コンセプト
主要文明
指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
ハンムラビ
固有能力

ニヌ・イル・シルム

各専門区域を初めて建設すると、その時点でその区域に建設できる建造物の中で 生産コストが最も低いものを得る。それ以外の区域を初めて建設した場合は、 代表団1つを得る。

概要
バビロンはこれまでとは異なるやり方で「科学による勝利」を達成します。従来の方法によって 科学力の獲得に専念するのではなく、ひらめきを解除することで科学力競争に勝つことを目指すのです。
詳細説明
バビロンの戦略にとって重要なのは、固有の能力を活用して科学の競争に差をつけることです。ハンムラビは、毎ターンの 科学力が-50%されますが、ひらめきの効果によって (研究のブーストにとどまらず) 技術が完全に解除されます。さらにハンムラビには、新しい区域を建設すると無償で建造物を得られるという固有の能力もあるので、各区域をそれぞれ1つ築くとよいでしょう。固有建造物「パルグム」は、 生産力を向上させます。有能な支配者であれば、視界と移動にボーナスを持つ固有ユニット「サブン・キビタム」を用いてマップを探索し、自然遺産や他の文明、原住民の集落などを見つけることにより、さらなるひらめきを発動させられるでしょう。ハンムラビが狙う勝利の種類としては、「科学による勝利」が最も適しています。
歴史的背景
バビロンが栄華を誇ったのは3000年以上も昔だが、その名は今も富と権力の象徴でありつづけている。また、バビロンの王の中でも特に有名なハンムラビの名は、現代でも厳格な正義と理性的な統治の代名詞として残っている。

ハンムラビはアムル系のバビロン第1王朝の初代統治者であり、比較的若くして父の跡を継いだ。父シン・ムバリットは在位中に国の礎を築いたが、征服に長けていたわけではなく、近隣都市ラルサに対する侵攻は失敗に終わった。彼が王位を息子のハンムラビに譲ったのは、この件を重圧に感じたからかもしれない。この禅譲に反対する者はなく、すんなりと受け入れられたようだ。ラルサとその王リム・シン1世もほっとしたことだろう。隣国の若い王が内政に専念してくれれば、襲われる心配をしなくていいのだから。

王位に就いたハンムラビは父の仕事を引き継ぎ、まずは国内の改革に着手した。その一環として彼が紀元前1754年に書かせた (正確には彫らせた) のが、後にハンムラビ法典と呼ばれる有名な法律書である。

ハンムラビ法典は4トンの巨大な閃緑岩の板に、楔形文字で刻まれた。この法典を貫いているのが、ラテン語で言うところのレクス・タリオニス、つまり「目には目を、歯には歯を」という言葉で知られる同害報復の原則である。要するに、特定の罪には特定の罰を与えることを定め、判決後に解釈が入る余地をなくそうとしたのだ。刑罰には残酷なものが多く、犯罪の抑止に大きな効果があった。もっとも、有罪か否かの判定方法の中には、不貞を調べるために妻を水に沈めるなど、現代の目線で見ると納得できないものもなくはない。

ハンムラビはバビロンの周囲に防壁を築き、運河や水路を利用した灌漑設備を整えた。神々を祀る大神殿の建設にも取り組んでいる。これによってハンムラビの人気は高まり、国民の義務に対する人々の意識も向上した。彼にとってはどちらも大切だった。ラルサの人々にとっては予想外だったが、ハンムラビはメソポタミア南部の征服を視野に入れていたからだ。

単純にラルサを攻めて父親の無念を晴らすという選択肢もあっただろう。凡庸な王ならそうしていたかもしれない。しかしハンムラビはそうした罠に陥らず、エラム人 (後にアンシャンを築いたのと同じ民族) が中央メソポタミアに侵入してくると、ラルサと手を組んで彼らと戦った。ラルサの助けもあってエラム人は早々に片付いたが、同盟の目的が達成されるとハンムラビは掌を返し、ニプルとラガシュという都市国家と同盟を結んでラルサ傘下のウルクとイシンの攻略に乗り出した。それが終わると、今度はニプルとラガシュに牙をむいた。同盟と裏切りを繰り返す一方で、彼は南メソポタミア全域を支配するまで、自発的な味方も求めつづけた。

ラルサを従えてもハンムラビの征服は終わらず、次に彼は北に目を向ける。北にはジムリ・リム王が治めるアムル系のマリ王国があった。マリは豊かで、治水にも成功していた。ハンムラビはユーフラテス川の利水をめぐって交渉をつづけるより、マリに挑むことを選んだ。マリを攻め落とした彼は、街を征服することなく破壊し、交渉条件を決めるのは自分だという暗黙のメッセージを全メソポタミアに送った。ハンムラビはさらにエシュヌンナまで北上し、紀元前1755年にはメソポタミア全土を支配するに至った。

侵略を繰り返しはしたが、ハンムラビは残酷な王ではなかった。彼は「国土を築く者」バニ・マティムと呼ばれ、領土の拡張のため国を留守にしている間も民を気づかった。都市を預かる責任者に書簡を送り、都市の維持や装飾を命じてもいる。ハンムラビ法典はその厳格さだけでなく、温情の余地がある点においても革新的だった。裁判における推定無罪の原則はその最たるものだ。

父親同様、ハンムラビは息子のサムス・イルナが完全に即位する前から王としての仕事を託していたため、老齢や病が迫っても思い悩むことはなかった。しかし紀元前1750年にハンムラビが没すると、その後の侵略を抑える力量はサムス・イルナにはなかった。ハンムラビの死からわずか1年後、王国は崩壊への道を歩みはじめる。後継者にカリスマ性や知性、謙虚な賢さが足りなかったのか、あるいは同盟を維持できなかったのかは定かでないが、王国がハンムラビの治世のような広大な領土と安定を取リ戻すことは二度となかった。
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アヌとベルは高貴なる王にして敬虔なる者ハンムラビの名を呼び、地に正しき統治を行き渡らせよと命じられた。

特性

文明

設定

アジェンダ
文明のゆりかご
ハンムラビは多様な区域を築きたがり、同じようにする文明を好む。1種類の区域に集中する文明や、建設できるのに建設していない区域の種類がある文明を嫌う。
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アヌとベルは高貴なる王にして敬虔なる者ハンムラビの名を呼び、地に正しき統治を行き渡らせよと命じられた。

特性

文明

設定

アジェンダ
文明のゆりかご
ハンムラビは多様な区域を築きたがり、同じようにする文明を好む。1種類の区域に集中する文明や、建設できるのに建設していない区域の種類がある文明を嫌う。
固有能力

ニヌ・イル・シルム

各専門区域を初めて建設すると、その時点でその区域に建設できる建造物の中で 生産コストが最も低いものを得る。それ以外の区域を初めて建設した場合は、 代表団1つを得る。

概要
バビロンはこれまでとは異なるやり方で「科学による勝利」を達成します。従来の方法によって 科学力の獲得に専念するのではなく、ひらめきを解除することで科学力競争に勝つことを目指すのです。
詳細説明
バビロンの戦略にとって重要なのは、固有の能力を活用して科学の競争に差をつけることです。ハンムラビは、毎ターンの 科学力が-50%されますが、ひらめきの効果によって (研究のブーストにとどまらず) 技術が完全に解除されます。さらにハンムラビには、新しい区域を建設すると無償で建造物を得られるという固有の能力もあるので、各区域をそれぞれ1つ築くとよいでしょう。固有建造物「パルグム」は、 生産力を向上させます。有能な支配者であれば、視界と移動にボーナスを持つ固有ユニット「サブン・キビタム」を用いてマップを探索し、自然遺産や他の文明、原住民の集落などを見つけることにより、さらなるひらめきを発動させられるでしょう。ハンムラビが狙う勝利の種類としては、「科学による勝利」が最も適しています。
歴史的背景
バビロンが栄華を誇ったのは3000年以上も昔だが、その名は今も富と権力の象徴でありつづけている。また、バビロンの王の中でも特に有名なハンムラビの名は、現代でも厳格な正義と理性的な統治の代名詞として残っている。

ハンムラビはアムル系のバビロン第1王朝の初代統治者であり、比較的若くして父の跡を継いだ。父シン・ムバリットは在位中に国の礎を築いたが、征服に長けていたわけではなく、近隣都市ラルサに対する侵攻は失敗に終わった。彼が王位を息子のハンムラビに譲ったのは、この件を重圧に感じたからかもしれない。この禅譲に反対する者はなく、すんなりと受け入れられたようだ。ラルサとその王リム・シン1世もほっとしたことだろう。隣国の若い王が内政に専念してくれれば、襲われる心配をしなくていいのだから。

王位に就いたハンムラビは父の仕事を引き継ぎ、まずは国内の改革に着手した。その一環として彼が紀元前1754年に書かせた (正確には彫らせた) のが、後にハンムラビ法典と呼ばれる有名な法律書である。

ハンムラビ法典は4トンの巨大な閃緑岩の板に、楔形文字で刻まれた。この法典を貫いているのが、ラテン語で言うところのレクス・タリオニス、つまり「目には目を、歯には歯を」という言葉で知られる同害報復の原則である。要するに、特定の罪には特定の罰を与えることを定め、判決後に解釈が入る余地をなくそうとしたのだ。刑罰には残酷なものが多く、犯罪の抑止に大きな効果があった。もっとも、有罪か否かの判定方法の中には、不貞を調べるために妻を水に沈めるなど、現代の目線で見ると納得できないものもなくはない。

ハンムラビはバビロンの周囲に防壁を築き、運河や水路を利用した灌漑設備を整えた。神々を祀る大神殿の建設にも取り組んでいる。これによってハンムラビの人気は高まり、国民の義務に対する人々の意識も向上した。彼にとってはどちらも大切だった。ラルサの人々にとっては予想外だったが、ハンムラビはメソポタミア南部の征服を視野に入れていたからだ。

単純にラルサを攻めて父親の無念を晴らすという選択肢もあっただろう。凡庸な王ならそうしていたかもしれない。しかしハンムラビはそうした罠に陥らず、エラム人 (後にアンシャンを築いたのと同じ民族) が中央メソポタミアに侵入してくると、ラルサと手を組んで彼らと戦った。ラルサの助けもあってエラム人は早々に片付いたが、同盟の目的が達成されるとハンムラビは掌を返し、ニプルとラガシュという都市国家と同盟を結んでラルサ傘下のウルクとイシンの攻略に乗り出した。それが終わると、今度はニプルとラガシュに牙をむいた。同盟と裏切りを繰り返す一方で、彼は南メソポタミア全域を支配するまで、自発的な味方も求めつづけた。

ラルサを従えてもハンムラビの征服は終わらず、次に彼は北に目を向ける。北にはジムリ・リム王が治めるアムル系のマリ王国があった。マリは豊かで、治水にも成功していた。ハンムラビはユーフラテス川の利水をめぐって交渉をつづけるより、マリに挑むことを選んだ。マリを攻め落とした彼は、街を征服することなく破壊し、交渉条件を決めるのは自分だという暗黙のメッセージを全メソポタミアに送った。ハンムラビはさらにエシュヌンナまで北上し、紀元前1755年にはメソポタミア全土を支配するに至った。

侵略を繰り返しはしたが、ハンムラビは残酷な王ではなかった。彼は「国土を築く者」バニ・マティムと呼ばれ、領土の拡張のため国を留守にしている間も民を気づかった。都市を預かる責任者に書簡を送り、都市の維持や装飾を命じてもいる。ハンムラビ法典はその厳格さだけでなく、温情の余地がある点においても革新的だった。裁判における推定無罪の原則はその最たるものだ。

父親同様、ハンムラビは息子のサムス・イルナが完全に即位する前から王としての仕事を託していたため、老齢や病が迫っても思い悩むことはなかった。しかし紀元前1750年にハンムラビが没すると、その後の侵略を抑える力量はサムス・イルナにはなかった。ハンムラビの死からわずか1年後、王国は崩壊への道を歩みはじめる。後継者にカリスマ性や知性、謙虚な賢さが足りなかったのか、あるいは同盟を維持できなかったのかは定かでないが、王国がハンムラビの治世のような広大な領土と安定を取リ戻すことは二度となかった。