コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
エイブラハム・リンカーン
固有能力

奴隷解放宣言

工業地帯がターン毎に忠誠心+3をもたらすが、プランテーションはターン毎に忠誠心-2をもたらす。工業地帯とその建造物を築くと、近接戦闘ユニットが無償で手に入る。この無償のユニットは作成や維持に資源を必要とせず、 戦闘力+5を受け取る。

概要
エイブラハム・リンカーンは、工業化を利用して自文明の不調和を防ごうとする指導者です。
詳細説明
「建国の父祖」能力によって追加のワイルドカードスロットと外交的支持を得られるエイブラハム・リンカーンにとって、政府の選択は重要です。「徒弟制度」の研究を済ませて全都市に工業地帯を建設し、無償の近接戦闘ユニットを得ることも重要な戦略になります。「灌漑」技術やプランテーション施設からは悪影響を受けるので、手を出さないほうがよいでしょう。ゲーム後半には、P-51マスタングと映画スタジオが勝利に向けた最後のひと押しとなります。
歴史的背景
エイブラハム・リンカーンはアメリカ合衆国史上屈指の有名人物だ。大統領としての在任期間はわずか4年にすぎないが、その短い間に彼は奴隷制度を廃止し (同時期のヨーロッパと比べると遅すぎるほどだったが)、南北戦争で指揮をとり、国の工業化を一気に加速させた。

リンカーンの人生は中西部で慎ましくはじまった。生家は貧しい地主であり、当時の2つの大きな力のせめぎ合いの渦中にあった。その力とは、1つは先住民の土地へ進出しようとする西向きの拡張圧力、もう1つは奴隷を使役している農民 (富はより大きな土地所有者へと統合される傾向にあった) と自作農の間の緊張である。リンカーン一家は押し出されるようにして北のインディアナへ移り住み、そこで木材の加工や農業に携わった。厳しい時代だった。リンカーンは幼くして母親を亡くし、ほとんど独学で学問を身につけた。ソーク族と戦う民兵団から除隊した後、リンカーンは法律を学び、本格的に政治の道を歩みはじめた。

リンカーンの初期の政治的キャリアはホイッグ党員としてはじまった。イギリスにも同名の政党があったが、少なくともアメリカのホイッグ党は、行政権に反対する勢力が結成した党だ。これは、もともとは反王政派の立場をとっていたことの遺産のようなものである。アメリカでは、これはアンドリュー・ジャクソンのような政治家が広範な行政権を確立しようとする動きと戦うことを意味していた。しかしアメリカは変化しつつあった。もはや主な分断は、バージニアの裕福な農園主 (ワシントンやジェファーソンなど) と質素で哲学的な考え方を持つニューイングランド人 (フランクリンやアダムズ) の間のものではなく、北部の産業資本と、奴隷労働を原動力として工業型農業に向かおうとする南部の対立へと変わっていた。ホイッグ党が共和党に姿を変え、南部に反発する北部の産業利権と手を組んだころ、リンカーンは指導者的な発言力を得ていた。リンカーンが目指したのは、奴隷問題の緩和 (今の基準からするとそれでもひどい話だが、当時は進歩的な考えだった)、国際的な経済保護主義、そして国内産業の支援だった。いずれも自由資本 (自由といっても、国内の、白人男性のものだが)、工業化、そして実業家の富を支持する政策である。

当時の南部の白人地主は、国際的な工業生産や農業生産、国際貿易に遅れないようにする手段として、奴隷制に依存していた。だが彼らの事情に関係なく、奴隷制はしだいに擁護しがたい慣行になりつつあった (そもそも、問題視する声は昔からあった)。リンカーンは奴隷制に反対する意思を隠そうとしなかったが、落とし所として彼が考えていたのは、廃止ではなく抑制だった。しかし、この中道的な試みでさえ南部諸州にとっては行き過ぎだった。南部諸州はリンカーンの大統領当選を、アメリカ合衆国内で自分たちの力が取り返しのつかないほど弱まっており、奴隷制、ひいては自分たちの経済基盤が終焉を迎えるかもしれない兆候と受け止めた。この結果、大統領選が終わるとすぐに南部連合は分離独立を宣言した。

リンカーンは論客であったがゆえに、事態の深刻さを過小評価していたことや、早い段階で行動を起こさなかったことを批判された。だが彼の言葉遣いと慎重さは後に報われることになる。南北戦争では、南軍は自分たちの領土が戦場であるという地の利と、将軍や戦略家が高度な教育を受けたエリートで構成されているという強みを持っていたが、それ以外のほとんどの面で北軍に後れを取っていた。南部では労働力の多くが奴隷であり、南軍の兵士は自分たちを苦しめる奴隷制の存続のために戦わされるというジレンマを負っていた。そのため南軍は、土地を持たない貧しい白人を戦わせるため、さかんにプロパガンダを流さねばならなかった。さらに言えば、南部の工場や産業は北部に大きく水をあけられていた。そして駄目押しに、南部は既存の国際社会からの支持も得られていなかった。

しかし、あり得ないように見えても、南軍が勝利する道はたしかに存在していた。人種問題の不満は解決していたわけではなく、合衆国から脱退しなかった州 (たとえばメリーランド) でも奴隷制支持の声は上がっていた。リンカーンはこうした世論を読み違え、暴動や破壊活動が相次いだ。さらに不吉なことに、自国産業の発展のため、南部が主要な農業生産国として原材料を供給することを望む大国が、国際社会には多く存在していた。リンカーンが輸入関税や国内産業の保護に傾倒していたことを考えればなおさらだ。南部連合国がイギリスに送った使節を北軍が拘束するという事件もあったが、これはリンカーンが賢明に立ち回ったため、国際問題に発展することは避けられた。

歴史が現実とは違う方向に進む可能性は十分にあった。外国勢力が介入していたかもしれない。大規模な奴隷の蜂起が起きて、南部連合は誕生以前に潰えていたかもしれない。あるいは、大規模な奴隷支持派の蜂起が起きて、北部合衆国の産業が壊滅していたかもしれない。しかし、そういったことは現実には起きず、北軍はその工業力によって容赦なく南軍を壊滅させた。

この産業主義というテーマがここでのポイントだ。アメリカ国内では、リンカーンは銀行行政と農務省を設立したことで知られている。どちらも成長の途にあった国家を中央集権的な管理下に置くための施策だ。しかし、私たちがリンカーンの時代を考えるとき、思い浮かぶのは成長する工場、ヨーロッパからアメリカへの移民の増加、鉄道の成長であり、こうした産業勢力が西の土地へと広がろうとする動きだろう。リンカーンの経歴を見ればわかることだが、アメリカ大陸の先住民族に対しては、彼はいかなる思い入れも抱いていなかった。

リンカーンの勝利と南部に対する戦後の改革は反感を免れなかった。1865年、彼は首都ワシントンにおいてジョン・ウィルクス・ブースによって暗殺された。再選の直後、そして終戦のわずか数日後の出来事だった。ブースは暗殺によって次なる戦争が起きると信じていたが、目論見通りにはならなかった。リンカーンの死後、大統領に就任したのは、まれに見る無能な指導者として名高いアンドリュー・ジョンソンだった。
icon_leader_default
存在する限り、人は自らの状況を改善するだけでなく、人類の改善を支援する義務を負う。私が賛同するのは、最大多数に最大の幸福を与える方策である。

特性

文明

設定

アジェンダ
連合国家を護る者
同じタイプの政府を持つ文明を好み、違うタイプの政府を持つ文明を嫌う。自分と同時代の、違う政府を持つ文明を特に嫌う。
宗教
icon_leader_default
存在する限り、人は自らの状況を改善するだけでなく、人類の改善を支援する義務を負う。私が賛同するのは、最大多数に最大の幸福を与える方策である。

特性

文明

設定

アジェンダ
連合国家を護る者
同じタイプの政府を持つ文明を好み、違うタイプの政府を持つ文明を嫌う。自分と同時代の、違う政府を持つ文明を特に嫌う。
宗教
固有能力

奴隷解放宣言

工業地帯がターン毎に忠誠心+3をもたらすが、プランテーションはターン毎に忠誠心-2をもたらす。工業地帯とその建造物を築くと、近接戦闘ユニットが無償で手に入る。この無償のユニットは作成や維持に資源を必要とせず、 戦闘力+5を受け取る。

概要
エイブラハム・リンカーンは、工業化を利用して自文明の不調和を防ごうとする指導者です。
詳細説明
「建国の父祖」能力によって追加のワイルドカードスロットと外交的支持を得られるエイブラハム・リンカーンにとって、政府の選択は重要です。「徒弟制度」の研究を済ませて全都市に工業地帯を建設し、無償の近接戦闘ユニットを得ることも重要な戦略になります。「灌漑」技術やプランテーション施設からは悪影響を受けるので、手を出さないほうがよいでしょう。ゲーム後半には、P-51マスタングと映画スタジオが勝利に向けた最後のひと押しとなります。
歴史的背景
エイブラハム・リンカーンはアメリカ合衆国史上屈指の有名人物だ。大統領としての在任期間はわずか4年にすぎないが、その短い間に彼は奴隷制度を廃止し (同時期のヨーロッパと比べると遅すぎるほどだったが)、南北戦争で指揮をとり、国の工業化を一気に加速させた。

リンカーンの人生は中西部で慎ましくはじまった。生家は貧しい地主であり、当時の2つの大きな力のせめぎ合いの渦中にあった。その力とは、1つは先住民の土地へ進出しようとする西向きの拡張圧力、もう1つは奴隷を使役している農民 (富はより大きな土地所有者へと統合される傾向にあった) と自作農の間の緊張である。リンカーン一家は押し出されるようにして北のインディアナへ移り住み、そこで木材の加工や農業に携わった。厳しい時代だった。リンカーンは幼くして母親を亡くし、ほとんど独学で学問を身につけた。ソーク族と戦う民兵団から除隊した後、リンカーンは法律を学び、本格的に政治の道を歩みはじめた。

リンカーンの初期の政治的キャリアはホイッグ党員としてはじまった。イギリスにも同名の政党があったが、少なくともアメリカのホイッグ党は、行政権に反対する勢力が結成した党だ。これは、もともとは反王政派の立場をとっていたことの遺産のようなものである。アメリカでは、これはアンドリュー・ジャクソンのような政治家が広範な行政権を確立しようとする動きと戦うことを意味していた。しかしアメリカは変化しつつあった。もはや主な分断は、バージニアの裕福な農園主 (ワシントンやジェファーソンなど) と質素で哲学的な考え方を持つニューイングランド人 (フランクリンやアダムズ) の間のものではなく、北部の産業資本と、奴隷労働を原動力として工業型農業に向かおうとする南部の対立へと変わっていた。ホイッグ党が共和党に姿を変え、南部に反発する北部の産業利権と手を組んだころ、リンカーンは指導者的な発言力を得ていた。リンカーンが目指したのは、奴隷問題の緩和 (今の基準からするとそれでもひどい話だが、当時は進歩的な考えだった)、国際的な経済保護主義、そして国内産業の支援だった。いずれも自由資本 (自由といっても、国内の、白人男性のものだが)、工業化、そして実業家の富を支持する政策である。

当時の南部の白人地主は、国際的な工業生産や農業生産、国際貿易に遅れないようにする手段として、奴隷制に依存していた。だが彼らの事情に関係なく、奴隷制はしだいに擁護しがたい慣行になりつつあった (そもそも、問題視する声は昔からあった)。リンカーンは奴隷制に反対する意思を隠そうとしなかったが、落とし所として彼が考えていたのは、廃止ではなく抑制だった。しかし、この中道的な試みでさえ南部諸州にとっては行き過ぎだった。南部諸州はリンカーンの大統領当選を、アメリカ合衆国内で自分たちの力が取り返しのつかないほど弱まっており、奴隷制、ひいては自分たちの経済基盤が終焉を迎えるかもしれない兆候と受け止めた。この結果、大統領選が終わるとすぐに南部連合は分離独立を宣言した。

リンカーンは論客であったがゆえに、事態の深刻さを過小評価していたことや、早い段階で行動を起こさなかったことを批判された。だが彼の言葉遣いと慎重さは後に報われることになる。南北戦争では、南軍は自分たちの領土が戦場であるという地の利と、将軍や戦略家が高度な教育を受けたエリートで構成されているという強みを持っていたが、それ以外のほとんどの面で北軍に後れを取っていた。南部では労働力の多くが奴隷であり、南軍の兵士は自分たちを苦しめる奴隷制の存続のために戦わされるというジレンマを負っていた。そのため南軍は、土地を持たない貧しい白人を戦わせるため、さかんにプロパガンダを流さねばならなかった。さらに言えば、南部の工場や産業は北部に大きく水をあけられていた。そして駄目押しに、南部は既存の国際社会からの支持も得られていなかった。

しかし、あり得ないように見えても、南軍が勝利する道はたしかに存在していた。人種問題の不満は解決していたわけではなく、合衆国から脱退しなかった州 (たとえばメリーランド) でも奴隷制支持の声は上がっていた。リンカーンはこうした世論を読み違え、暴動や破壊活動が相次いだ。さらに不吉なことに、自国産業の発展のため、南部が主要な農業生産国として原材料を供給することを望む大国が、国際社会には多く存在していた。リンカーンが輸入関税や国内産業の保護に傾倒していたことを考えればなおさらだ。南部連合国がイギリスに送った使節を北軍が拘束するという事件もあったが、これはリンカーンが賢明に立ち回ったため、国際問題に発展することは避けられた。

歴史が現実とは違う方向に進む可能性は十分にあった。外国勢力が介入していたかもしれない。大規模な奴隷の蜂起が起きて、南部連合は誕生以前に潰えていたかもしれない。あるいは、大規模な奴隷支持派の蜂起が起きて、北部合衆国の産業が壊滅していたかもしれない。しかし、そういったことは現実には起きず、北軍はその工業力によって容赦なく南軍を壊滅させた。

この産業主義というテーマがここでのポイントだ。アメリカ国内では、リンカーンは銀行行政と農務省を設立したことで知られている。どちらも成長の途にあった国家を中央集権的な管理下に置くための施策だ。しかし、私たちがリンカーンの時代を考えるとき、思い浮かぶのは成長する工場、ヨーロッパからアメリカへの移民の増加、鉄道の成長であり、こうした産業勢力が西の土地へと広がろうとする動きだろう。リンカーンの経歴を見ればわかることだが、アメリカ大陸の先住民族に対しては、彼はいかなる思い入れも抱いていなかった。

リンカーンの勝利と南部に対する戦後の改革は反感を免れなかった。1865年、彼は首都ワシントンにおいてジョン・ウィルクス・ブースによって暗殺された。再選の直後、そして終戦のわずか数日後の出来事だった。ブースは暗殺によって次なる戦争が起きると信じていたが、目論見通りにはならなかった。リンカーンの死後、大統領に就任したのは、まれに見る無能な指導者として名高いアンドリュー・ジョンソンだった。