コンセプト
主要文明
指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
赤髭王フリードリヒ1世
固有能力

神聖ローマ皇帝

追加の軍事政策スロット。都市国家を攻撃する際に 戦闘力+7。

概要
史実同様、赤髭王フリードリヒ1世の統治するドイツは、その生産力と軍事力で敵国を圧倒するでしょう。
詳細説明
ドイツの都市は、敵国より何ターンも早く区域を2つ、3つと増設できるので、生産力の拡大に時間がかかりません。近隣の都市国家はたやすくフリードリヒの「神聖ローマ帝国」に吸収されるでしょう。彼にとっては、時間をかけ、外交的な方法で豊かな土地や資源を持つ都市国家を自分になびかせるより、侵略し、攻め落とすほうがはるかに効率的です。近代には、ドイツの軍備にUボートが加わり、敵の経済を破綻させるのに力を発揮します。確固たる工業基盤を持つドイツは、あらゆる戦線において勝利を目指して突き進むことができるでしょう。
歴史的背景
フリードリヒ1世 (後に、征服しようとして果たせなかったイタリア人たちから「赤髭王 (バルバロッサ) 」という異名をたてまつられる) は数々の称号と敵を得た人物である。1190年6月に死を迎えるまで、彼は相当の数の称号を手にし、相当の数の敵を作り、そして挑戦者をことごとく打ち倒してきた… 遠い異国の地で、激しい川の流れに勝てなかったことを除いては。歴史家たちの評価によれば、フリードリヒ1世は中世における神聖ローマ皇帝の中でも特に――最高に、とまではいかないにしても――優秀だったうちの1人である (彼以前には、そのような皇帝はいなかった)。なにしろ歴代の神聖ローマ皇帝たちに比べて、バルバロッサことフリードリヒ1世の長命、野心の強さ、組織をまとめる手腕、戦場での武勇、政治を見る眼、そして目的のために邁進する冷酷さときたら、暗黒時代にあってはほとんど超人のように見えるほどだ。

1122年、シャルルマーニュ大帝の血統を名乗る家系に、フリードリヒ1世はスワビア公国の後継者として生まれる。スワビア公国はドイツを構成するおよそ1600の小公国と都市国家の1つであり、1147年にフリードリヒ1世はその支配者の地位を引き継いだ。現状に満足する性質ではなかった新君主は、それから間もなく叔父であるドイツ王コンラート3世に同行して、失敗に終わることになる第2回十字軍に参加する。フランス軍が距離が長くとも安全な道を選んで聖地を目指したのに対し、コンラート3世はアナトリアを突っ切って進軍しようとした結果、ドリュラエウムの戦いでセルジューク朝軍から壊滅的な打撃を与えられ、沿岸部まで退却を強いられることになる。ここで残存兵のほとんどは国に戻ろうと脱走してしまうのであるが、フリードリヒ1世は強靭な意志と殺戮の才能を見せて頭角を現す。こうしたことがあったからだろう、1152年に亡くなる際にコンラート3世は、自分の息子ではなくフリードリヒ1世を後継者に指名した (そもそも、彼の息子はまだ6歳だったということもある)。

3月4日、フリードリヒ1世はフランクフルトでドイツ王として即位し、その5日後にはアーヘンでローマ王に即位した (戴冠式がドイツのアーヘンでおこなわれたのは、ローマ人が特に彼を望んだわけではないためである)。当時のドイツは小公国の君主やその他力の弱い王侯の寄り合い所帯であり、各々が支配する領地もバイエルンのような広大なものから、どんなに詳細な地図でも正確には示せないような小さなものまでさまざまだった。そこでフリードリヒ1世は、秩序を回復するためには共通の目的を示すしかないと悟った。その目的とはすなわち、イタリアにおいてドイツが絶対的な権限を行使することである。またフリードリヒ1世は、他の王国のように封建制度を弱めるのではなく、封建制度を完全に回復させ、ドイツの諸侯に特権を与えて懐柔しようともした。

シャルルマーニュ大帝やオットー大帝の時代にイタリア人を痛めつけて享受していた栄光を、ドイツ人たちに再び取り戻させようと望むにしても、フリードリヒ1世はローマ教皇のご機嫌も取らなければならなかった。また、彼にはもう1つ懸案があった。それは、愛もなければ子供ももうけられていない、フォーブルク辺境伯の娘アーデルハイトとの結婚生活をなんとか終わらせることだった。1153年3月、フリードリヒ1世はローマ教皇エウゲニウス3世とコンスタンツ条約を締結し、教皇を守り、シチリアをはじめとする正統なる教会の敵と戦い、ローマを野蛮な共和制支持者から取り戻すことを誓う一方、それと同時期にアーデルハイトを厄介払いしたのだった。

ローマ教皇という後ろ盾を得て、1154年10月に南へと進軍を開始したフリードリヒ1世は、まずはミラノを力ずくで服従させ、次に頑強なトルトーナも壊滅させると、鉄王冠を戴いてイタリア王となった。つづいてパヴィア、ボローニャ、トスカーナを経て、あっという間にローマへと近づくと、バチカン宮殿で新教皇ハドリアヌス4世との面会を実現。その翌日の1155年6月18日、ドイツ人兵士が歓声を上げ、ローマ人が石のように沈黙する中、ハドリアヌス4世は、サン・ピエトロ大聖堂でフリードリヒ1世を神聖ローマ皇帝として戴冠させた。不満を持ったローマ人たちはすぐに暴動を起こしたが、フリードリヒ1世は戴冠したその日のうちにローマ人の死体の山を築き、街に平穏を取り戻す。こうして最初のイタリア遠征で成功を収めたフリードリヒ1世は、教皇を連れてドイツへの帰途についた
(その道中でスポレートを襲撃し、東ローマ皇帝の使者と面会している)。

ドイツに戻ると、カイザー・ロートバート (「赤鬚皇帝」。ドイツ人はフリードリヒ1世をこう呼んだ) は貴族たちの間で世襲ゆえに許される不品行が横行していることに気づき、この問題を例によって実に繊細なやり方で解決した。称号や領地を入れ替え、諸侯たちが新たな臣民の支持を受けられないようにしたのだ。たとえば当時ザクセン公だったいとこをバイエルン公とし、以前のバイエルン公をオーストリア公としたりした。また一方で、1156年にはブルゴーニュ伯ベアトリス1世と結婚し、1178年にはブルグント王となっている。

悪人に安らぎはない、という。皇帝フリードリヒ1世は、イタリア遠征をさらに4回 (1158、1163、1166、1174) おこなった。その主な目的は、教皇の座に就くのは誰かという問題――繰り返し持ち上がった問題だった――を解決することであった。また、フリードリヒ1世はノルマン朝シチリア王国への対処も何度も試みたが、北イタリアの反乱やラインラントでの政情不安に忙殺されて実現はできなかった。そして5回目のイタリア遠征の際にロンバルディア同盟 (イタリアの諸都市に加え、シチリアやコンスタンティノープルなども参加した軍事同盟だった) の抵抗を受け、1175年、老いてなお恐れられていたフリードリヒ1世はアレッサンドリアの戦いに敗れる。ヨーロッパは衝撃を受けた。ドイツの諸侯は支援を拒み、1176年5月、フリードリヒ1世はミラノ近くのレニャーノで決定的な敗北を喫する。こうなってはさしものバルバロッサも、アレクサンデル3世を教皇と認めるアナーニの和約に同意するほかなかった。

それからの10年間、フリードリヒ1世は平和な日々を過ごした。イタリア遠征で彼を支援しなかったドイツの諸侯たち (自分のいとこを含む) に報復をし、現地の地方貴族との協力によってトスカーナの都市をいくつか征服してイタリア人に身のほどを思い知らせたりした程度である。しかし、やはりそれだけでは老将は満足できなかったようだ。1189年、フリードリヒ1世は新教皇の呼びかけに応え、フランス王フィリップ2世やイングランド王リチャード1世とともに第3回十字軍に参加する。しかし、彼がサラディンと戦うことはついになかった。なぜならフリードリヒ1世は、1190年6月、味方の軍勢で混み合う橋を避けて馬でサレフ川を渡ろうとし、溺れ死んでしまったからである。ある意味では、赤髭王にふさわしい死であった――馬にとっては災難だっただろうが。
icon_leader_barbarossa
ドイツの力は永遠に不滅である。

特性

文明

設定

アジェンダ
鉄冠
都市国家と交流を持たない文明を好み、都市国家の宗主国や都市国家を征服した文明を嫌う。
宗教
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ドイツの力は永遠に不滅である。

特性

文明

設定

アジェンダ
鉄冠
都市国家と交流を持たない文明を好み、都市国家の宗主国や都市国家を征服した文明を嫌う。
宗教
固有能力

神聖ローマ皇帝

追加の軍事政策スロット。都市国家を攻撃する際に 戦闘力+7。

概要
史実同様、赤髭王フリードリヒ1世の統治するドイツは、その生産力と軍事力で敵国を圧倒するでしょう。
詳細説明
ドイツの都市は、敵国より何ターンも早く区域を2つ、3つと増設できるので、生産力の拡大に時間がかかりません。近隣の都市国家はたやすくフリードリヒの「神聖ローマ帝国」に吸収されるでしょう。彼にとっては、時間をかけ、外交的な方法で豊かな土地や資源を持つ都市国家を自分になびかせるより、侵略し、攻め落とすほうがはるかに効率的です。近代には、ドイツの軍備にUボートが加わり、敵の経済を破綻させるのに力を発揮します。確固たる工業基盤を持つドイツは、あらゆる戦線において勝利を目指して突き進むことができるでしょう。
歴史的背景
フリードリヒ1世 (後に、征服しようとして果たせなかったイタリア人たちから「赤髭王 (バルバロッサ) 」という異名をたてまつられる) は数々の称号と敵を得た人物である。1190年6月に死を迎えるまで、彼は相当の数の称号を手にし、相当の数の敵を作り、そして挑戦者をことごとく打ち倒してきた… 遠い異国の地で、激しい川の流れに勝てなかったことを除いては。歴史家たちの評価によれば、フリードリヒ1世は中世における神聖ローマ皇帝の中でも特に――最高に、とまではいかないにしても――優秀だったうちの1人である (彼以前には、そのような皇帝はいなかった)。なにしろ歴代の神聖ローマ皇帝たちに比べて、バルバロッサことフリードリヒ1世の長命、野心の強さ、組織をまとめる手腕、戦場での武勇、政治を見る眼、そして目的のために邁進する冷酷さときたら、暗黒時代にあってはほとんど超人のように見えるほどだ。

1122年、シャルルマーニュ大帝の血統を名乗る家系に、フリードリヒ1世はスワビア公国の後継者として生まれる。スワビア公国はドイツを構成するおよそ1600の小公国と都市国家の1つであり、1147年にフリードリヒ1世はその支配者の地位を引き継いだ。現状に満足する性質ではなかった新君主は、それから間もなく叔父であるドイツ王コンラート3世に同行して、失敗に終わることになる第2回十字軍に参加する。フランス軍が距離が長くとも安全な道を選んで聖地を目指したのに対し、コンラート3世はアナトリアを突っ切って進軍しようとした結果、ドリュラエウムの戦いでセルジューク朝軍から壊滅的な打撃を与えられ、沿岸部まで退却を強いられることになる。ここで残存兵のほとんどは国に戻ろうと脱走してしまうのであるが、フリードリヒ1世は強靭な意志と殺戮の才能を見せて頭角を現す。こうしたことがあったからだろう、1152年に亡くなる際にコンラート3世は、自分の息子ではなくフリードリヒ1世を後継者に指名した (そもそも、彼の息子はまだ6歳だったということもある)。

3月4日、フリードリヒ1世はフランクフルトでドイツ王として即位し、その5日後にはアーヘンでローマ王に即位した (戴冠式がドイツのアーヘンでおこなわれたのは、ローマ人が特に彼を望んだわけではないためである)。当時のドイツは小公国の君主やその他力の弱い王侯の寄り合い所帯であり、各々が支配する領地もバイエルンのような広大なものから、どんなに詳細な地図でも正確には示せないような小さなものまでさまざまだった。そこでフリードリヒ1世は、秩序を回復するためには共通の目的を示すしかないと悟った。その目的とはすなわち、イタリアにおいてドイツが絶対的な権限を行使することである。またフリードリヒ1世は、他の王国のように封建制度を弱めるのではなく、封建制度を完全に回復させ、ドイツの諸侯に特権を与えて懐柔しようともした。

シャルルマーニュ大帝やオットー大帝の時代にイタリア人を痛めつけて享受していた栄光を、ドイツ人たちに再び取り戻させようと望むにしても、フリードリヒ1世はローマ教皇のご機嫌も取らなければならなかった。また、彼にはもう1つ懸案があった。それは、愛もなければ子供ももうけられていない、フォーブルク辺境伯の娘アーデルハイトとの結婚生活をなんとか終わらせることだった。1153年3月、フリードリヒ1世はローマ教皇エウゲニウス3世とコンスタンツ条約を締結し、教皇を守り、シチリアをはじめとする正統なる教会の敵と戦い、ローマを野蛮な共和制支持者から取り戻すことを誓う一方、それと同時期にアーデルハイトを厄介払いしたのだった。

ローマ教皇という後ろ盾を得て、1154年10月に南へと進軍を開始したフリードリヒ1世は、まずはミラノを力ずくで服従させ、次に頑強なトルトーナも壊滅させると、鉄王冠を戴いてイタリア王となった。つづいてパヴィア、ボローニャ、トスカーナを経て、あっという間にローマへと近づくと、バチカン宮殿で新教皇ハドリアヌス4世との面会を実現。その翌日の1155年6月18日、ドイツ人兵士が歓声を上げ、ローマ人が石のように沈黙する中、ハドリアヌス4世は、サン・ピエトロ大聖堂でフリードリヒ1世を神聖ローマ皇帝として戴冠させた。不満を持ったローマ人たちはすぐに暴動を起こしたが、フリードリヒ1世は戴冠したその日のうちにローマ人の死体の山を築き、街に平穏を取り戻す。こうして最初のイタリア遠征で成功を収めたフリードリヒ1世は、教皇を連れてドイツへの帰途についた
(その道中でスポレートを襲撃し、東ローマ皇帝の使者と面会している)。

ドイツに戻ると、カイザー・ロートバート (「赤鬚皇帝」。ドイツ人はフリードリヒ1世をこう呼んだ) は貴族たちの間で世襲ゆえに許される不品行が横行していることに気づき、この問題を例によって実に繊細なやり方で解決した。称号や領地を入れ替え、諸侯たちが新たな臣民の支持を受けられないようにしたのだ。たとえば当時ザクセン公だったいとこをバイエルン公とし、以前のバイエルン公をオーストリア公としたりした。また一方で、1156年にはブルゴーニュ伯ベアトリス1世と結婚し、1178年にはブルグント王となっている。

悪人に安らぎはない、という。皇帝フリードリヒ1世は、イタリア遠征をさらに4回 (1158、1163、1166、1174) おこなった。その主な目的は、教皇の座に就くのは誰かという問題――繰り返し持ち上がった問題だった――を解決することであった。また、フリードリヒ1世はノルマン朝シチリア王国への対処も何度も試みたが、北イタリアの反乱やラインラントでの政情不安に忙殺されて実現はできなかった。そして5回目のイタリア遠征の際にロンバルディア同盟 (イタリアの諸都市に加え、シチリアやコンスタンティノープルなども参加した軍事同盟だった) の抵抗を受け、1175年、老いてなお恐れられていたフリードリヒ1世はアレッサンドリアの戦いに敗れる。ヨーロッパは衝撃を受けた。ドイツの諸侯は支援を拒み、1176年5月、フリードリヒ1世はミラノ近くのレニャーノで決定的な敗北を喫する。こうなってはさしものバルバロッサも、アレクサンデル3世を教皇と認めるアナーニの和約に同意するほかなかった。

それからの10年間、フリードリヒ1世は平和な日々を過ごした。イタリア遠征で彼を支援しなかったドイツの諸侯たち (自分のいとこを含む) に報復をし、現地の地方貴族との協力によってトスカーナの都市をいくつか征服してイタリア人に身のほどを思い知らせたりした程度である。しかし、やはりそれだけでは老将は満足できなかったようだ。1189年、フリードリヒ1世は新教皇の呼びかけに応え、フランス王フィリップ2世やイングランド王リチャード1世とともに第3回十字軍に参加する。しかし、彼がサラディンと戦うことはついになかった。なぜならフリードリヒ1世は、1190年6月、味方の軍勢で混み合う橋を避けて馬でサレフ川を渡ろうとし、溺れ死んでしまったからである。ある意味では、赤髭王にふさわしい死であった――馬にとっては災難だっただろうが。