コンセプト
主要文明
指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路

イントロダクション

アステカ

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ビザンティン

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フランス

ベトナム

ペルシア

ポルトガル

ポーランド

マケドニア

マヤ

ローマ

ロシア

大コロンビア

中国

日本

フランス
固有能力

グランドツアー

中世、ルネサンス時代、産業時代の遺産に対する 生産力+20%。遺産による 観光力+100%。

歴史的背景
フランスはオートキュイジーヌ、オートクチュール、オートコントルや、その他たくさんの「オート (高級)」を文明にもたらした。しかし、フランスが文化以外の面で世界に貢献したことも事実であり、フランスは、百年戦争、恐怖政治、ナポレオンのヨーロッパ征服 (の試み) など、フランスは歴史にさまざまな足跡を残している。

ローマ人が手に余るガリア人の支配をあきらめると、暗黒時代の初期にいくつかのフランク族の小王国が生まれ、その多くは2、3世代つづいた。やがて、中世のフランス王国が、シャルルマーニュ大帝の統べる帝国の西部、西フランク王国から生まれた。カロリング朝の最後の王が死去すると、王家の内紛による流血を避けるため、ランス大司教がフランク王国の諸侯に呼びかけて新たな王を選出した。イル=ド=フランスの領主であるユーグ・カペー公爵が最終的に選ばれ、987年7月、ランス大司教により聖別されて戴冠した。こうして一挙に近世のフランスが形作られ、最も長くつづいた王朝が開かれた (数度の不幸な中断はあったが、1848年まで存続した)。

長くつづいたカペー朝の支配にはいくつかの基盤があった。カペー朝の王は (敬虔さには大きな差があったものの) 常にカトリックで、安定した中央政府を好んだ教会と密接な関係を築いた。(頑固なイギリス人を除く) 他国の王もカペー朝の由緒ある輝かしい血脈を認めていたため、根本的に他の諸侯より有利な立場にあった。また、カペー家が円満な家族関係を好んだことも有利に働いたが、王位継承は例外だった。しきたりによって王の弟には領地 (公領、郡、都市など) が与えられ、長子相続権の規則で家族が被る苦痛を和らげた (当然姉妹にこうした領地は与えられず、大抵は長子の継承後すぐに結婚させられた)。カトリックとユグノーの間に起きた宗教的な内紛を除くと、フランスは大抵の隣国が苦しめられてきた災い、内乱を巧みに回避できていた。貿易、芸術、工芸や、さらには宗教 (勿論カトリック) や教育も――1150年頃にパリ大学 (あるいはソルボンヌ大学とも) 創設――カペー朝のもとで隆盛を極めた。つまり、大まかに言ってカペー朝は国民に支持されていたのだ。

つづく2世紀にカペー朝の勢力と影響力は増したが、汚点がなかったわけではない――聖地を解放するため6度に及ぶ十字軍に加わり、イタリアの都市国家間の紛争に干渉し、フランスで異端と認定された民衆運動を弾圧 (そのたびに多くの血が流れた) し、1312年にはテンプル騎士団を虐殺して財産を奪った。もちろん百年戦争 (厳密に言うと戦争期間は116年) も忘れるわけにはいかないだろう。

西暦で言うところの14世紀に入ると、フランスはヨーロッパで最も強大な国家となった。1328年、フィリップ6世が王座を奪取した。プランタジネット朝のイングランド王はアキテーヌを領有しており、フランスの王位継承権を細々と主張していたが、フィリップ6世がこれを継承した際に圧力をかけることはしなかった。しかし、1337年にフィリップ6世がアキテーヌを没収すると、イングランドのエドワード3世はこれに怒って王位継承権に対する主張を再燃させ、とうとう2つの王朝は戦争に突入した。1346年7月、侵攻を開始したエドワード3世は、長い進軍の末、かの有名なクレシーの戦い (「戦い」というより思い上がっていたフランス騎士の虐殺) に勝利して港町カレーを占領した。その翌年、黒死病が発生し、膨大な数の犠牲者が発生したために侵攻は中断されたが、これに若い貴族たちは苛立ちを募らせた。

1356年に黒死病の流行がようやく収まると、再び血が流されはじめた。この年の9月、フランス王ジャン2世はポワティエの戦いで黒太子エドワードに捕らわれ、多くの貴族が殺害された (フランスが身代金の支払いを拒否したため、ジャン2世は捕らわれの身のまま没した)。戦争はアジャンクールの戦いまでもつれ込み (イングランドが再び圧倒的な勝利を収めた)、1420年のトロワ条約の締結によってフランスとイギリスの統一が宣言され、生まれて間もないヘンリー6世にイギリスとフランスの王位が与えられた。だが、この結果に納得できない者もいた。王太子シャルル7世は庶子と噂されて軽んじられたが、イギリス人に支配されるくらいならどんなフランス人でも良いと感じた愛国者は多かった。その愛国者の中に、(控えめに表現しても) 風変わりな農民の娘、ジャンヌがいた (なにせ神の声を聞き、啓示を得たというのだから只者ではない)。わずか数年でジャンヌ・ダルクはフランス軍を奮起させて勝利に導き、すべての前線からイギリス軍を押し返した。シャルル7世は1429年にフランス王として戴冠し、聖女ジャンヌは火刑に処せられた。

こうした経緯を経て、カペー家の分家であるヴァロワ家がフランス王の座を得た。このカペー朝の後継者は前身をしのぐ権勢ときわめて大きな影響力を有していた。フィリップ1世 (好色王、1060-1108) が奔放なパリの男爵をかろうじて御していたのに対し、ブルボン家 (またしてもカペー家の分家) のアンリ4世 (1589-1610) には教皇と神聖ローマ帝国のハプスブルク家の両方と事を構えられるほどの力があった。これらの王による統治の期間は短かったが、前任者と比較して文明に与えた影響はずっと大きいと言えるだろう。

栄光に満ちたルイたちの統治の下――「公正王」13世、「太陽王」14世、「最愛王」15世、そして不運な16世 (ギロチン刑に処された)――、フランスは大陸で並ぶ者のない国力を得て、ヨーロッパ文化の洗練の中心地となった。ルイ13世の時代には植民地競争に参入しようとして、探検家と入植者が北アフリカ、アメリカ、アジアの各地にフランスの文化を広めた。太陽王の長い治世では封建主義の名残が消え去り (農奴だった者たちは気がつかなかったかもしれないが)、ベルサイユが (おおむね) 完成した。また、テュレンヌやヴォーバンといった名将、モリエールやラシーヌのような大作家、その他にも才能ある芸術家たちが活躍した。史上最も有名な公妾、ポンパドゥール夫人はルイ15世の深い寵愛を受け、芸術分野――特に建築学とインテリアデザイン (豪華なルイ15世様式など)――に絶大な影響力を発揮した。フランスは2世代の間に重々しいゴシック様式から華やかなロココ様式へ移行した。しかし、アンシャン・レジーム (旧体制) は1789年に崩壊した。

持てる者と持たざる者の格差に苦しめられていたパリ市民は、1789年7月にバスティーユ監獄を襲撃し、君主制のくびきから逃れた。共和主義が生まれ、革命は各地へと波及。自由、平等、友愛を標榜する青年たち (ロベスピエール、ダントン、マラー) が恐怖政治の扉を開き、数千人もの特権階級と公安委員会に反発したすべての者を「人道的」にギロチンで処刑した。1793年6月には憲法が制定され、フランス初の共和制政府が成立した (この憲法の立案者の多くも後に投獄ないしギロチン刑に処せられた)。だがヨーロッパの諸王は民衆に広まる自由主義思想を受け入れず、ただちに第一次対仏大同盟 (オーストリア、プロイセン王国、グレートブリテン王国、スペイン王国などが参加) を結成してフランスを攻撃した。

1795年、選出された5名による総裁政府が樹立されたが、政治は順調とは言えなかった。共和国のために戦場で立てた勲功を土台として、1799年11月にコルシカ島生まれのナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こし、総裁政府を打倒してフランス第一帝政を開始した。それから15年間、フランスは対仏同盟との連戦 (合計6度) に入り、その大半で完勝を果たした。しかし、ナポレオンを打倒せんとする圧倒的な大戦力は彼を弱らせていった。イベリアとロシアの戦場でフランス軍は数千もの兵を失い、海は難敵であるイギリスが支配していた。ナポレオンは戦費を工面するため、ルイジアナを建国間もないアメリカ合衆国に売らなければならなくなった。歴史的なロシア遠征からの撤退後、第六次対仏大同盟はついにライプツィヒで大陸軍を撃破し、1814年3月にパリへ入城した。ナポレオンはエルバ島へ追放され、ブルボン家が君主に返り咲いた。

だが、それも長くはつづかなかった。ナポレオンがフランスに舞い戻り、新たに軍を興したのだ。ルイ18世は痛風を患いながらも危機を察知する感覚は鋭く、パリを逃れてオランダへ身を隠した。ヨーロッパの君主たちは再度同盟を結び、100日間の戦闘の果てにフランス軍をワーテルローの戦いで破った。ナポレオンは再び孤島の監獄へ流された (1821年、51歳にしてこの島で死去した)。フランスはまたも王政に戻った… 少なくとも1848年までは。(1回目ほどはうまく組織されていなかったものの) 再び起こった革命は、カペー朝の系譜による王政に終止符を打ち、フランス第二共和政が成立した。しかし、この政体もわずか3年で終わりを迎える。ルイ=ナポレオン・ボナパルトが叔父の足跡を辿るように自由主義者を打ち倒し、第二帝政を成立させたのである。

だが、第二帝政も1870年までしかもたなかった。ナポレオン3世が普仏戦争のセダンの戦いでプロイセン軍の捕虜となってしまったのだ。フランス下院には暴徒と化したパリ市民が殺到し、共和制への移行を求めた。決して愚かではなかった代議員たちは、すぐさま第三共和政を樹立した。皇后はイングランドへ逃亡し、フランスでは共和主義の熱狂が吹き荒れた。この時点まで、フランスはどうにも安定した政権を築けなかった (プロイセンはその間にアルザス・ロレーヌを領土として手に入れ、ドイツ帝国を成立させていた… が、これはまた別の話である)。

フランス第三共和政の統治は総合的に見て優れており、イギリス、ロシア、アメリカ合衆国とは良好な関係を築き、失わずに済んだ植民地については支配を固めることに成功した。退廃の都パリには世界中の浅ましい娯楽が集まった。まるで明かりに群がる蛾のように、ムーラン・ルージュ、セーヌ川の左岸、クレイジー・ホース、バル・ブリエには観光客が押し寄せた。前衛芸術が全盛期を迎え、フランスは「よき時代」の只中にあった。ファッション、食文化、流行の決定権はフランスにあった。フランスは政権を変えることなく第一次世界大戦を生き残ったが、「ピュロスの勝利」(「大きな犠牲を払って得た勝利」という意味の慣用句) は荒廃と貧困を残していった。

第三共和制は1940年までなんとか存続し、ヴィシー政権と交代した。ヴィシー政権はドイツ第三帝国が支配しようともしなかった地域を統治した。厳しい状況の中での4年間が過ぎ、フランスの首都は1944年の夏から秋にかけてようやくイギリス軍とアメリカ軍によって解放された (ド・ゴールは「自由フランス」軍の功績だと主張したが)。1945年にナチスドイツが降伏、やがて第二次世界大戦が終結したため、次の政権の出番となった。1946年10月に新憲法が採択され、第四共和政が成立した。

第四共和政が崩壊に至ったきっかけ (そう、またも政権が崩壊したのだ) は、1958年のアルジェリア危機だった。世界大戦で甚大な被害を被ったため、フランスの指導者は滅びゆく植民地帝国を守ることに固執し、インドシナやアルジェリアで多くの血を流した。1956年のスエズ動乱はフランスに更なる厄災をもたらし、1958年5月、国民議会はド・ゴールを首相に返り咲かせた。彼はフランスの本質には威厳が必要だと断言し、「威厳ある政策」のもと、すみやかに第四共和政を解体して第五共和政を樹立した。以来、この共和政体は現在まで続いている。
PortraitSquare
icon_civilization_france

特性

指導者
icon_leader_catherine_de_medici
カトリーヌ・ド・メディシス (黒妃)
icon_leader_default
カトリーヌ・ド・メディシス (麗妃)
特殊ユニット
icon_unit_french_garde_imperiale
皇帝近衛隊
特殊インフラ
icon_improvement_chateau
シャトー

地形&社会データ

所在地
ヨーロッパ
面積
推定64万600平方キロメートル
人口
推定6660万人
首都
さまざま (オルレアン、トゥール、ベルサイユ、ヴィシー、だいたいはパリ)
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特性

指導者
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カトリーヌ・ド・メディシス (黒妃)
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カトリーヌ・ド・メディシス (麗妃)
特殊ユニット
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皇帝近衛隊
特殊インフラ
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シャトー

地形&社会データ

所在地
ヨーロッパ
面積
推定64万600平方キロメートル
人口
推定6660万人
首都
さまざま (オルレアン、トゥール、ベルサイユ、ヴィシー、だいたいはパリ)
固有能力

グランドツアー

中世、ルネサンス時代、産業時代の遺産に対する 生産力+20%。遺産による 観光力+100%。

歴史的背景
フランスはオートキュイジーヌ、オートクチュール、オートコントルや、その他たくさんの「オート (高級)」を文明にもたらした。しかし、フランスが文化以外の面で世界に貢献したことも事実であり、フランスは、百年戦争、恐怖政治、ナポレオンのヨーロッパ征服 (の試み) など、フランスは歴史にさまざまな足跡を残している。

ローマ人が手に余るガリア人の支配をあきらめると、暗黒時代の初期にいくつかのフランク族の小王国が生まれ、その多くは2、3世代つづいた。やがて、中世のフランス王国が、シャルルマーニュ大帝の統べる帝国の西部、西フランク王国から生まれた。カロリング朝の最後の王が死去すると、王家の内紛による流血を避けるため、ランス大司教がフランク王国の諸侯に呼びかけて新たな王を選出した。イル=ド=フランスの領主であるユーグ・カペー公爵が最終的に選ばれ、987年7月、ランス大司教により聖別されて戴冠した。こうして一挙に近世のフランスが形作られ、最も長くつづいた王朝が開かれた (数度の不幸な中断はあったが、1848年まで存続した)。

長くつづいたカペー朝の支配にはいくつかの基盤があった。カペー朝の王は (敬虔さには大きな差があったものの) 常にカトリックで、安定した中央政府を好んだ教会と密接な関係を築いた。(頑固なイギリス人を除く) 他国の王もカペー朝の由緒ある輝かしい血脈を認めていたため、根本的に他の諸侯より有利な立場にあった。また、カペー家が円満な家族関係を好んだことも有利に働いたが、王位継承は例外だった。しきたりによって王の弟には領地 (公領、郡、都市など) が与えられ、長子相続権の規則で家族が被る苦痛を和らげた (当然姉妹にこうした領地は与えられず、大抵は長子の継承後すぐに結婚させられた)。カトリックとユグノーの間に起きた宗教的な内紛を除くと、フランスは大抵の隣国が苦しめられてきた災い、内乱を巧みに回避できていた。貿易、芸術、工芸や、さらには宗教 (勿論カトリック) や教育も――1150年頃にパリ大学 (あるいはソルボンヌ大学とも) 創設――カペー朝のもとで隆盛を極めた。つまり、大まかに言ってカペー朝は国民に支持されていたのだ。

つづく2世紀にカペー朝の勢力と影響力は増したが、汚点がなかったわけではない――聖地を解放するため6度に及ぶ十字軍に加わり、イタリアの都市国家間の紛争に干渉し、フランスで異端と認定された民衆運動を弾圧 (そのたびに多くの血が流れた) し、1312年にはテンプル騎士団を虐殺して財産を奪った。もちろん百年戦争 (厳密に言うと戦争期間は116年) も忘れるわけにはいかないだろう。

西暦で言うところの14世紀に入ると、フランスはヨーロッパで最も強大な国家となった。1328年、フィリップ6世が王座を奪取した。プランタジネット朝のイングランド王はアキテーヌを領有しており、フランスの王位継承権を細々と主張していたが、フィリップ6世がこれを継承した際に圧力をかけることはしなかった。しかし、1337年にフィリップ6世がアキテーヌを没収すると、イングランドのエドワード3世はこれに怒って王位継承権に対する主張を再燃させ、とうとう2つの王朝は戦争に突入した。1346年7月、侵攻を開始したエドワード3世は、長い進軍の末、かの有名なクレシーの戦い (「戦い」というより思い上がっていたフランス騎士の虐殺) に勝利して港町カレーを占領した。その翌年、黒死病が発生し、膨大な数の犠牲者が発生したために侵攻は中断されたが、これに若い貴族たちは苛立ちを募らせた。

1356年に黒死病の流行がようやく収まると、再び血が流されはじめた。この年の9月、フランス王ジャン2世はポワティエの戦いで黒太子エドワードに捕らわれ、多くの貴族が殺害された (フランスが身代金の支払いを拒否したため、ジャン2世は捕らわれの身のまま没した)。戦争はアジャンクールの戦いまでもつれ込み (イングランドが再び圧倒的な勝利を収めた)、1420年のトロワ条約の締結によってフランスとイギリスの統一が宣言され、生まれて間もないヘンリー6世にイギリスとフランスの王位が与えられた。だが、この結果に納得できない者もいた。王太子シャルル7世は庶子と噂されて軽んじられたが、イギリス人に支配されるくらいならどんなフランス人でも良いと感じた愛国者は多かった。その愛国者の中に、(控えめに表現しても) 風変わりな農民の娘、ジャンヌがいた (なにせ神の声を聞き、啓示を得たというのだから只者ではない)。わずか数年でジャンヌ・ダルクはフランス軍を奮起させて勝利に導き、すべての前線からイギリス軍を押し返した。シャルル7世は1429年にフランス王として戴冠し、聖女ジャンヌは火刑に処せられた。

こうした経緯を経て、カペー家の分家であるヴァロワ家がフランス王の座を得た。このカペー朝の後継者は前身をしのぐ権勢ときわめて大きな影響力を有していた。フィリップ1世 (好色王、1060-1108) が奔放なパリの男爵をかろうじて御していたのに対し、ブルボン家 (またしてもカペー家の分家) のアンリ4世 (1589-1610) には教皇と神聖ローマ帝国のハプスブルク家の両方と事を構えられるほどの力があった。これらの王による統治の期間は短かったが、前任者と比較して文明に与えた影響はずっと大きいと言えるだろう。

栄光に満ちたルイたちの統治の下――「公正王」13世、「太陽王」14世、「最愛王」15世、そして不運な16世 (ギロチン刑に処された)――、フランスは大陸で並ぶ者のない国力を得て、ヨーロッパ文化の洗練の中心地となった。ルイ13世の時代には植民地競争に参入しようとして、探検家と入植者が北アフリカ、アメリカ、アジアの各地にフランスの文化を広めた。太陽王の長い治世では封建主義の名残が消え去り (農奴だった者たちは気がつかなかったかもしれないが)、ベルサイユが (おおむね) 完成した。また、テュレンヌやヴォーバンといった名将、モリエールやラシーヌのような大作家、その他にも才能ある芸術家たちが活躍した。史上最も有名な公妾、ポンパドゥール夫人はルイ15世の深い寵愛を受け、芸術分野――特に建築学とインテリアデザイン (豪華なルイ15世様式など)――に絶大な影響力を発揮した。フランスは2世代の間に重々しいゴシック様式から華やかなロココ様式へ移行した。しかし、アンシャン・レジーム (旧体制) は1789年に崩壊した。

持てる者と持たざる者の格差に苦しめられていたパリ市民は、1789年7月にバスティーユ監獄を襲撃し、君主制のくびきから逃れた。共和主義が生まれ、革命は各地へと波及。自由、平等、友愛を標榜する青年たち (ロベスピエール、ダントン、マラー) が恐怖政治の扉を開き、数千人もの特権階級と公安委員会に反発したすべての者を「人道的」にギロチンで処刑した。1793年6月には憲法が制定され、フランス初の共和制政府が成立した (この憲法の立案者の多くも後に投獄ないしギロチン刑に処せられた)。だがヨーロッパの諸王は民衆に広まる自由主義思想を受け入れず、ただちに第一次対仏大同盟 (オーストリア、プロイセン王国、グレートブリテン王国、スペイン王国などが参加) を結成してフランスを攻撃した。

1795年、選出された5名による総裁政府が樹立されたが、政治は順調とは言えなかった。共和国のために戦場で立てた勲功を土台として、1799年11月にコルシカ島生まれのナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こし、総裁政府を打倒してフランス第一帝政を開始した。それから15年間、フランスは対仏同盟との連戦 (合計6度) に入り、その大半で完勝を果たした。しかし、ナポレオンを打倒せんとする圧倒的な大戦力は彼を弱らせていった。イベリアとロシアの戦場でフランス軍は数千もの兵を失い、海は難敵であるイギリスが支配していた。ナポレオンは戦費を工面するため、ルイジアナを建国間もないアメリカ合衆国に売らなければならなくなった。歴史的なロシア遠征からの撤退後、第六次対仏大同盟はついにライプツィヒで大陸軍を撃破し、1814年3月にパリへ入城した。ナポレオンはエルバ島へ追放され、ブルボン家が君主に返り咲いた。

だが、それも長くはつづかなかった。ナポレオンがフランスに舞い戻り、新たに軍を興したのだ。ルイ18世は痛風を患いながらも危機を察知する感覚は鋭く、パリを逃れてオランダへ身を隠した。ヨーロッパの君主たちは再度同盟を結び、100日間の戦闘の果てにフランス軍をワーテルローの戦いで破った。ナポレオンは再び孤島の監獄へ流された (1821年、51歳にしてこの島で死去した)。フランスはまたも王政に戻った… 少なくとも1848年までは。(1回目ほどはうまく組織されていなかったものの) 再び起こった革命は、カペー朝の系譜による王政に終止符を打ち、フランス第二共和政が成立した。しかし、この政体もわずか3年で終わりを迎える。ルイ=ナポレオン・ボナパルトが叔父の足跡を辿るように自由主義者を打ち倒し、第二帝政を成立させたのである。

だが、第二帝政も1870年までしかもたなかった。ナポレオン3世が普仏戦争のセダンの戦いでプロイセン軍の捕虜となってしまったのだ。フランス下院には暴徒と化したパリ市民が殺到し、共和制への移行を求めた。決して愚かではなかった代議員たちは、すぐさま第三共和政を樹立した。皇后はイングランドへ逃亡し、フランスでは共和主義の熱狂が吹き荒れた。この時点まで、フランスはどうにも安定した政権を築けなかった (プロイセンはその間にアルザス・ロレーヌを領土として手に入れ、ドイツ帝国を成立させていた… が、これはまた別の話である)。

フランス第三共和政の統治は総合的に見て優れており、イギリス、ロシア、アメリカ合衆国とは良好な関係を築き、失わずに済んだ植民地については支配を固めることに成功した。退廃の都パリには世界中の浅ましい娯楽が集まった。まるで明かりに群がる蛾のように、ムーラン・ルージュ、セーヌ川の左岸、クレイジー・ホース、バル・ブリエには観光客が押し寄せた。前衛芸術が全盛期を迎え、フランスは「よき時代」の只中にあった。ファッション、食文化、流行の決定権はフランスにあった。フランスは政権を変えることなく第一次世界大戦を生き残ったが、「ピュロスの勝利」(「大きな犠牲を払って得た勝利」という意味の慣用句) は荒廃と貧困を残していった。

第三共和制は1940年までなんとか存続し、ヴィシー政権と交代した。ヴィシー政権はドイツ第三帝国が支配しようともしなかった地域を統治した。厳しい状況の中での4年間が過ぎ、フランスの首都は1944年の夏から秋にかけてようやくイギリス軍とアメリカ軍によって解放された (ド・ゴールは「自由フランス」軍の功績だと主張したが)。1945年にナチスドイツが降伏、やがて第二次世界大戦が終結したため、次の政権の出番となった。1946年10月に新憲法が採択され、第四共和政が成立した。

第四共和政が崩壊に至ったきっかけ (そう、またも政権が崩壊したのだ) は、1958年のアルジェリア危機だった。世界大戦で甚大な被害を被ったため、フランスの指導者は滅びゆく植民地帝国を守ることに固執し、インドシナやアルジェリアで多くの血を流した。1956年のスエズ動乱はフランスに更なる厄災をもたらし、1958年5月、国民議会はド・ゴールを首相に返り咲かせた。彼はフランスの本質には威厳が必要だと断言し、「威厳ある政策」のもと、すみやかに第四共和政を解体して第五共和政を樹立した。以来、この共和政体は現在まで続いている。
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