コンセプト
主要文明
指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
北条時宗
固有能力

神風

海に接した陸上タイルにいる陸上ユニットが 戦闘力+5のボーナス、浅瀬タイルにいる海洋ユニットが 戦闘力+5のボーナスを得る。また兵営、聖地、劇場広場 (区域) の建設にかかる時間が半分になる。

概要
北条時宗が支配する日本にとっての「武士道」とは、宗教と 文化力の発展が軍事力の強化とうまく調和した、コンパクトで機能的な沿岸国家を作りあげることです。
詳細説明
日本は、聖地とキャンパスを隣接させることで、山岳と隣接させた場合と同じ隣接ボーナスを得られます。そのため、都市に適した地形を見つけるのは難しくなく、逆に建物を密集させることが利点になります。北条時宗は陸上戦力と海洋戦力が最も力を発揮できる海岸沿いに勢力を伸ばすので、海の占める割合が大きいマップでは要注意です。一見すると軍事力頼みに思えますが、北条時宗が率いる日本は、宗教や 文化力でも他国に引けをとりません。20世紀にはエレクトロニクス産業が登場するので、 文化による勝利を目指すプレイヤーには手強いライバルとなるでしょう。
歴史的背景
鎌倉幕府の第5代執権北条時頼の子として生まれた時宗は、誕生時より得宗家 (北条氏の最上位に位置づけられていた家系) の跡取りとなることが定められていた。1268年に18歳という若さで執権となった時宗は、34歳で死去まで日本の変革を推し進めた。

執権に就任してすぐに、時宗は国家的危機に直面することとなる。モンゴル帝国 (大元朝) のフビライ・ハンより日本に使節が派遣され、元の属国とならねば攻め滅ぼすとの通達がなされたのである。皇族も含め、日本の官職につく者たちは交渉によって妥協点を見出すことを主張したが、当時10代の時宗は元の要求を断固としてはねのけ、使者を送り返した (どのような状態で送り返したかについては記録が残っていない)。

元はその後の4年間で4度にわたって使節を派遣してきたが、そのたびに時宗は要求を拒否しつづけた。元がやがて武力に訴えることを予測した時宗は、侵略にそなえるために九州に軍勢を配置した。1274年、2万5000の兵士によって構成されたモンゴルと高麗の連合軍が来襲し、対馬を含む周辺の小さな島を制圧した。しかし彼らはいわゆる「神風」によって敗退したため、当面の脅威は去ることとなった。

侵攻という挙に出たものの、現実的な思考の持ち主でもあったフビライ・ハンは、1275年にさらに5人の使節を派遣し、元への朝貢を要求した。さらにその使節たちは返答を得るまでは日本を去らないと主張したため、時宗は彼らを鎌倉に連れていって斬首した。元は、1279年にも5人の使節を派遣したが、この使節たちもまた同様の運命をたどった。こうした中、朝廷の命によって各地の神社や寺では異国調伏の祈祷がおこなわれ、時宗の指示によって襲来が予測される地の防衛強化などが進められた。

1281年の夏、前回よりもはるかに大規模な軍勢 (14万人の兵士と4000隻の船で構成されていたともいわれる) が日本の沖合に出現し、時宗が指揮する日本軍と相対した。元軍は対馬と志賀島で敗退したのちに壱岐島に上陸し、そこから平戸島に移動した。その3日後、元軍の艦隊は日本軍による総攻撃を受け、多大な損害を受けて混乱に陥った。この影響で多くのモンゴル人指揮官が戦場を離脱し、およそ10万人の兵士たちが指揮官を失って取り残されることとなった。さらに8月を迎える頃に発生した台風 (神風) が元軍の船を2日にわたって翻弄し、高麗の司令官を乗せた旗艦を含む多くの船が沈没することとなった。そして島に残っていた10万人の兵士たちもまた、時宗の軍勢によって掃討された。

こうして日本は救われ、その後、第二次世界大戦の終盤まで外国勢力に侵略されることはなかった。時宗は禅を学んだり、元寇で犠牲になった兵士たちを弔うために円覚寺を建てたりと、戦い以外のことに時間をついやすようになった。彼は若い頃より律宗の信徒であったが、元の侵略の前から禅宗に帰依していた。熱心な信者だったようで、自らの死の当日には出家もしている。

時宗が元軍に勝利したこともあり、禅宗は武士階級の間に急速に広まっていった。本当にその教えを信じる者もいれば、執権に気に入られたいがために信奉した者もいたと思われる。こうして、それまで単なる一宗派にすぎなかった禅宗は、まず北条氏のおひざ元である鎌倉で流行し、続いて朝廷のある京都でも広まっていった。また禅を侍の振舞い (のちの武士道) と結びつけ、質素に生き、武芸を極め、忠義を重んじ、生よりも名誉ある死を選ぶといった価値観の礎を作ったのも時宗である。宋明理学から生まれた侍の行動規範は、時宗によって神道と禅の要素が加えられ、単なる暴力的なものではなく、知と美を含んだものへと変わっていった。そして後の江戸時代には、こうした教えが武士道として体系化され、法の中にも組み込まれていったのである。

時宗は元寇で命を落とした者たちを祀る社を建てるだけでなく、その他にも多くの形で戦いに参加した者たちに報いようとした (ただし、その多くを実行する前に死去したため、息子の貞時がそれを引き継ぐこととなった )。まず恩賞を得ていなかった御家人に対しては公有地の供与がおこなわれ、出兵するために彼らが売却または質入れした土地を取り戻せるようにした。こうした審議をおこなうために派遣された者たちは「徳政の御使い」と呼ばれたという。また元を打ち破るために祈祷をおこなった神社や寺に対しては、感謝のしるしとして彼らが失った土地を無償で返還するという政令が布告された。

しかしこうした寛大な処置をおこなっていた最中の1284年、時宗は突如病に倒れて急死した。時宗は日本を救った人物として英雄視されたが、元の撃退や禅の普及に多大な金銭をつぎ込んだため、結果的として鎌倉幕府と北条氏の衰退 (時宗は北条氏の私財の多くを寺社につぎこんだ )を招くことにもなった。そして50年後には建武の新政が開始され、ほどなくして足利幕府が誕生することとなったのである。
icon_leader_hojo
武士は戦わんが為に生き、勝たんが為戦うものなり。

特性

文明

設定

アジェンダ
武士道
強力な軍事力と 信仰力と 文化力を併せ持つ文明を好む。軍事力は強くても 信仰力と 文化力の伴わない文明は好まない。
宗教
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武士は戦わんが為に生き、勝たんが為戦うものなり。

特性

文明

設定

アジェンダ
武士道
強力な軍事力と 信仰力と 文化力を併せ持つ文明を好む。軍事力は強くても 信仰力と 文化力の伴わない文明は好まない。
宗教
固有能力

神風

海に接した陸上タイルにいる陸上ユニットが 戦闘力+5のボーナス、浅瀬タイルにいる海洋ユニットが 戦闘力+5のボーナスを得る。また兵営、聖地、劇場広場 (区域) の建設にかかる時間が半分になる。

概要
北条時宗が支配する日本にとっての「武士道」とは、宗教と 文化力の発展が軍事力の強化とうまく調和した、コンパクトで機能的な沿岸国家を作りあげることです。
詳細説明
日本は、聖地とキャンパスを隣接させることで、山岳と隣接させた場合と同じ隣接ボーナスを得られます。そのため、都市に適した地形を見つけるのは難しくなく、逆に建物を密集させることが利点になります。北条時宗は陸上戦力と海洋戦力が最も力を発揮できる海岸沿いに勢力を伸ばすので、海の占める割合が大きいマップでは要注意です。一見すると軍事力頼みに思えますが、北条時宗が率いる日本は、宗教や 文化力でも他国に引けをとりません。20世紀にはエレクトロニクス産業が登場するので、 文化による勝利を目指すプレイヤーには手強いライバルとなるでしょう。
歴史的背景
鎌倉幕府の第5代執権北条時頼の子として生まれた時宗は、誕生時より得宗家 (北条氏の最上位に位置づけられていた家系) の跡取りとなることが定められていた。1268年に18歳という若さで執権となった時宗は、34歳で死去まで日本の変革を推し進めた。

執権に就任してすぐに、時宗は国家的危機に直面することとなる。モンゴル帝国 (大元朝) のフビライ・ハンより日本に使節が派遣され、元の属国とならねば攻め滅ぼすとの通達がなされたのである。皇族も含め、日本の官職につく者たちは交渉によって妥協点を見出すことを主張したが、当時10代の時宗は元の要求を断固としてはねのけ、使者を送り返した (どのような状態で送り返したかについては記録が残っていない)。

元はその後の4年間で4度にわたって使節を派遣してきたが、そのたびに時宗は要求を拒否しつづけた。元がやがて武力に訴えることを予測した時宗は、侵略にそなえるために九州に軍勢を配置した。1274年、2万5000の兵士によって構成されたモンゴルと高麗の連合軍が来襲し、対馬を含む周辺の小さな島を制圧した。しかし彼らはいわゆる「神風」によって敗退したため、当面の脅威は去ることとなった。

侵攻という挙に出たものの、現実的な思考の持ち主でもあったフビライ・ハンは、1275年にさらに5人の使節を派遣し、元への朝貢を要求した。さらにその使節たちは返答を得るまでは日本を去らないと主張したため、時宗は彼らを鎌倉に連れていって斬首した。元は、1279年にも5人の使節を派遣したが、この使節たちもまた同様の運命をたどった。こうした中、朝廷の命によって各地の神社や寺では異国調伏の祈祷がおこなわれ、時宗の指示によって襲来が予測される地の防衛強化などが進められた。

1281年の夏、前回よりもはるかに大規模な軍勢 (14万人の兵士と4000隻の船で構成されていたともいわれる) が日本の沖合に出現し、時宗が指揮する日本軍と相対した。元軍は対馬と志賀島で敗退したのちに壱岐島に上陸し、そこから平戸島に移動した。その3日後、元軍の艦隊は日本軍による総攻撃を受け、多大な損害を受けて混乱に陥った。この影響で多くのモンゴル人指揮官が戦場を離脱し、およそ10万人の兵士たちが指揮官を失って取り残されることとなった。さらに8月を迎える頃に発生した台風 (神風) が元軍の船を2日にわたって翻弄し、高麗の司令官を乗せた旗艦を含む多くの船が沈没することとなった。そして島に残っていた10万人の兵士たちもまた、時宗の軍勢によって掃討された。

こうして日本は救われ、その後、第二次世界大戦の終盤まで外国勢力に侵略されることはなかった。時宗は禅を学んだり、元寇で犠牲になった兵士たちを弔うために円覚寺を建てたりと、戦い以外のことに時間をついやすようになった。彼は若い頃より律宗の信徒であったが、元の侵略の前から禅宗に帰依していた。熱心な信者だったようで、自らの死の当日には出家もしている。

時宗が元軍に勝利したこともあり、禅宗は武士階級の間に急速に広まっていった。本当にその教えを信じる者もいれば、執権に気に入られたいがために信奉した者もいたと思われる。こうして、それまで単なる一宗派にすぎなかった禅宗は、まず北条氏のおひざ元である鎌倉で流行し、続いて朝廷のある京都でも広まっていった。また禅を侍の振舞い (のちの武士道) と結びつけ、質素に生き、武芸を極め、忠義を重んじ、生よりも名誉ある死を選ぶといった価値観の礎を作ったのも時宗である。宋明理学から生まれた侍の行動規範は、時宗によって神道と禅の要素が加えられ、単なる暴力的なものではなく、知と美を含んだものへと変わっていった。そして後の江戸時代には、こうした教えが武士道として体系化され、法の中にも組み込まれていったのである。

時宗は元寇で命を落とした者たちを祀る社を建てるだけでなく、その他にも多くの形で戦いに参加した者たちに報いようとした (ただし、その多くを実行する前に死去したため、息子の貞時がそれを引き継ぐこととなった )。まず恩賞を得ていなかった御家人に対しては公有地の供与がおこなわれ、出兵するために彼らが売却または質入れした土地を取り戻せるようにした。こうした審議をおこなうために派遣された者たちは「徳政の御使い」と呼ばれたという。また元を打ち破るために祈祷をおこなった神社や寺に対しては、感謝のしるしとして彼らが失った土地を無償で返還するという政令が布告された。

しかしこうした寛大な処置をおこなっていた最中の1284年、時宗は突如病に倒れて急死した。時宗は日本を救った人物として英雄視されたが、元の撃退や禅の普及に多大な金銭をつぎ込んだため、結果的として鎌倉幕府と北条氏の衰退 (時宗は北条氏の私財の多くを寺社につぎこんだ )を招くことにもなった。そして50年後には建武の新政が開始され、ほどなくして足利幕府が誕生することとなったのである。