヴィクトリアでさえ技術が社会の秩序を守り、倫理の腐敗を防ぐことができるのかといったことに興味を抱いていた。王立園芸協会、ロンドン王立協会、万国博覧会 (1851年開催の、初の「国際博覧会」) の展示には何千もの人が集まった。実用面では、「1858年の大悪臭」の発生を機に、2人はヴィクトリア朝のイギリスで最大の偉業、ロンドンの下水道網の整備に資金を提供した。

1861年12月、アルバート公子が腸チフスでこの世を去る。打ちひしがれ、厳格な禁欲家となったヴィクトリアは、その後の生涯を喪に服して過ごした。献身的でほぼ常に傍にいたスコットランド人の使用人ジョン・ブラウンからいくらかの慰めを得ているという噂もあったが、その関係がどのようなものであれ、アルバートの死後、ヴィクトリアは宮殿で隠遁生活を送った。彼女が公の場に姿を見せることは少なくなり、ロンドンに出かけることもほとんどなくなった。

1887年の在位50年記念式典の頃、大英帝国はほぼその頂点を極めていた。大英帝国は世界初の「超大国」となり、その触手は全地球の社会、文化、財政、そして政治のあらゆる側面に及んでいた。祝典はヴィクトリアの意向に従った慎み深く倫理的なもので、パレードとウェストミンスター寺院で感謝の祈りが捧げられた。在位60年周年記念式典が近づく頃、ヴィクトリアはジョージ3世を超え、イングランドとスコットランド (あるいは他の国のほとんど) の歴史上で最も長い期間玉座にあるつづけることになった。この時もまた、ヴィクトリアは記念式典を自らの治世よりも国の祝祭とすることを求めた。1901年1月初頭、気分が「衰え、悪く」なった女王ヴィクトリアは、1月22日、生前と同様に威厳を保ったまま静かに息を引き取った
icon_leader_victoria
一時的ないらだちや不快という感情 (非常に自然でよくあるもの) を、他の者に見せてはいけません。

特性

文明
特殊ユニット
レッドコート

設定

アジェンダ
太陽の沈まぬ国
自分の文明と同じ大陸に存在する文明を好み、自分の文明をあらゆる大陸に広げようとする。イギリスの都市が存在しない大陸の文明は好まない。
宗教
icon_leader_victoria
一時的ないらだちや不快という感情 (非常に自然でよくあるもの) を、他の者に見せてはいけません。

特性

文明
特殊ユニット
レッドコート

設定

アジェンダ
太陽の沈まぬ国
自分の文明と同じ大陸に存在する文明を好み、自分の文明をあらゆる大陸に広げようとする。イギリスの都市が存在しない大陸の文明は好まない。
宗教
固有能力

パクス・ブリタニカ

自文明の首都が存在しない大陸で建設したすべての都市が、近接戦闘ユニット1つを無償で得る。王立海軍造船所をその都市に建設すると、さらに近接戦闘ユニット1つが無償でもたらされる。「軍事学」技術を研究すると、固有ユニット「レッドコート」が手に入る。

概要
ヴィクトリア女王は礼儀正しくて穏やかな淑女ですが、彼女の大陸進出を阻んだりすれば、その態度は一変します。ヴィクトリアはそこまで寛容ではないのです。
詳細説明
イギリス (とヴィクトリア) には、その威信を全大陸に示すだけの力があります。彼女はまず王立海軍造船所とシー
ドッグを利用して海の覇権を握ろうとするでしょう。そして産業時代にはレッドコートを各地に派遣し、全世界で確固たる地位を築こうとするはずです。こうして獲得した海外領土に考古学の効果が2倍になる能力が組み合わされば、文化による勝利の達成は難しいことではありません。
歴史的背景
アルバート公子と結婚し、9人の子の母、42人の孫の祖母となり (結果的にウィンザー家はヨーロッパのほぼすべての君主と関係をもった)、波乱の時代に63年にわたって大英帝国を治めることになるヴィクトリアは、幼い頃から王位継承の第1候補として育てられた。彼女は自分の少女時代を「あまり浮かなかった」と表現している。母は非常に過保護で、ヴィクトリアは、「ケンジントン・システム」という行動のあらゆる面を律する複雑な規則としきたりに従い、他の子供からは隔離されて育てられた。彼女は「望ましくない」人間 (母の考えではほぼ全員) と会うことを許されなかった。

驚くことではないが、利発――彼女はほとんど宮殿から出ず、家庭教師からきわめて高度な教育を受けていた――若きヴィクトリアにとって、この規則はどれもくだらないものだった。成人すると彼女は父王に2つのことを求めた。1つは1日1時間、付添人から解放されること。もう1つは、彼女のベッドを母の部屋から移し、自分だけの寝室を用意することだった。1836年5月、ヴィクトリアは多くの求婚者の1人、ザクセン・コーブルク・ゴータ公国の公子アルバートに紹介された。他の求婚者には心を動かされなかったヴィクトリアだが、アルバートにだけは強く心惹かれ、紹介者である叔父のベルギー王レオポルドに手紙を書き、「親愛なアルバートのかわりに、素晴らしい幸せを予見してくれた」ことを感謝した。しかし彼女はまだ17歳だったため、その時点では結婚の申し入れはすべて断っていた。

1837年の5月にヴィクトリアが18歳の誕生日を迎えたことにより、イギリスはヴィクトリアの母とその愛人だった野心家ジョン・コンロイによる摂政政治という、ありえないわけではなかった悲劇をかろうじて逃れた (ヴィクトリアが王位を継げる歳まで生きられれば良いと苦言していた王ウィリアム4世も、そうなることを恐れていた)。ヴィクトリアの父はそれから1ヶ月も経たずに崩御し、ヴィクトリアはイギリスの女王となった。最初にしたことの1つは、コンロイを自分の近くから追い払い、前王妃との個人的なつながりをすべて断つことだった。アルバートはヴィクトリアとの親交を新たなものにしようとロンドンを再訪し、5日後、1839年10月にウィンザー城で2人は結婚した。彼にどんな欠点があったにしても、その存在はヴィクトリアを安定させ、また、くつろがせた。ヴィクトリアは、アルバートの社会改革や「近代的な」革新についての考えにも魅了されていた。

ヴィクトリアの女王としての長い在位期間は、遠方の地で戦われた非常に多くの戦争の期間と見ることもできる。アフガン戦争、アヘン戦争、シーク戦争、コーサ戦争、ビルマ戦争、クリミア戦争、アングロ・ペルシア戦争、インド大反乱 (これによりヴィクトリアは「女帝」の称号を得る)、アシャンティ戦争、ズールー戦争、2度のボーア戦争、マフディー戦争、義和団の乱、そしてその他の軍事的な冒険などである。パックス・ブリタニカ (イギリスの平和) の実現は、多くの流血と同義だったのだ。しかし、ヴィクトリアはそうした愚かしい事柄のすべてを大臣たちや議会にゆだね、自身はその望むところを追求して過ごした。すなわち、繰り返された妊娠と、アルバートに促されての下層階級のための社会改革である。

当時のイギリスは産業社会のあらゆる病を患っており、王位にあったヴィクトリアとアルバートがその問題への対処を先導した。酒、薬物、貧困。こうした不幸は自然に解決するという「自然治癒」思想を信奉する者もいたが、多くの人々は政府や豊かな者が国民の大半を占める庶民にもっと手を差し伸べるべきだと考えていた。そこでイギリス全土で数百もの慈善基金が設立され、ヴィクトリアやアルバートはその多くに自分たちの名声を貸した。ロバート・オーウェンの理想郷的なコミュニティーのような社会的「実験」も開始された。ディケンズやサッカレーといった作家は、労働者階級の窮状に注意を向けさせた。イギリスの王室は政府に対して多少の影響力を残していたため (世論を動かすだけだったにせよ)、ヴィクトリアは初等教育法 (10歳までのすべての子供に無償の学校教育を提供する) や婚姻事件法 (離婚を宗教的な問題ではなく法的な問題とし、女性に公民権を認め、さらに後には財産まで認めた) といった改革にも注力した。

一方、アルバートの関心は民衆の暮らしを大きく改善する科学へと向けられていた。暇をもてあまし、楽しみを求めていた多くの上流階級の好事家も、同様の関心を抱いていた。そして、その関心はヴィクトリアにも受け継がれた。世界をまたにかけ、山に登ったり、砂漠を横断したり、ジャングルに分け入ったり、珍しい動物を狩ったり収集したり、未開の人々と生活を共にしたりと、とにかくなんにでも首を突っ込んでいた数多くのイギリス人冒険家を2人は激励し、ときには資金面での支援すらした。合理主義が大流行しており、ヴィクトリアでさえ技術が社会の秩序を守り、倫理の腐敗を防ぐことができるのかといったことに興味を抱いていた。王立園芸協会、ロンドン王立協会、万国博覧会 (1851年開催の、初の「国際博覧会」) の展示には何千もの人が集まった。実用面では、「1858年の大悪臭」の発生を機に、2人はヴィクトリア朝のイギリスで最大の偉業、ロンドンの下水道網の整備に資金を提供した。

1861年12月、アルバート公子が腸チフスでこの世を去る。打ちひしがれ、厳格な禁欲家となったヴィクトリアは、その後の生涯を喪に服して過ごした。献身的でほぼ常に傍にいたスコットランド人の使用人ジョン・ブラウンからいくらかの慰めを得ているという噂もあったが、その関係がどのようなものであれ、アルバートの死後、ヴィクトリアは宮殿で隠遁生活を送った。彼女が公の場に姿を見せることは少なくなり、ロンドンに出かけることもほとんどなくなった。

1887年の在位50年記念式典の頃、大英帝国はほぼその頂点を極めていた。大英帝国は世界初の「超大国」となり、その触手は全地球の社会、文化、財政、そして政治のあらゆる側面に及んでいた。祝典はヴィクトリアの意向に従った慎み深く倫理的なもので、パレードとウェストミンスター寺院で感謝の祈りが捧げられた。在位60年周年記念式典が近づく頃、ヴィクトリアはジョージ3世を超え、イングランドとスコットランド (あるいは他の国のほとんど) の歴史上で最も長い期間玉座にあるつづけることになった。この時もまた、ヴィクトリアは記念式典を自らの治世よりも国の祝祭とすることを求めた。1901年1月初頭、気分が「衰え、悪く」なった女王ヴィクトリアは、1月22日、生前と同様に威厳を保ったまま静かに息を引き取った