コンセプト
主要文明
指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路

イントロダクション

アマニトレ

アレキサンドロス

アンビオリクス

ヴィクトリア (蒸気の時代)

ヴィクトリア (帝国の時代)

エイブラハム・リンカーン

エリザベス1世

カトリーヌ・ド・メディシス (黒妃)

カトリーヌ・ド・メディシス (麗妃)

ガンジー

ギターチャ

キュロス

ギルガメシュ

クレオパトラ (エジプト)

クレオパトラ (プトレマイオス朝)

ゴルゴー

サラディン (スルタン)

サラディン (宰相)

シモン・ボリバル

ジャヤーヴァルマン7世

ジョアン3世

ジョン・カーティン

テオドラ

テディ・ルーズベルト (ブルムース)

テディ・ルーズベルト (ラフライダー)

トミュリス

トラヤヌス

ナーディル・シャー

バシレイオス2世

ハンムラビ

ピョートル

フェリペ2世

フビライ・ハン (中国)

ペドロ2世

ペリクレス

ムベンバ・ア・ンジンガ

メネリク2世

モンテスマ

ヤドヴィガ

ユリウス・カエサル

ラムセス2世

ルートヴィヒ2世

レディ・シックス・スカイ

ンジンガ・ムバンデ

永楽帝

苛烈王ハーラル3世 (ヴァリャーギ)

苛烈王ハーラル3世 (王)

始皇帝 (天命)

始皇帝 (統一者)

赤髭王フリードリヒ1世

徳川家康

武則天

北条時宗

趙氏貞

セオドア・ルーズベルト
固有能力

史跡と公園

自然遺産か山岳に隣接していてアピールが「最高」のタイルの 科学力+2。遺産か森タイルに隣接していてアピール「最高」タイルの 文化力+2。国立公園を築いた都市では、すべてのタイルのアピール+1。

概要
テディ・ルーズベルトは、自分の大陸では強大な武力を発揮しますが、自ら戦争を仕掛けることはありません。
詳細説明
ゲーム序盤におけるアメリカの唯一のアドバンテージは、自分の大陸内で 戦闘力が+5されることです。アメリカは大陸全土に素早く領土を広げ、近隣の都市国家の支持を得ようとします。民主主義政策スロットがワイルドカードになるため、政府の選択が重要となりますが、特に共和制や商業共和制は文化による勝利を目指すうえで大いに有効です。政府複合施設での国立歴史博物館の建設も検討すべきです。映画スタジオ、国立公園ボーナス、そして産業時代以降に登場する2種類の固有ユニットにより、20世紀からは圧倒的な存在感を放つようになるでしょう。
歴史的背景
裕福な家庭の御曹司にしてスポーツマン、探検家、大きな獲物を狙う狩人、戦争の英雄、自然主義者にして自然保護活動家、愛国者、厚顔の帝国主義者、作家、政治家。セオドア (友人からは「T・R・」や「テディー」と呼ばれた)・ルーズベルト・ジュニアは、最も多くの顔を持つアメリカ大統領であり、進歩主義の時代にふさわしい人物だった。ニューヨーク州下院議員、海軍次官、ニューヨーク州知事、ウィリアム・マッキンリーの副大統領、そしてアメリカ合衆国大統領として、彼は改革と近代化の理想を推進した。私生活では、喪失に際しての禁欲主義と死の危険を前にしての勇気が、アメリカ的な男らしさの理想像というイメージの一因となっている。表舞台に立ったその瞬間から、テディー・ルーズベルトという存在は大きく「誇張」されることになったのだ。

1858年10月に生まれたテディーは病気がちな子供で、重度の喘息をはじめ、当時流行していたすべての小児疾患を患った。にもかかわらず、彼は「わんぱくな知りたがり」で、すぐに動物学に情熱をいだき、趣味として剥製 (あらゆる母親にとっての悪夢) を楽しんだ。ちなみに最初の作品は7歳の時に地元の市場で手に入れたアザラシの頭だったらしい。両親と家庭教師によって家で教育を受けたルーズベルトは、一部の分野には通じていたが、他の分野にはまるで無関心だった。コロンビア大学ロースクールに入学したが、法律を「不合理」で「つまらない」と考え、すぐに退学して政治の道に入る。「統治する階級になりたかったのだ」との言は有名である。

共和党の支援を受けたルーズベルトは、1882年の選挙でニューヨーク州下院議会の議員になり、本格的に政界入りを果たした。さらに、州政府のさまざまな腐敗を暴くことで脚光を浴び、ニューヨーク市の状態を改善する法案を推進した。しかし、政治闘争は法律と同じくらいつまらないものであることを知り、彼は1回目の「引退」を決意。
「西部の荒野」で冒険的な生活を送る。

有力者を苛立たせた在職中と選挙キャンペーンの失敗 (たとえば1886年にはニューヨーク市長選で大敗している) の間の期間、ルーズベルトはダコタ準州にあるチムニービュート農場へ通い、そこにとどまることを誓った。定期的に東部へ引き戻されたが、彼は農場主として何度も西部を訪れ、乗馬、ロープ術、そしてハンティングを学んだ。テディーは短期間であったが保安官の副官としても働いた。西部での滞在については、「カウボーイのやり方」に関する彼の記事や書籍によってよく知られている。

彼は西部を強く愛したが、西部は特に彼を愛していなかった。1887年の厳しい冬、彼は家畜も投資した金も失うことになったのだ。ルーズベルトは失意のうちに東部へ戻った。しかし、彼は荒野とその「不便を忍ぶ」ことをさらに愛するようになっていた。そうした冒険を愛する心により、ルーズベルトは広く宣伝された1909年から1911年にかけてのアフリカ狩猟旅行 (ルーズベルトは仲間のハンターとともにスミソニアン博物館のために11,000頭の動物を仕留めた) と1913年から1914年におけてのアマゾン探検 (ルーズベルトの感染症と病気によって短縮された) に駆り立てられた。

農場への投資の失敗はルーズベルトをひどく悩ませたが、彼はすでに悲嘆を経験していた。1884年、彼が24歳の時、2年間をともに過ごした妻アリスが、娘を出産した2日後に亡くなったのだ。同じ家で愛する母ミッティーが腸チフスで亡くなってから1日も経っていなかった。2人を同時に失った喪失感が、西部へ没頭する一因になったことは間違いない。1886年12月にルーズベルトは幼なじみのイーディス・カーロウと再婚する。5人の子を授かったことで、彼の人生に再び喜びがもたらされた。ところが幸せな結婚生活でさえもその冒険心は抑えられず、イーディスと行ったヨーロッパへの新婚旅行中に、彼は登山隊を率いてモンブラン山の頂上を目指した。この功績により、彼は名高いロンドン王立協会の一員となっている。

米西戦争が勃発すると、またしても冒険心に狩られたテディーは海軍次官の職を辞し、義勇兵部隊を創設した。これが第1合衆国義勇騎兵隊だが、「ラフライダーズ」の名前のほうがよく知られている。ルーズベルト「中佐」は、最も有名なものとしてはサン・フアン高地の戦いなど、何度か激しい戦いに参加し、相当な悪名を馳せて帰還した。その悪名が1898年のニューヨーク州知事選の紙一重の勝利に役立ったことは間違いない (ルーズベルトのイメージが有権者の間で反響を呼んだのはこれがはじめてではない)。1900年の共和党大会では、彼は推挙されてマッキンリーの副大統領候補になった。2期目も大勝したが、不幸にもマッキンリーは1901年9月に暗殺されてしまう。9月14日、ルーズベルトは大統領として就任の宣誓をおこなった。

ルーズベルトは1909年までアメリカ合衆国大統領を務めた。彼はダコタやサン・フアン高原でおこなったように、慣習も、特別利益団体も、トラストも、企業からの賄賂もはねのけた。1902年の炭鉱夫のストライキの強制的な仲裁、連邦の鉄道料金の監査組織の設立、食肉を調査する法や食品と薬剤の衛生法の施行、スタンダード・オイルやノーザン・セキュリティーズ鉄道トラストといった独占会社を解散させるための40を超える反トラスト訴訟など、彼は精力的に政務をこなしていった。その外交政策も積極的なもので、「棍棒」外交という言葉が生み出されたほどである。

ルーズベルトの外交政策の基本は、「静かに話し、大きな棍棒を持て」という格言のとおりだった。彼自身はそれを「知性による先見と、なんらかの危機が起こるよりも素早く動く決定的な行動力」であると説明した。つまりルーズベルトにとっては、平和に交渉するが、同時に棍棒で脅すという意味だったのだ。脅しとしては、通商停止や軍事行動など、有効なものならばなんでもよかった。ルーズベルトはフィリピンやかつてのスペインの植民地をアメリカが獲得し、地球全体に広がる国家となることを支持しており、外交姿勢にもその帝国主義的傾向が現れていた。しかし彼は何よりも海外における2つの功績によって記憶されつづけている。つまり、パナマ運河の建設と、日露戦争終結の仲介役となったことによるノーベル平和賞受賞である。国際舞台における数多くの危機や状況でルーズベルトは中心にありつづけ、常に強い影響力を発揮し、「棍棒」を振るったのである。

その人気と権力にもかかわらず、T・R・が後継者としてタフトを支持したため、共和党に亀裂が入った。ルーズベルトは進歩主義を信奉しつづけたが、タフトは党の多数派とともにルーズベルトによる統率を拒否した。テディーは共和党の大統領候補になる機会を失うと、一般的にはブル・ムース党として知られた進歩主義政党を結成し、すぐに候補に指名された。彼の政策はシンプルで、「腐敗したビジネスと腐敗した政治との不道徳な提携を解消する」というものだった。暗殺未遂事件を切り抜けた (しかし銃弾は胸に埋まったままの) テディーは、十分な支持者を得ることができず、選挙では次点に終わり、ウッドロウ・ウィルソンが大統領となった。これを機にT・R・は政治活動から身を引いた。それでも彼はウィルソンの政治を批判しつづけ、共和党が1918年に議会で優位を取り戻すのに一役買った。ルーズベルトは1919年1月5日、息苦しさを訴えた後に就寝し、翌日の早朝、そのまま息を引き取った。
icon_leader_t_roosevelt
子孫のためにより良い土地を残しておくことが大切だ。

特性

文明
icon_civilization_america
アメリカ

設定

アジェンダ
ブルムース
アピールの高いタイルの近くに都市を築き、アピールの高い区域や遺産を築くことを目指す。同様の行動をとる文明を好み、アピールの低い領土に甘んじる文明を嫌う。
宗教
icon_religion_protestantism
プロテスタント
icon_leader_t_roosevelt
子孫のためにより良い土地を残しておくことが大切だ。

特性

文明
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アメリカ

設定

アジェンダ
ブルムース
アピールの高いタイルの近くに都市を築き、アピールの高い区域や遺産を築くことを目指す。同様の行動をとる文明を好み、アピールの低い領土に甘んじる文明を嫌う。
宗教
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プロテスタント
固有能力

史跡と公園

自然遺産か山岳に隣接していてアピールが「最高」のタイルの 科学力+2。遺産か森タイルに隣接していてアピール「最高」タイルの 文化力+2。国立公園を築いた都市では、すべてのタイルのアピール+1。

概要
テディ・ルーズベルトは、自分の大陸では強大な武力を発揮しますが、自ら戦争を仕掛けることはありません。
詳細説明
ゲーム序盤におけるアメリカの唯一のアドバンテージは、自分の大陸内で 戦闘力が+5されることです。アメリカは大陸全土に素早く領土を広げ、近隣の都市国家の支持を得ようとします。民主主義政策スロットがワイルドカードになるため、政府の選択が重要となりますが、特に共和制や商業共和制は文化による勝利を目指すうえで大いに有効です。政府複合施設での国立歴史博物館の建設も検討すべきです。映画スタジオ、国立公園ボーナス、そして産業時代以降に登場する2種類の固有ユニットにより、20世紀からは圧倒的な存在感を放つようになるでしょう。
歴史的背景
裕福な家庭の御曹司にしてスポーツマン、探検家、大きな獲物を狙う狩人、戦争の英雄、自然主義者にして自然保護活動家、愛国者、厚顔の帝国主義者、作家、政治家。セオドア (友人からは「T・R・」や「テディー」と呼ばれた)・ルーズベルト・ジュニアは、最も多くの顔を持つアメリカ大統領であり、進歩主義の時代にふさわしい人物だった。ニューヨーク州下院議員、海軍次官、ニューヨーク州知事、ウィリアム・マッキンリーの副大統領、そしてアメリカ合衆国大統領として、彼は改革と近代化の理想を推進した。私生活では、喪失に際しての禁欲主義と死の危険を前にしての勇気が、アメリカ的な男らしさの理想像というイメージの一因となっている。表舞台に立ったその瞬間から、テディー・ルーズベルトという存在は大きく「誇張」されることになったのだ。

1858年10月に生まれたテディーは病気がちな子供で、重度の喘息をはじめ、当時流行していたすべての小児疾患を患った。にもかかわらず、彼は「わんぱくな知りたがり」で、すぐに動物学に情熱をいだき、趣味として剥製 (あらゆる母親にとっての悪夢) を楽しんだ。ちなみに最初の作品は7歳の時に地元の市場で手に入れたアザラシの頭だったらしい。両親と家庭教師によって家で教育を受けたルーズベルトは、一部の分野には通じていたが、他の分野にはまるで無関心だった。コロンビア大学ロースクールに入学したが、法律を「不合理」で「つまらない」と考え、すぐに退学して政治の道に入る。「統治する階級になりたかったのだ」との言は有名である。

共和党の支援を受けたルーズベルトは、1882年の選挙でニューヨーク州下院議会の議員になり、本格的に政界入りを果たした。さらに、州政府のさまざまな腐敗を暴くことで脚光を浴び、ニューヨーク市の状態を改善する法案を推進した。しかし、政治闘争は法律と同じくらいつまらないものであることを知り、彼は1回目の「引退」を決意。
「西部の荒野」で冒険的な生活を送る。

有力者を苛立たせた在職中と選挙キャンペーンの失敗 (たとえば1886年にはニューヨーク市長選で大敗している) の間の期間、ルーズベルトはダコタ準州にあるチムニービュート農場へ通い、そこにとどまることを誓った。定期的に東部へ引き戻されたが、彼は農場主として何度も西部を訪れ、乗馬、ロープ術、そしてハンティングを学んだ。テディーは短期間であったが保安官の副官としても働いた。西部での滞在については、「カウボーイのやり方」に関する彼の記事や書籍によってよく知られている。

彼は西部を強く愛したが、西部は特に彼を愛していなかった。1887年の厳しい冬、彼は家畜も投資した金も失うことになったのだ。ルーズベルトは失意のうちに東部へ戻った。しかし、彼は荒野とその「不便を忍ぶ」ことをさらに愛するようになっていた。そうした冒険を愛する心により、ルーズベルトは広く宣伝された1909年から1911年にかけてのアフリカ狩猟旅行 (ルーズベルトは仲間のハンターとともにスミソニアン博物館のために11,000頭の動物を仕留めた) と1913年から1914年におけてのアマゾン探検 (ルーズベルトの感染症と病気によって短縮された) に駆り立てられた。

農場への投資の失敗はルーズベルトをひどく悩ませたが、彼はすでに悲嘆を経験していた。1884年、彼が24歳の時、2年間をともに過ごした妻アリスが、娘を出産した2日後に亡くなったのだ。同じ家で愛する母ミッティーが腸チフスで亡くなってから1日も経っていなかった。2人を同時に失った喪失感が、西部へ没頭する一因になったことは間違いない。1886年12月にルーズベルトは幼なじみのイーディス・カーロウと再婚する。5人の子を授かったことで、彼の人生に再び喜びがもたらされた。ところが幸せな結婚生活でさえもその冒険心は抑えられず、イーディスと行ったヨーロッパへの新婚旅行中に、彼は登山隊を率いてモンブラン山の頂上を目指した。この功績により、彼は名高いロンドン王立協会の一員となっている。

米西戦争が勃発すると、またしても冒険心に狩られたテディーは海軍次官の職を辞し、義勇兵部隊を創設した。これが第1合衆国義勇騎兵隊だが、「ラフライダーズ」の名前のほうがよく知られている。ルーズベルト「中佐」は、最も有名なものとしてはサン・フアン高地の戦いなど、何度か激しい戦いに参加し、相当な悪名を馳せて帰還した。その悪名が1898年のニューヨーク州知事選の紙一重の勝利に役立ったことは間違いない (ルーズベルトのイメージが有権者の間で反響を呼んだのはこれがはじめてではない)。1900年の共和党大会では、彼は推挙されてマッキンリーの副大統領候補になった。2期目も大勝したが、不幸にもマッキンリーは1901年9月に暗殺されてしまう。9月14日、ルーズベルトは大統領として就任の宣誓をおこなった。

ルーズベルトは1909年までアメリカ合衆国大統領を務めた。彼はダコタやサン・フアン高原でおこなったように、慣習も、特別利益団体も、トラストも、企業からの賄賂もはねのけた。1902年の炭鉱夫のストライキの強制的な仲裁、連邦の鉄道料金の監査組織の設立、食肉を調査する法や食品と薬剤の衛生法の施行、スタンダード・オイルやノーザン・セキュリティーズ鉄道トラストといった独占会社を解散させるための40を超える反トラスト訴訟など、彼は精力的に政務をこなしていった。その外交政策も積極的なもので、「棍棒」外交という言葉が生み出されたほどである。

ルーズベルトの外交政策の基本は、「静かに話し、大きな棍棒を持て」という格言のとおりだった。彼自身はそれを「知性による先見と、なんらかの危機が起こるよりも素早く動く決定的な行動力」であると説明した。つまりルーズベルトにとっては、平和に交渉するが、同時に棍棒で脅すという意味だったのだ。脅しとしては、通商停止や軍事行動など、有効なものならばなんでもよかった。ルーズベルトはフィリピンやかつてのスペインの植民地をアメリカが獲得し、地球全体に広がる国家となることを支持しており、外交姿勢にもその帝国主義的傾向が現れていた。しかし彼は何よりも海外における2つの功績によって記憶されつづけている。つまり、パナマ運河の建設と、日露戦争終結の仲介役となったことによるノーベル平和賞受賞である。国際舞台における数多くの危機や状況でルーズベルトは中心にありつづけ、常に強い影響力を発揮し、「棍棒」を振るったのである。

その人気と権力にもかかわらず、T・R・が後継者としてタフトを支持したため、共和党に亀裂が入った。ルーズベルトは進歩主義を信奉しつづけたが、タフトは党の多数派とともにルーズベルトによる統率を拒否した。テディーは共和党の大統領候補になる機会を失うと、一般的にはブル・ムース党として知られた進歩主義政党を結成し、すぐに候補に指名された。彼の政策はシンプルで、「腐敗したビジネスと腐敗した政治との不道徳な提携を解消する」というものだった。暗殺未遂事件を切り抜けた (しかし銃弾は胸に埋まったままの) テディーは、十分な支持者を得ることができず、選挙では次点に終わり、ウッドロウ・ウィルソンが大統領となった。これを機にT・R・は政治活動から身を引いた。それでも彼はウィルソンの政治を批判しつづけ、共和党が1918年に議会で優位を取り戻すのに一役買った。ルーズベルトは1919年1月5日、息苦しさを訴えた後に就寝し、翌日の早朝、そのまま息を引き取った。
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