コンセプト
主要文明
指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
カトリーヌ・ド・メディシス
固有能力

カトリーヌの「特別遊撃隊」

遭遇した各文明に対して通常よりも1レベル高い 外交的視野を得る。「城」技術を獲得すると無償でスパイ1人を獲得 (最大数も増加)。無償のレベルアップにより、すべてのスパイが諜報員としてスタートする。

概要
「文化の薫り高き国」というイメージを持つフランスですが、実態は侮りがたい強敵です。カトリーヌ・ド・メディシスは、こちらの動向を読み取り、スパイや産業時代の強力な軍を駆使して国益を守ろうとするでしょう。
詳細説明
クレオパトラや始皇帝と同様、フランスも遺産建設で後れをとるまいとするでしょう。遺産建設で優位に立つことができれば、文化による勝利に大きく近づけるからです。カトリーヌ率いるフランスは、すべての敵国の事情に通じており、他国より先に建設できることが確実な遺産に狙いを絞ってくるに違いありません。遺産につづいて優先度が高いのは、巧みに配置されたシャトーで、これも文化による勝利に有利に働きます。こうして獲得した 文化力を使って社会制度ツリーを発展させれば、他の文明に先がけて軍団や大軍団を組織することが可能です。皇帝近衛隊の軍団や大軍団を編成してきたら、くれぐれもご用心を!
歴史的背景
カトリーヌ・ド・メディシス (イタリア語名はカテリーナ。フランス語風にするとカトリーヌとなる) は、歴史家の間ではどうにも評判が悪い。理由の1つはメディチ家とのつながりであり、もう1つはどんな犠牲を払ってでもヴァロワ家 (カペー家の母系の分家) の王位を維持しようとしたその無慈悲ぶりである。しかしなんと言われようとも、カトリーヌがいなければ、ヴァロワ家がいくつもの難局を切り抜けることも、フランスが数々の試練と苦難を乗り切ることも不可能だったのは確かだ。

カトリーヌが生まれたメディチ家は、それはもう信じられないほどに裕福で力のある一族だった。なにしろメディチ家はフィレンツェの事実上の支配者であり、王たちを相手に銀行業を営み、ローマ教皇まで輩出していたのである (カトリーヌの大叔父は、当時の教皇レオ10世だった)。レオ10世によってウルビーノ公に叙されていたカトリーヌの父ロレンツォは、伝えられるところによると、カトリーヌの誕生を「まるで男の子が生まれたかのように喜んだ」という。 聡明で才能がある (「女にしては」という枕言葉がついて回ったが) 上、公国君主を父に持っていたということは、カトリーヌが高貴な出自を武器とし、どんな道でも切り開ける可能性があることを意味していた。当然ながら王族の求婚者は非常に多く、スコットランドのジェームズ5世などの求婚を断り、1533年10月に14歳という若さで、カトリーヌはフランス王の次男と結婚した。この結婚は、メディチ家出身の教皇クレメンス7世が取り決めたものであった。

若き新妻は、夫である王子アンリに会うことはほとんどできなかった。なにしろ彼はたくさんの愛人に会うのに忙しかったのだ。しかし1536年、アンリの兄であるフランソワ3世が風邪で亡くなったことでアンリは王太子となり、したがってカトリーヌはフランスの王太子妃となった。さらにカトリーヌは突然、非常に高い出産能力を発揮しはじめた。それまで8年間の努力にもかかわらず子供に恵まれなかったカトリーヌだが、1544年についに男児を出産。この夫婦の身体構造上の「異常」に気づいた著名な医師ジャン・フェルネルの助言に従ったところ、翌年には女児が生まれた。フェルネルの助言がどのようなものだったにせよ、確かに効果はあったようで、それからカトリーヌはアンリとの間にさらに8人の子供をもうけることになる (当時の出産における子供の死亡率を考えれば、これは驚くべき偉業だ)。

1547年3月にアンリの父が亡くなると、カトリーヌはフランス王妃となった。しかしアンリは愛妾のディアヌ・ド・ポアチエに夢中になっており、カトリーヌによそよそしくも敬意を払ってはいたが、カトリーヌが政治的影響力を持つことは許さなかった。それどころかアンリは、カトリーヌが熱心に欲しがっていた城をディアヌに与えることさえした。やがて1556年、カトリーヌは双子の出産の際に危うく命を落としかける。彼女の体は、もはやこれ以上の妊娠には耐えられそうになかった。カトリーヌは自分の子供を溺愛し、子供たちが最高の教育を受け、なにひとつ不自由のない生活を送り、長男以外の自分の子というものにおよそ関心を示さない父親から危害を加えられずに済むよう、王妃の地位とメディチ家の財力を最大限に活用した。黒魔術に手を出しているという噂もあったカトリーヌは、1556年8月にはかの有名なノストラダムスを王宮に招き、7人の子供たちのために星占いまでさせている。

1559年6月にアンリは、自分の13歳の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世の代理結婚式でおこなわれる馬上槍試合に参加すると言い出した。賢明な判断だったとは言えない。なぜならこの馬上槍試合でアンリは重傷を負い、11日後に死去することになるためである。アンリの死後はフランソワ2世 (この当時、すでにスコットランド女王メアリー1世と結婚してスコットランド王となっていた) が15歳でフランス王となったが、しかしすぐにギーズ公とロレーヌ枢機卿がルーブル宮殿に移り、クーデター同然の形で実権を掌握する。カトリーヌは、メディチ家の一員として受け継いだ政治的勘と狡猾さを総動員した結果、ギーズ派とともに動くべきだと判断した。

自らその地位を主張したわけではないのだが、ともあれ事実上の摂政として、カトリーヌは自身の権力と影響力の強化にとりかかった。新たに得た権限を使ってカトリーヌは、ディアヌ・ド・ポアチエに宝器類 (すっかり心を奪われたアンリが与えてしまったのだ) と、かつてカトリーヌが欲した城を返還させ、前王の妾を事実上隠居させた。いまや王母となったカトリーヌは、ギーズ家のプロテスタントに対する残虐な迫害からも、ギーズ家を倒そうとして失敗したブルボン家の陰謀からも、努めて距離を置くようにしていた。またカトリーヌは、法治体制を軽んじる (特に、プロテスタントを殺すためなら手段を選ぼうとしなかった) ギーズ家に対抗するべく、新しい大法官ミシェル・ド・ロピタルを支援することもした。だが一方で、息子の王位を守るためには冷酷になることもあった。コンデ公が軍を召集してカトリックの街を襲った時には、カトリーヌはコンデ公に王宮への出頭を命じ、到着したコンデ公をただちに投獄している (その後にフランソワ2世が急死したため、コンデ公はかろうじて処刑を免れた)。

こういったことはしかし、カトリーヌにとってはまったく気晴らしにならなかった。そこでささやかな刺激として、彼女は王宮で豪華な宴――いわゆるジョワユーズ・マグニフィセンス――を主催するようになる。結婚式、記念祭、洗礼式、祝祭日など、考えられる限りの機会におこなわれたそうした宴の席で活躍したのが、悪名高いエスカドロン・ヴォラン (「特別遊撃隊」) である。イザベル・デ・ラ・トゥール夫人やシャーロット・デ・ボーヌ・サンブランセ男爵夫人といった面々が所属していたエスカドロン・ヴォランは、若く魅力的な貴婦人の集団であり、王宮で権力を振るう男たちと関係を持ち、そこからカトリーヌの陰謀に役立つ情報を引き出すことを目的としていた。暗殺や恐喝といった手段に加えてこうした情報も駆使することで、カトリーヌはフランスや自分の地位に対する脅威をかわしたのである。

やがてカトリーヌは10歳の息子シャルル9世の摂政となり、さらに強い権限を手にした。少年王は病弱かつ情緒不安定で、戴冠式では声を上げて泣いたという。カトリーヌはこの息子を注意深く見張り、息子の寝室で一緒に寝ることまでした。事実上フランスの支配者となったカトリーヌだが、このときフランスはいくつかの深刻な問題に直面していた。カトリーヌはメディチ家流のやり方で、これらの問題の処理に取りかかる。まずカトリーヌはフランスの宗教指導者たち――カトリックとユグノー (フランスのプロテスタント) の双方――を呼び出し、教義の違いによる争いを解決しようとした。それに失敗すると、今度はサン・ジェルマン勅令を発し、宗教的寛容を促進した。だが不幸にも、ギーズ公がユグノーの礼拝を襲って虐殺行為をするという挙に出たため、この後フランスは30年に及ぶ宗教戦争の時代に突入することになる。

1562年、プロテスタントの貴族たちは虐殺に対抗して軍隊を召集した。彼らとの交渉に失敗したカトリーヌは、国王軍を差し向けて反撃に出る。その後プロテスタントであるアントワーヌ・ド・ブルボンが負傷がもとで亡くなり、カトリックであるギーズ公が暗殺されると、カトリーヌは1563年にアンボワーズ勅令 (「和解勅令」) を出し、騒動に終止符を打った。つづいてカトリーヌはユグノーとカトリック双方の貴族を招集し、例によってフランスにちょっかいを出してきていたイギリス人の手から、占領されていたル・アーヴルを奪い返した。シャルル9世が命じたサン・バルテルミの虐殺の件を除けば、このイタリア人の女王にとって事態はかなり安定していたと言える。そしてシャルル9世が23歳で亡くなると、1573年にはカトリーヌのお気に入りであるもうひとりの息子がポーランド王となり (長くはつづかなかった)、1574年にはフランス王アンリ3世として王位に就いた。

だが、アンリ3世はすでに成人していて心身ともに健康であり、兄たちのように母親の言いなりにはならなかった。それでも10年の間はカトリーヌが統治において些細な点まで監督することができていたが、1588年のブロワにおいてアンリ3世はカトリーヌが任命した大臣全員を突然解任してしまい、これによってカトリーヌの政治的影響力は消滅する。さらにアンリ3世は、母の協力者でありいまだ権力を保っていたギーズ家に対しても行動を起こし、ギーズ公を暗殺、その他にもギーズ家の8人を亡き者とした。寝たきりとなっていた69歳のカトリーヌは、それを知らされても冷静なままだったという。それから1か月もしない1589年1月に、カトリーヌは死去した。
icon_leader_catherine_de_medici
裁断はうまくできています。あとはあなたが縫うだけです。

特性

文明

設定

アジェンダ
黒の女王
可能なかぎり多くのスパイと外交ルートを得ようとし、こうした諜報活動を軽視する文明を好まない。
宗教
icon_leader_catherine_de_medici
裁断はうまくできています。あとはあなたが縫うだけです。

特性

文明

設定

アジェンダ
黒の女王
可能なかぎり多くのスパイと外交ルートを得ようとし、こうした諜報活動を軽視する文明を好まない。
宗教
固有能力

カトリーヌの「特別遊撃隊」

遭遇した各文明に対して通常よりも1レベル高い 外交的視野を得る。「城」技術を獲得すると無償でスパイ1人を獲得 (最大数も増加)。無償のレベルアップにより、すべてのスパイが諜報員としてスタートする。

概要
「文化の薫り高き国」というイメージを持つフランスですが、実態は侮りがたい強敵です。カトリーヌ・ド・メディシスは、こちらの動向を読み取り、スパイや産業時代の強力な軍を駆使して国益を守ろうとするでしょう。
詳細説明
クレオパトラや始皇帝と同様、フランスも遺産建設で後れをとるまいとするでしょう。遺産建設で優位に立つことができれば、文化による勝利に大きく近づけるからです。カトリーヌ率いるフランスは、すべての敵国の事情に通じており、他国より先に建設できることが確実な遺産に狙いを絞ってくるに違いありません。遺産につづいて優先度が高いのは、巧みに配置されたシャトーで、これも文化による勝利に有利に働きます。こうして獲得した 文化力を使って社会制度ツリーを発展させれば、他の文明に先がけて軍団や大軍団を組織することが可能です。皇帝近衛隊の軍団や大軍団を編成してきたら、くれぐれもご用心を!
歴史的背景
カトリーヌ・ド・メディシス (イタリア語名はカテリーナ。フランス語風にするとカトリーヌとなる) は、歴史家の間ではどうにも評判が悪い。理由の1つはメディチ家とのつながりであり、もう1つはどんな犠牲を払ってでもヴァロワ家 (カペー家の母系の分家) の王位を維持しようとしたその無慈悲ぶりである。しかしなんと言われようとも、カトリーヌがいなければ、ヴァロワ家がいくつもの難局を切り抜けることも、フランスが数々の試練と苦難を乗り切ることも不可能だったのは確かだ。

カトリーヌが生まれたメディチ家は、それはもう信じられないほどに裕福で力のある一族だった。なにしろメディチ家はフィレンツェの事実上の支配者であり、王たちを相手に銀行業を営み、ローマ教皇まで輩出していたのである (カトリーヌの大叔父は、当時の教皇レオ10世だった)。レオ10世によってウルビーノ公に叙されていたカトリーヌの父ロレンツォは、伝えられるところによると、カトリーヌの誕生を「まるで男の子が生まれたかのように喜んだ」という。 聡明で才能がある (「女にしては」という枕言葉がついて回ったが) 上、公国君主を父に持っていたということは、カトリーヌが高貴な出自を武器とし、どんな道でも切り開ける可能性があることを意味していた。当然ながら王族の求婚者は非常に多く、スコットランドのジェームズ5世などの求婚を断り、1533年10月に14歳という若さで、カトリーヌはフランス王の次男と結婚した。この結婚は、メディチ家出身の教皇クレメンス7世が取り決めたものであった。

若き新妻は、夫である王子アンリに会うことはほとんどできなかった。なにしろ彼はたくさんの愛人に会うのに忙しかったのだ。しかし1536年、アンリの兄であるフランソワ3世が風邪で亡くなったことでアンリは王太子となり、したがってカトリーヌはフランスの王太子妃となった。さらにカトリーヌは突然、非常に高い出産能力を発揮しはじめた。それまで8年間の努力にもかかわらず子供に恵まれなかったカトリーヌだが、1544年についに男児を出産。この夫婦の身体構造上の「異常」に気づいた著名な医師ジャン・フェルネルの助言に従ったところ、翌年には女児が生まれた。フェルネルの助言がどのようなものだったにせよ、確かに効果はあったようで、それからカトリーヌはアンリとの間にさらに8人の子供をもうけることになる (当時の出産における子供の死亡率を考えれば、これは驚くべき偉業だ)。

1547年3月にアンリの父が亡くなると、カトリーヌはフランス王妃となった。しかしアンリは愛妾のディアヌ・ド・ポアチエに夢中になっており、カトリーヌによそよそしくも敬意を払ってはいたが、カトリーヌが政治的影響力を持つことは許さなかった。それどころかアンリは、カトリーヌが熱心に欲しがっていた城をディアヌに与えることさえした。やがて1556年、カトリーヌは双子の出産の際に危うく命を落としかける。彼女の体は、もはやこれ以上の妊娠には耐えられそうになかった。カトリーヌは自分の子供を溺愛し、子供たちが最高の教育を受け、なにひとつ不自由のない生活を送り、長男以外の自分の子というものにおよそ関心を示さない父親から危害を加えられずに済むよう、王妃の地位とメディチ家の財力を最大限に活用した。黒魔術に手を出しているという噂もあったカトリーヌは、1556年8月にはかの有名なノストラダムスを王宮に招き、7人の子供たちのために星占いまでさせている。

1559年6月にアンリは、自分の13歳の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世の代理結婚式でおこなわれる馬上槍試合に参加すると言い出した。賢明な判断だったとは言えない。なぜならこの馬上槍試合でアンリは重傷を負い、11日後に死去することになるためである。アンリの死後はフランソワ2世 (この当時、すでにスコットランド女王メアリー1世と結婚してスコットランド王となっていた) が15歳でフランス王となったが、しかしすぐにギーズ公とロレーヌ枢機卿がルーブル宮殿に移り、クーデター同然の形で実権を掌握する。カトリーヌは、メディチ家の一員として受け継いだ政治的勘と狡猾さを総動員した結果、ギーズ派とともに動くべきだと判断した。

自らその地位を主張したわけではないのだが、ともあれ事実上の摂政として、カトリーヌは自身の権力と影響力の強化にとりかかった。新たに得た権限を使ってカトリーヌは、ディアヌ・ド・ポアチエに宝器類 (すっかり心を奪われたアンリが与えてしまったのだ) と、かつてカトリーヌが欲した城を返還させ、前王の妾を事実上隠居させた。いまや王母となったカトリーヌは、ギーズ家のプロテスタントに対する残虐な迫害からも、ギーズ家を倒そうとして失敗したブルボン家の陰謀からも、努めて距離を置くようにしていた。またカトリーヌは、法治体制を軽んじる (特に、プロテスタントを殺すためなら手段を選ぼうとしなかった) ギーズ家に対抗するべく、新しい大法官ミシェル・ド・ロピタルを支援することもした。だが一方で、息子の王位を守るためには冷酷になることもあった。コンデ公が軍を召集してカトリックの街を襲った時には、カトリーヌはコンデ公に王宮への出頭を命じ、到着したコンデ公をただちに投獄している (その後にフランソワ2世が急死したため、コンデ公はかろうじて処刑を免れた)。

こういったことはしかし、カトリーヌにとってはまったく気晴らしにならなかった。そこでささやかな刺激として、彼女は王宮で豪華な宴――いわゆるジョワユーズ・マグニフィセンス――を主催するようになる。結婚式、記念祭、洗礼式、祝祭日など、考えられる限りの機会におこなわれたそうした宴の席で活躍したのが、悪名高いエスカドロン・ヴォラン (「特別遊撃隊」) である。イザベル・デ・ラ・トゥール夫人やシャーロット・デ・ボーヌ・サンブランセ男爵夫人といった面々が所属していたエスカドロン・ヴォランは、若く魅力的な貴婦人の集団であり、王宮で権力を振るう男たちと関係を持ち、そこからカトリーヌの陰謀に役立つ情報を引き出すことを目的としていた。暗殺や恐喝といった手段に加えてこうした情報も駆使することで、カトリーヌはフランスや自分の地位に対する脅威をかわしたのである。

やがてカトリーヌは10歳の息子シャルル9世の摂政となり、さらに強い権限を手にした。少年王は病弱かつ情緒不安定で、戴冠式では声を上げて泣いたという。カトリーヌはこの息子を注意深く見張り、息子の寝室で一緒に寝ることまでした。事実上フランスの支配者となったカトリーヌだが、このときフランスはいくつかの深刻な問題に直面していた。カトリーヌはメディチ家流のやり方で、これらの問題の処理に取りかかる。まずカトリーヌはフランスの宗教指導者たち――カトリックとユグノー (フランスのプロテスタント) の双方――を呼び出し、教義の違いによる争いを解決しようとした。それに失敗すると、今度はサン・ジェルマン勅令を発し、宗教的寛容を促進した。だが不幸にも、ギーズ公がユグノーの礼拝を襲って虐殺行為をするという挙に出たため、この後フランスは30年に及ぶ宗教戦争の時代に突入することになる。

1562年、プロテスタントの貴族たちは虐殺に対抗して軍隊を召集した。彼らとの交渉に失敗したカトリーヌは、国王軍を差し向けて反撃に出る。その後プロテスタントであるアントワーヌ・ド・ブルボンが負傷がもとで亡くなり、カトリックであるギーズ公が暗殺されると、カトリーヌは1563年にアンボワーズ勅令 (「和解勅令」) を出し、騒動に終止符を打った。つづいてカトリーヌはユグノーとカトリック双方の貴族を招集し、例によってフランスにちょっかいを出してきていたイギリス人の手から、占領されていたル・アーヴルを奪い返した。シャルル9世が命じたサン・バルテルミの虐殺の件を除けば、このイタリア人の女王にとって事態はかなり安定していたと言える。そしてシャルル9世が23歳で亡くなると、1573年にはカトリーヌのお気に入りであるもうひとりの息子がポーランド王となり (長くはつづかなかった)、1574年にはフランス王アンリ3世として王位に就いた。

だが、アンリ3世はすでに成人していて心身ともに健康であり、兄たちのように母親の言いなりにはならなかった。それでも10年の間はカトリーヌが統治において些細な点まで監督することができていたが、1588年のブロワにおいてアンリ3世はカトリーヌが任命した大臣全員を突然解任してしまい、これによってカトリーヌの政治的影響力は消滅する。さらにアンリ3世は、母の協力者でありいまだ権力を保っていたギーズ家に対しても行動を起こし、ギーズ公を暗殺、その他にもギーズ家の8人を亡き者とした。寝たきりとなっていた69歳のカトリーヌは、それを知らされても冷静なままだったという。それから1か月もしない1589年1月に、カトリーヌは死去した。