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資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
ラウタロ
固有能力

速きタカ

黄金時代や英雄時代の自由都市や文明との戦いで 戦闘力+10。敵都市の国境内で敵ユニットを倒すとその都市の忠誠心‐20。黄金時代や英雄時代の文明の場合は忠誠心‐40。

概要
マプチェは市民の忠誠心を高く保つことができます。また、戦場では攻防どちらにおいても手強い相手になりえます。
詳細説明
都市の忠誠心を強化し、ユニットが戦闘によって得る経験値を増やすため、マプチェは初期から総督の獲得を狙っていくことになるでしょう。黄金時代を迎えている文明を敵に回しても、マプチェは恐れることなく戦いに臨めます。攻勢に出る場合は、敵の国境内で戦い、相手都市の忠誠心を低下させましょう。この戦法をうまく使えば、社会不安を生じさせて相手の生産を遅らせ、すでに忠誠心が揺らいでいる都市を離反させられます。マロン騎兵は強力な攻撃ユニットですが、国境を敵から守ることに長けているので、防衛を重視している場合も彼らの訓練を怠ってはなりません。ゲーム後半には、マプチェ固有の施設であるケマムルをうまく配置することで、文化による勝利の達成も可能になります。
歴史的背景
ラウタロは「トキ」 (「戦いの長」、もしくは「斧を持つ者」) という名で今なおチリの人々に知られている。彼は悪名高いスペインのコンキスタドール、ペドロ・デ・バルディビアを倒した人物である。最初にマプチェ族を糾合して侵略者と戦ったのは、彼がまだ10代の頃だった。ラウタロはスペイン人の捕虜となり、馬の世話役として働かされていた。その3年近い歳月は、ラウタロにとってチャンスでもあった。彼を捕虜にした者たちは、この若者にコンキスタドールの弱点を学ぶチャンスを与えていることに気づいていなかったのだ。後に脱走を果たしたラウタロは、ただちに彼らの弱点を突いた。

スペイン人と出会う前のラウタロは、マプチェ族の言葉で「速きタカ」を意味するレフトラルという名で呼ばれていた。平和な時代の族長の息子だったこともあり、幼少期の生活は比較的穏やかだったようだ。ラウタロの真の物語が幕を開けるのは、15歳から17歳の頃、スペイン人に捕まってからのことである。それ以降、彼の運命は現地の総督、ペドロ・デ・バルディビアと深く関わりあうことになる。

スペインによるチリ植民地化の指揮をとりながら、バルディビアは何年もかけて現地に足がかりを築いていった。その地の部族を犠牲にしながらのことである。ラウタロとマプチェ族から見ると、これはチリ南部に広がる自分たちの領土にスペイン人の植民都市や砦が広がることを意味していた。バルディビアが最初にラウタロを捕えたのは、先住民からこうした入植地を守る戦いの中でのことだと言われている。ただしこの件に関する記録は少なく、伝説として語られているのみである。

ラウタロが敢えて自分から敵に捕まったという説もある。スペイン人の懐に潜り込み、相手のやり方を探るためだ。それが事実かは別として、たしかに言えるのは、ラウタロが服従を強いられたことだ。また、バルディビアの下にいる間に、「レフトラル」という名は「フィリペ・ラウタロ」に変わった。これは言語の問題で、スペイン人は先住民の言葉をうまく発音できなかったのである。

ラウタロがある時点から馬の世話係となり、コンキスタドールの馬の面倒を見るよう命じられたこともわかっている。コンキスタドールが馬を普段どのように扱い、戦いのときにどう操るかを観察することで、ラウタロはスペイン騎兵の限界を理解するに至った。

より面白い説を信じるなら、ラウタロはスペイン人の下で時を待ち、コンキスタドールについて知っておくべきことを残らず学んだのだ。その一方で彼は密かに計画を練り、同胞を率いて反乱を起こせば成功すると確信が持てた時点で、ついに脱走した。

ラウタロが無事マプチェ族のもとに戻ると、評議会は彼を副トキに任じ、カウポリカンという百戦錬磨の戦士の補佐役に据えた。ラウタロとカウポリカンは力を合わせて軍を率い、彼らの領土のあちこちに築かれていたスペイン人の砦を襲撃した。

スペイン人の油断を突いたこともあり、当初、ラウタロとマプチェ族は大勝利を収めた。1553年のトゥカペルの戦いは、ラウタロにとってトキとしての初陣だったようだが、スペイン人の砦を見事に制圧し、マプチェの戦士6000人を勝利に導いている。その後間もなくペドロ・デ・バルディビアは植民都市の奪還に乗り出したが、彼の軍は返り討ちに遭って全滅。彼自身もあえなく捕らえられ、かつて自分の奴隷だった男が率いるマプチェ族によって命を断たれた。

だがラウタロにとって不運なことに、マプチェ族には戦いの後、長期にわたって勝利を祝う慣習があった。この結果ラウタロの進軍は鈍り、猶予を得たスペイン人はマプチェ族に攻め込まれる前にいくつかの入植地から人々を撤収させることができた。

それでも何度か決定的な勝利を収めたのち、ラウタロは最後にスペイン人の首都サンティアゴに狙いを定めた。病気、物資の逼迫、援軍の欠如などによって戦力は落ちていたが、ラウタロは歩みを止めなかった。最初に何度か小規模な衝突を経たあと、より本格的に攻め込む準備を整えるべく、ラウタロはサンティアゴ郊外に野営した。

今に伝わる話によると、ラウタロ軍はこのとき現地住民の裏切りに遭い、野営地の位置を密告されたという。この情報をもとに、フランシスコ・デ・ビジャグラ (ペドロ・デ・バルディビアの後任の総督) は、1557年4月29日の早朝にラウタロ軍を奇襲。彼をはじめとする多くの戦士たちを血祭りにあげた。

ラウタロは最も有名な軍事指導者の1人としてチリの歴史に名を残している。戦術的観点から、彼こそ同国最初の本物の将軍であると考える者も多い。スペイン軍との圧倒的な戦力差もラウタロの決意を揺るがせることはなかった。同胞への虐待をやめさせようとした彼の奮闘は、現地民による抵抗の嚆矢となり、彼の死後も3世紀近くにわたってつづいたのであった。
icon_leader_lautaro
結束せよ。さもなくば孤独に死ね。

特性

文明

設定

アジェンダ
トゥカペルの精霊
文化的な忠誠心を高め、それを高い水準に保つことを重視する。人々の忠誠心によって都市を得る文明を好み、忠誠心によって都市を失う文明を嫌う。
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結束せよ。さもなくば孤独に死ね。

特性

文明

設定

アジェンダ
トゥカペルの精霊
文化的な忠誠心を高め、それを高い水準に保つことを重視する。人々の忠誠心によって都市を得る文明を好み、忠誠心によって都市を失う文明を嫌う。
固有能力

速きタカ

黄金時代や英雄時代の自由都市や文明との戦いで 戦闘力+10。敵都市の国境内で敵ユニットを倒すとその都市の忠誠心‐20。黄金時代や英雄時代の文明の場合は忠誠心‐40。

概要
マプチェは市民の忠誠心を高く保つことができます。また、戦場では攻防どちらにおいても手強い相手になりえます。
詳細説明
都市の忠誠心を強化し、ユニットが戦闘によって得る経験値を増やすため、マプチェは初期から総督の獲得を狙っていくことになるでしょう。黄金時代を迎えている文明を敵に回しても、マプチェは恐れることなく戦いに臨めます。攻勢に出る場合は、敵の国境内で戦い、相手都市の忠誠心を低下させましょう。この戦法をうまく使えば、社会不安を生じさせて相手の生産を遅らせ、すでに忠誠心が揺らいでいる都市を離反させられます。マロン騎兵は強力な攻撃ユニットですが、国境を敵から守ることに長けているので、防衛を重視している場合も彼らの訓練を怠ってはなりません。ゲーム後半には、マプチェ固有の施設であるケマムルをうまく配置することで、文化による勝利の達成も可能になります。
歴史的背景
ラウタロは「トキ」 (「戦いの長」、もしくは「斧を持つ者」) という名で今なおチリの人々に知られている。彼は悪名高いスペインのコンキスタドール、ペドロ・デ・バルディビアを倒した人物である。最初にマプチェ族を糾合して侵略者と戦ったのは、彼がまだ10代の頃だった。ラウタロはスペイン人の捕虜となり、馬の世話役として働かされていた。その3年近い歳月は、ラウタロにとってチャンスでもあった。彼を捕虜にした者たちは、この若者にコンキスタドールの弱点を学ぶチャンスを与えていることに気づいていなかったのだ。後に脱走を果たしたラウタロは、ただちに彼らの弱点を突いた。

スペイン人と出会う前のラウタロは、マプチェ族の言葉で「速きタカ」を意味するレフトラルという名で呼ばれていた。平和な時代の族長の息子だったこともあり、幼少期の生活は比較的穏やかだったようだ。ラウタロの真の物語が幕を開けるのは、15歳から17歳の頃、スペイン人に捕まってからのことである。それ以降、彼の運命は現地の総督、ペドロ・デ・バルディビアと深く関わりあうことになる。

スペインによるチリ植民地化の指揮をとりながら、バルディビアは何年もかけて現地に足がかりを築いていった。その地の部族を犠牲にしながらのことである。ラウタロとマプチェ族から見ると、これはチリ南部に広がる自分たちの領土にスペイン人の植民都市や砦が広がることを意味していた。バルディビアが最初にラウタロを捕えたのは、先住民からこうした入植地を守る戦いの中でのことだと言われている。ただしこの件に関する記録は少なく、伝説として語られているのみである。

ラウタロが敢えて自分から敵に捕まったという説もある。スペイン人の懐に潜り込み、相手のやり方を探るためだ。それが事実かは別として、たしかに言えるのは、ラウタロが服従を強いられたことだ。また、バルディビアの下にいる間に、「レフトラル」という名は「フィリペ・ラウタロ」に変わった。これは言語の問題で、スペイン人は先住民の言葉をうまく発音できなかったのである。

ラウタロがある時点から馬の世話係となり、コンキスタドールの馬の面倒を見るよう命じられたこともわかっている。コンキスタドールが馬を普段どのように扱い、戦いのときにどう操るかを観察することで、ラウタロはスペイン騎兵の限界を理解するに至った。

より面白い説を信じるなら、ラウタロはスペイン人の下で時を待ち、コンキスタドールについて知っておくべきことを残らず学んだのだ。その一方で彼は密かに計画を練り、同胞を率いて反乱を起こせば成功すると確信が持てた時点で、ついに脱走した。

ラウタロが無事マプチェ族のもとに戻ると、評議会は彼を副トキに任じ、カウポリカンという百戦錬磨の戦士の補佐役に据えた。ラウタロとカウポリカンは力を合わせて軍を率い、彼らの領土のあちこちに築かれていたスペイン人の砦を襲撃した。

スペイン人の油断を突いたこともあり、当初、ラウタロとマプチェ族は大勝利を収めた。1553年のトゥカペルの戦いは、ラウタロにとってトキとしての初陣だったようだが、スペイン人の砦を見事に制圧し、マプチェの戦士6000人を勝利に導いている。その後間もなくペドロ・デ・バルディビアは植民都市の奪還に乗り出したが、彼の軍は返り討ちに遭って全滅。彼自身もあえなく捕らえられ、かつて自分の奴隷だった男が率いるマプチェ族によって命を断たれた。

だがラウタロにとって不運なことに、マプチェ族には戦いの後、長期にわたって勝利を祝う慣習があった。この結果ラウタロの進軍は鈍り、猶予を得たスペイン人はマプチェ族に攻め込まれる前にいくつかの入植地から人々を撤収させることができた。

それでも何度か決定的な勝利を収めたのち、ラウタロは最後にスペイン人の首都サンティアゴに狙いを定めた。病気、物資の逼迫、援軍の欠如などによって戦力は落ちていたが、ラウタロは歩みを止めなかった。最初に何度か小規模な衝突を経たあと、より本格的に攻め込む準備を整えるべく、ラウタロはサンティアゴ郊外に野営した。

今に伝わる話によると、ラウタロ軍はこのとき現地住民の裏切りに遭い、野営地の位置を密告されたという。この情報をもとに、フランシスコ・デ・ビジャグラ (ペドロ・デ・バルディビアの後任の総督) は、1557年4月29日の早朝にラウタロ軍を奇襲。彼をはじめとする多くの戦士たちを血祭りにあげた。

ラウタロは最も有名な軍事指導者の1人としてチリの歴史に名を残している。戦術的観点から、彼こそ同国最初の本物の将軍であると考える者も多い。スペイン軍との圧倒的な戦力差もラウタロの決意を揺るがせることはなかった。同胞への虐待をやめさせようとした彼の奮闘は、現地民による抵抗の嚆矢となり、彼の死後も3世紀近くにわたってつづいたのであった。