コンセプト
主要文明
指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
ペドロ2世
固有能力

寛大

偉人を採用または後援した後、そのために消費した 偉人ポイントの20%が返還される。

概要
始皇帝が遺産を切望するように、ペドロ2世は偉人を渇望します。
詳細説明
熱帯雨林を拠点とするペドロ2世は、偉人獲得を目指す者にとって手強いライバルとなります。都市設計において、隣接効果のためにどの熱帯雨林タイルを残し、区域を作るためにどのタイルを整地するか、ブラジルは常に難しい判断を求められますが、うまく配置できれば偉人獲得に役立つ 信仰力、 文化力、 ゴールドをふんだんに得ることが可能です。また、カーニバルを開催すれば、より多くの偉人を得られます。大芸術家の獲得を後押しするカーニバルは、文化による勝利を目指すうえで有利に働きますが、偉人を多く獲得できるブラジルはどのような勝利でも狙えるでしょう。
歴史的背景
のちに皇帝となるペドロ2世のフルネームは、ペドロ・デ・アルカンタラ・ジョアン・カルルシュ・レオポルド・サルバドール・ビビアーノ・フランシスコ・シャビエル・デ・パウラ・レオカディオ・ミゲル・ガブリエル・ラファエル・ゴンザガ・デ・ブラガンサ・エ・アブスブルゴという。だが、それではあまりにも長いので、ここはやはりシンプルにペドロ2世と呼ぶべきだろう。ペドロ2世は1825年に父ペドロ1世とそのオーストリア人の妻の子としてリオデジャネイロに生まれた (ブラジル生まれの人間が統治者となったのは彼が初めてである)。母は彼が1歳のときに死去し、ペドロ2世は複数の女性家庭教師や後見人によって伝統的な教育を受けながら育った。毎日厳しい監視のもとで勉学に励んだ彼は、気まぐれで無責任なところのあった父親とは異なる、強い倫理感の持ち主へと成長していった。彼には若い頃から威厳があり、一見すると超然としていたが、非常に冷静で、真面目すぎるほどだった。こうした特徴は彼の人生を通して変わることはなかった。

ペドロ2世はペドロ1世にとって唯一の男児であったが、そのペドロ1世はヨーロッパで自らの思惑を追求するため、皇帝の座をまだ5歳の息子に譲ってポルトガルに帰国した。その後の9年間は複数の摂政が次々と入れ替わる形で彼を補佐したが、1840年、14歳になると正式に皇帝の座についた。この10代の皇帝はすぐに積極的に国政に携わるようになり、汚職に染まっていた政治家や農場主、軍人たちを脅かす存在となった。彼は皇帝としての自分の役割は政治的な仲裁者であると考え、個人的嗜好は脇に置いて、慢性的な党派問題の解決に取り組んだ。その治世においてペドロ2世は36の異なる内閣の長となり、それを構成する議員を自ら選出した。そうした議員には優秀な人材が多かったので、彼の政治は基本的に大衆から広く支持された。彼は保守寄りの姿勢とリベラル寄りの姿勢を巧みに切り替え、両方が同じくらいの期間権力の座につけるようにし、その権力の移行もおおむね平和におこなわれるよう計らった。

こうした体制を築いたことで、ペドロ2世はブラジルを近代化し、世界における地位を高めるという目標に取り組めるようになった。彼は直接あるいは政府を通す形で出資をおこない、ブラジルで最初の舗装道路「ユニド・エ・インダストリア」を築いてリオデジャネイロとジュイスデフォーラを結び、蒸気機関車による最初の鉄道をサントスとサンパウロ間に敷設した。1877年には電話のサービスを開始させ、ブラジルとヨーロッパを海底電信ケーブルで結び、ブラジル発の郵便切手を発行した。また、工業化社会の到来にともなう需要の高まりを予測した彼は、それまで人気の高かった砂糖よりもコーヒーの生産を奨励した。多くのブラジル人の所得が増え、暮らし向きが良くなっていったため、ペドロ2世の人気は高まった。こうした豊かさが増していく感覚は、アマゾン川流域の集落などですら共有されていたという。

だが、経済力と影響力を高めるブラジルを警戒する国もあらわれ、外国との関係は必ずしも良好ではなかった。イギリス議会は2つのささいな事件を口実にブラジルに警告を発し、最終的には海軍にブラジル商船の拿捕を命じた。しかしペドロ2世はこうした挑発に屈せず、軍を動員して戦争も辞さない構えを見せたため、イギリス政府はすぐに態度を軟化させ、国際社会の仲裁による平和的な解決を提案した。それから間もなくペドロ2世はウルグアイとの1年におよぶ戦争を開始し、サルトとパイサンドゥーを征服した。さらにそこにパラグアイが介入してきたため、「三国同盟戦争」と呼ばれる大規模な戦争へ発展したが、結果的にブラジルは1870年に全面的な勝利を勝ち取っている。この他にもカトリック教会との間で争い (1872年~
1875年 )が発生。こちらは交渉によって解決したが、これをきっかけにペドロ2世は教会の支持を失うことになった。

とはいえ、外交においてイギリスに勝利し、戦争においてウルグアイとパラグアイに勝利したことで、一般国民の間におけるペドロ2世の人気はかつてないほど高まった。そして彼はこの人気を後ろ盾に、ブラジルから奴隷をなくすという、彼にとって最大の功績となった仕事に取り組むこととなる。ペドロ2世にとって奴隷制はブラジルが近代国家になるための最後の障害であり、その存在自体が神への冒涜であった。彼は1840年に自分の奴隷を解放し、1850年には大西洋間における奴隷貿易を非合法化しないかぎり皇帝の座から退くと迫って法案を成立させた。ただし、いきなりすべてを廃止するのはブラジル経済への影響が大きいと考えた彼は、段階的に奴隷制を廃止していく方針を選択した。1871年には奴隷の子として生まれた者も等しく (奴隷ではなく) 自由な国民であると規定する法律を制定し、その後の数年間でさらに細かい法律改定をつづけ、1888年についにブラジルから奴隷制度は消滅した。しかしこうした政策はプランテーションの経営者からの支持を失わせ、結果としてそれがペドロ2世の凋落を招くこととなった。

さまざまな分野に造詣が深い人物でもあったペドロ2世は、教育、芸術、科学の分野への支援を惜しまず、その過程で同世代の統治者と比べても際立った知性の持ち主であることを証明した。彼はダーウィンやパスツール、ニーチェといった人物から尊敬され、世界中の芸術家や作家と親交をもった。またロングフェローやエマーソン、法学者のオリバー・ウェンデル・ホームズらともつながりがあった彼は、1876年には外国の指導者として初めてアメリカ合衆国を訪れている。サンフランシスコからニューオーリンズに行き、それからワシントンを見てまわったペドロ2世は、その気さくな人柄と洞察力と優しさによってアメリカの国民と政治家の双方に大きな感銘を与えたとされ、アメリカの新聞は彼のこの訪米を「疑いようのない成功」と報道している。

国民からの支持に安心したペドロ2世は、念願であった旅行を楽しむようになり、ヨーロッパへの3度の旅行やアメリカへの長期訪問を実現させた。しかし国を留守にしがちになったことは、彼自身が育んだ人々、すなわち新興の中流階級やリベラルな考え方を持つ学生たちとの間にへだたりを生み、聖職者や上流階級、軍部からもかつてのような揺るぎない支持は得られなくなった。大衆からはいまだに愛されていたが、1889年には共和国の誕生を求める者たちによって非暴力のクーデターが発生。ペドロ2世は退位に追い込まれる。年を取り、身体の弱った彼は、ヨーロッパへの亡命を余儀なくされ、2年後にパリで死去した。本国と異なり、フランスは彼を「国民の父」として称え、国葬が執りおこなわれた。彼の亡骸は1925年にブラジルに返還され、自らが建設を支援したペドロポリスの大聖堂に埋葬された。
icon_leader_pedro
若者を導き、明日を担う人材を育てること以上に高貴な仕事を、私は知らない。

特性

文明

設定

アジェンダ
パトロン気質
偉人をめぐって争うことのない文明を好み、 偉人を採用する機会があれば決して逃さない。また、他の文明に 偉人を奪われることを嫌う。
宗教
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若者を導き、明日を担う人材を育てること以上に高貴な仕事を、私は知らない。

特性

文明

設定

アジェンダ
パトロン気質
偉人をめぐって争うことのない文明を好み、 偉人を採用する機会があれば決して逃さない。また、他の文明に 偉人を奪われることを嫌う。
宗教
固有能力

寛大

偉人を採用または後援した後、そのために消費した 偉人ポイントの20%が返還される。

概要
始皇帝が遺産を切望するように、ペドロ2世は偉人を渇望します。
詳細説明
熱帯雨林を拠点とするペドロ2世は、偉人獲得を目指す者にとって手強いライバルとなります。都市設計において、隣接効果のためにどの熱帯雨林タイルを残し、区域を作るためにどのタイルを整地するか、ブラジルは常に難しい判断を求められますが、うまく配置できれば偉人獲得に役立つ 信仰力、 文化力、 ゴールドをふんだんに得ることが可能です。また、カーニバルを開催すれば、より多くの偉人を得られます。大芸術家の獲得を後押しするカーニバルは、文化による勝利を目指すうえで有利に働きますが、偉人を多く獲得できるブラジルはどのような勝利でも狙えるでしょう。
歴史的背景
のちに皇帝となるペドロ2世のフルネームは、ペドロ・デ・アルカンタラ・ジョアン・カルルシュ・レオポルド・サルバドール・ビビアーノ・フランシスコ・シャビエル・デ・パウラ・レオカディオ・ミゲル・ガブリエル・ラファエル・ゴンザガ・デ・ブラガンサ・エ・アブスブルゴという。だが、それではあまりにも長いので、ここはやはりシンプルにペドロ2世と呼ぶべきだろう。ペドロ2世は1825年に父ペドロ1世とそのオーストリア人の妻の子としてリオデジャネイロに生まれた (ブラジル生まれの人間が統治者となったのは彼が初めてである)。母は彼が1歳のときに死去し、ペドロ2世は複数の女性家庭教師や後見人によって伝統的な教育を受けながら育った。毎日厳しい監視のもとで勉学に励んだ彼は、気まぐれで無責任なところのあった父親とは異なる、強い倫理感の持ち主へと成長していった。彼には若い頃から威厳があり、一見すると超然としていたが、非常に冷静で、真面目すぎるほどだった。こうした特徴は彼の人生を通して変わることはなかった。

ペドロ2世はペドロ1世にとって唯一の男児であったが、そのペドロ1世はヨーロッパで自らの思惑を追求するため、皇帝の座をまだ5歳の息子に譲ってポルトガルに帰国した。その後の9年間は複数の摂政が次々と入れ替わる形で彼を補佐したが、1840年、14歳になると正式に皇帝の座についた。この10代の皇帝はすぐに積極的に国政に携わるようになり、汚職に染まっていた政治家や農場主、軍人たちを脅かす存在となった。彼は皇帝としての自分の役割は政治的な仲裁者であると考え、個人的嗜好は脇に置いて、慢性的な党派問題の解決に取り組んだ。その治世においてペドロ2世は36の異なる内閣の長となり、それを構成する議員を自ら選出した。そうした議員には優秀な人材が多かったので、彼の政治は基本的に大衆から広く支持された。彼は保守寄りの姿勢とリベラル寄りの姿勢を巧みに切り替え、両方が同じくらいの期間権力の座につけるようにし、その権力の移行もおおむね平和におこなわれるよう計らった。

こうした体制を築いたことで、ペドロ2世はブラジルを近代化し、世界における地位を高めるという目標に取り組めるようになった。彼は直接あるいは政府を通す形で出資をおこない、ブラジルで最初の舗装道路「ユニド・エ・インダストリア」を築いてリオデジャネイロとジュイスデフォーラを結び、蒸気機関車による最初の鉄道をサントスとサンパウロ間に敷設した。1877年には電話のサービスを開始させ、ブラジルとヨーロッパを海底電信ケーブルで結び、ブラジル発の郵便切手を発行した。また、工業化社会の到来にともなう需要の高まりを予測した彼は、それまで人気の高かった砂糖よりもコーヒーの生産を奨励した。多くのブラジル人の所得が増え、暮らし向きが良くなっていったため、ペドロ2世の人気は高まった。こうした豊かさが増していく感覚は、アマゾン川流域の集落などですら共有されていたという。

だが、経済力と影響力を高めるブラジルを警戒する国もあらわれ、外国との関係は必ずしも良好ではなかった。イギリス議会は2つのささいな事件を口実にブラジルに警告を発し、最終的には海軍にブラジル商船の拿捕を命じた。しかしペドロ2世はこうした挑発に屈せず、軍を動員して戦争も辞さない構えを見せたため、イギリス政府はすぐに態度を軟化させ、国際社会の仲裁による平和的な解決を提案した。それから間もなくペドロ2世はウルグアイとの1年におよぶ戦争を開始し、サルトとパイサンドゥーを征服した。さらにそこにパラグアイが介入してきたため、「三国同盟戦争」と呼ばれる大規模な戦争へ発展したが、結果的にブラジルは1870年に全面的な勝利を勝ち取っている。この他にもカトリック教会との間で争い (1872年~
1875年 )が発生。こちらは交渉によって解決したが、これをきっかけにペドロ2世は教会の支持を失うことになった。

とはいえ、外交においてイギリスに勝利し、戦争においてウルグアイとパラグアイに勝利したことで、一般国民の間におけるペドロ2世の人気はかつてないほど高まった。そして彼はこの人気を後ろ盾に、ブラジルから奴隷をなくすという、彼にとって最大の功績となった仕事に取り組むこととなる。ペドロ2世にとって奴隷制はブラジルが近代国家になるための最後の障害であり、その存在自体が神への冒涜であった。彼は1840年に自分の奴隷を解放し、1850年には大西洋間における奴隷貿易を非合法化しないかぎり皇帝の座から退くと迫って法案を成立させた。ただし、いきなりすべてを廃止するのはブラジル経済への影響が大きいと考えた彼は、段階的に奴隷制を廃止していく方針を選択した。1871年には奴隷の子として生まれた者も等しく (奴隷ではなく) 自由な国民であると規定する法律を制定し、その後の数年間でさらに細かい法律改定をつづけ、1888年についにブラジルから奴隷制度は消滅した。しかしこうした政策はプランテーションの経営者からの支持を失わせ、結果としてそれがペドロ2世の凋落を招くこととなった。

さまざまな分野に造詣が深い人物でもあったペドロ2世は、教育、芸術、科学の分野への支援を惜しまず、その過程で同世代の統治者と比べても際立った知性の持ち主であることを証明した。彼はダーウィンやパスツール、ニーチェといった人物から尊敬され、世界中の芸術家や作家と親交をもった。またロングフェローやエマーソン、法学者のオリバー・ウェンデル・ホームズらともつながりがあった彼は、1876年には外国の指導者として初めてアメリカ合衆国を訪れている。サンフランシスコからニューオーリンズに行き、それからワシントンを見てまわったペドロ2世は、その気さくな人柄と洞察力と優しさによってアメリカの国民と政治家の双方に大きな感銘を与えたとされ、アメリカの新聞は彼のこの訪米を「疑いようのない成功」と報道している。

国民からの支持に安心したペドロ2世は、念願であった旅行を楽しむようになり、ヨーロッパへの3度の旅行やアメリカへの長期訪問を実現させた。しかし国を留守にしがちになったことは、彼自身が育んだ人々、すなわち新興の中流階級やリベラルな考え方を持つ学生たちとの間にへだたりを生み、聖職者や上流階級、軍部からもかつてのような揺るぎない支持は得られなくなった。大衆からはいまだに愛されていたが、1889年には共和国の誕生を求める者たちによって非暴力のクーデターが発生。ペドロ2世は退位に追い込まれる。年を取り、身体の弱った彼は、ヨーロッパへの亡命を余儀なくされ、2年後にパリで死去した。本国と異なり、フランスは彼を「国民の父」として称え、国葬が執りおこなわれた。彼の亡骸は1925年にブラジルに返還され、自らが建設を支援したペドロポリスの大聖堂に埋葬された。