コンセプト
主要文明
指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
アレキサンドロス
固有能力

世界の果てを目指して

都市が戦争による疲労の影響を受けない。世界遺産を有する都市を占領すると、すべての軍事ユニットが完全に回復する。

概要
アレキサンドロス率いるマケドニアは、常在戦場を旨とする文明であり、ゲームの最初から最後まで戦争状態にあります。戦争による疲労の影響をいっさい受けず、征服した地の文化を吸収する能力を持ち、遺産を占領することでユニットを回復させられるマケドニアとアレキサンドロスなら、世界の果てまで進軍することも夢ではないでしょう。
詳細説明
アレキサンドロス軍は、古典時代においては屈指の強さを誇ります。マケドニアはヘタイロイとヒュパスピスタイという2種類の固有ユニットを同時に使用できる稀有な文明であり、バシリコイ・パイデスでユニットを訓練すれば、キャンパス区域を建設しなくても技術を発展させられます。技術の進歩をさらに速めたいなら、キャンパス、兵営、聖地、劇場広場を備えた都市を占領するとよいでしょう。戦争による疲労が発生せず、遺産を占領すればユニットが回復するという特徴を活かし、全世界を征服するまで戦いつづけること。それこそアレキサンドロスが歩むべき覇道です。
歴史的背景
アレキサンドロス大王は間違いなく史上最も偉大な軍事指導者の1人である。わずか12年という短期間で、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、中東へと戦いの手を広げ、32歳でこの世を去るまでに、到達しうる土地の文明をことごとく征服していったのだから。アレキサンドロス亡き後の帝国は彼の遺将たちによって分割されたが、まもなく彼らは覇権を争いをはじめ、その過程で帝国の領土は徐々に失われていった。

マケドニアのアレキサンドロス3世は、紀元前356年にピリッポス2世の王子として生まれた。父王は滅亡の瀬戸際にあった王国を見事に復活させた名君であった。数年前まではマケドニアを征服しようとしていたアテネ、イリュリア、トラキアの3大勢力を征服し、王国を勝利へと導いたのだ。「文明」世界で最も強大な王を父に持つアレキサンドロスには、教育を含むすべてにおいて一流のものが与えられた。若き王子の家庭教師に選ばれたのがアリストテレス (古代ギリシャ最大の哲学者の1人) であったという事実からも、そのことがうかがえよう。

母オリュンピアスから、自分は英雄ヘラクレスとアキレスの子孫であると教えられて育ったアレキサンドロスは、よく言えば常に誇り高かった。身も蓋もない言い方をすれば、彼のプライドは、やがて征服することになる帝国よりも大きかったのだ。父ピリッポス2世がビュザンティオンに攻め入るためにマケドニアを離れたとき、後を任された14歳のアレキサンドロスは、トラキアの反乱を鎮め、
アレクサンドロポリスの街を築き、そこにギリシャ人を入植させるなど、多忙な日々を過ごした (なお、アレキサンドロスが新しい都市に自らにちなんだ名をつけたのはこれが最後ではない)。その2年後、カイロネイアの戦いにおいてピリッポス2世の軍はギリシャ連合軍を破り、ギリシャ全土を従えることになるが、このときマケドニア軍の左翼を率いたのは、他ならぬアレキサンドロスであった。

そんなアレキサンドロスだったが、翌年には運に見放されたかのような事態に見舞われる。ピリッポス2世がアレキサンドロスの母オリュンピアスと離縁し、クレオパトラ・エウリュディケをめとったのである。これによって息子ともどもマケドニアを追い出される形となったオリュンピアスは、兄弟であるエペイロスの国王のもとに逃れ、アレキサンドロスはイリュリアに身を隠した。父と息子はのちに和解したものの、ピリッポス2世の後継者としてのアレキサンドロスの立場は安泰ではなくなってしまった。ピリッポス2世に別の男子が生まれたら、その子が王になる可能性が生じてしまったためである。

ギリシャとバルカン半島を征服したのち、ピリッポス2世はペルシアの攻略に乗り出した。ところが紀元前336年、彼は娘の婚礼の最中に近衛兵だったパウサニアスに暗殺されてしまう (アレキサンドロスの母オリュンピアス、あるいはアレキサンドロス本人が暗殺を仕組んだとする説もあるが、暗殺の混乱の中でパウサニアス自身も殺されてしまったため、真相は闇の中である)。これを受け、当時20歳だったアレキサンドロスは、紀元前336年、マケドニアの軍と貴族によって王と認められた。

新たに王となった若きアレキサンドロスは、王位を脅かしかねないライバル全員の死をもって自身の勝利を祝った後、亡き父の遺志を継いでペルシア征服を再開した。バルカン半島で起きた複数の反乱のせいで紀元前334年まで本腰を入れられなかったものの、その後アレキサンドロスの軍勢はヘレスポント海峡を越えてアジアへと渡る。遠征軍は、約4万8000人の歩兵と6000人の騎兵で構成されていた。これは当時としてはかなりの大軍である。加えて彼は、技術者、測量士、科学者、さらには勝利を記録させるために歴史家まで随行させていた。いざ戦いがはじまると、アレキサンドロスはペルシアが誇る将軍たちを次々と打ち破っていった。数ではペルシア軍のほうが常に上回っていたが、そんなことは彼には関係がなかった。

アレキサンドロスが成し遂げた偉業は、彼自身の軍事的な才能、訓練の行き届いた兵士と優れた装備、類まれな団結心に要因を求めることができる。最後のひとつは、アレキサンドロスが無敵であると信じられていたことに依るところが大きい。アレキサンドロスは、彼の先祖である (と自ら訴える) 神々の加護を受けているように見えたため、この虚構は広く人々に受け入られていた。精鋭部隊「ヘタイロイ」を率いて自ら激戦地に身を投じることも日常茶飯事であり、その戦歴に比例して幾度も深手を負ったが、いかなる傷も彼の戦いへの激情をくじくことはなかった。

ペルシアの大部分を降伏させたのち、アレキサンドロスは南下してシリアを攻め、レバントの沿岸を制圧して最後にはエジプトを攻め落とした。その後はペルシア遠征を再開し、バビロンを制圧しつつ、ガウガメラの戦いで残存していたペルシア軍を壊滅させた。ペルシア王ダレイオス3世は逃走したが、アレキサンドロスは敢えてこれを追わず、代わりにスーサの財宝を手に入れた。それからペルシアの古都ペルセポリスを制圧し、数日にわたって部下に略奪をおこなわせた。アレキサンドロスは街のすべてが「図らずも」灰と化すまで、5ヶ月逗留したという。

その後、アレキサンドロスは遠征を再開し、ダレイオス3世と壊走する敵軍を追ってメディア、次いでパルティアへ進軍した。ところが肝心のダレイオス3世は、その地において親族で側近でもあったベッソスに裏切られ、命を落としてしまう。ベッソスは山中に逃れ、ギリシャ軍に対してゲリラ戦を挑んだが、ベッソス自身も裏切られ、紀元前
329年にギリシャ軍に引き渡されると、将軍だったプトレマイオス1世によって処刑されてしまった。このときアレキサンドロスはというと、ヤクサルテス川の戦いでスキタイの大軍を相手にしていたため、主君を殺したペルシア貴族にかまっている暇はなかったようだ。だが、スキタイの指導者であったスピタメネスも結局は味方に殺され、その後、彼らはただちに降伏した。

こうしてアレキサンドロスは、メディア、パルティア、アリア、バクトリア (現在のアフガニスタン)、ドランギアナ、スキタイへとゆっくり軍を進めていった。途中、若き王は歴史あるペルシア帝国の東端部地域を懐柔するため、バクトリアの姫であるロクサネを妃とした。だがそれも束の間、アレキサンドロスはペルシアよりも豊かな富を誇ると噂されるインド亜大陸の征服を決意する。やがてアレキサンドロスはインドの大王ポロスと対峙し、戦いは一時膠着状態に陥ったが、最後に勝利したのはアレキサンドロスだった。もっとも、そのために支払った代償も大きく、部下たちは遠征を終えて家族のもとに帰りたいと王に嘆願した。

アレキサンドロス本人は、征服したバビロンの都から統治を開始した。しかしこれにはすぐに飽きたらしい。「手にした領土の広大さを目にしたアレキサンドロスは、もはや世界のどこにも征服する土地がなくなったことを知って涙した」と言われている。

バビロンに戻ってからのアレキサンドロスは、坂道を転げ落ちるように身を持ち崩していった。酒を浴びるように飲み、考えつくかぎりの放蕩にふけるようになったのだ (そしてバビロンには、ありとあらゆる悪徳が存在していた)。かんしゃくを起こし、発作的な妄想に駆られることもあった。不養生がたたって体を弱らせたアレキサンドロスは、紀元前323年6月、あっけなくこの世を去った。
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1頭の羊が率いる獅子の軍団と、1頭の獅子が率いる羊の軍団。恐ろしいのは後者である。

特性

文明
特殊ユニット
ヘタイロイ

設定

アジェンダ
短くも偉大なる生涯
強力な他文明 (マケドニアを除く) と戦争状態にある文明を好み、戦争状態にない文明を嫌う。
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1頭の羊が率いる獅子の軍団と、1頭の獅子が率いる羊の軍団。恐ろしいのは後者である。

特性

文明
特殊ユニット
ヘタイロイ

設定

アジェンダ
短くも偉大なる生涯
強力な他文明 (マケドニアを除く) と戦争状態にある文明を好み、戦争状態にない文明を嫌う。
固有能力

世界の果てを目指して

都市が戦争による疲労の影響を受けない。世界遺産を有する都市を占領すると、すべての軍事ユニットが完全に回復する。

概要
アレキサンドロス率いるマケドニアは、常在戦場を旨とする文明であり、ゲームの最初から最後まで戦争状態にあります。戦争による疲労の影響をいっさい受けず、征服した地の文化を吸収する能力を持ち、遺産を占領することでユニットを回復させられるマケドニアとアレキサンドロスなら、世界の果てまで進軍することも夢ではないでしょう。
詳細説明
アレキサンドロス軍は、古典時代においては屈指の強さを誇ります。マケドニアはヘタイロイとヒュパスピスタイという2種類の固有ユニットを同時に使用できる稀有な文明であり、バシリコイ・パイデスでユニットを訓練すれば、キャンパス区域を建設しなくても技術を発展させられます。技術の進歩をさらに速めたいなら、キャンパス、兵営、聖地、劇場広場を備えた都市を占領するとよいでしょう。戦争による疲労が発生せず、遺産を占領すればユニットが回復するという特徴を活かし、全世界を征服するまで戦いつづけること。それこそアレキサンドロスが歩むべき覇道です。
歴史的背景
アレキサンドロス大王は間違いなく史上最も偉大な軍事指導者の1人である。わずか12年という短期間で、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、中東へと戦いの手を広げ、32歳でこの世を去るまでに、到達しうる土地の文明をことごとく征服していったのだから。アレキサンドロス亡き後の帝国は彼の遺将たちによって分割されたが、まもなく彼らは覇権を争いをはじめ、その過程で帝国の領土は徐々に失われていった。

マケドニアのアレキサンドロス3世は、紀元前356年にピリッポス2世の王子として生まれた。父王は滅亡の瀬戸際にあった王国を見事に復活させた名君であった。数年前まではマケドニアを征服しようとしていたアテネ、イリュリア、トラキアの3大勢力を征服し、王国を勝利へと導いたのだ。「文明」世界で最も強大な王を父に持つアレキサンドロスには、教育を含むすべてにおいて一流のものが与えられた。若き王子の家庭教師に選ばれたのがアリストテレス (古代ギリシャ最大の哲学者の1人) であったという事実からも、そのことがうかがえよう。

母オリュンピアスから、自分は英雄ヘラクレスとアキレスの子孫であると教えられて育ったアレキサンドロスは、よく言えば常に誇り高かった。身も蓋もない言い方をすれば、彼のプライドは、やがて征服することになる帝国よりも大きかったのだ。父ピリッポス2世がビュザンティオンに攻め入るためにマケドニアを離れたとき、後を任された14歳のアレキサンドロスは、トラキアの反乱を鎮め、
アレクサンドロポリスの街を築き、そこにギリシャ人を入植させるなど、多忙な日々を過ごした (なお、アレキサンドロスが新しい都市に自らにちなんだ名をつけたのはこれが最後ではない)。その2年後、カイロネイアの戦いにおいてピリッポス2世の軍はギリシャ連合軍を破り、ギリシャ全土を従えることになるが、このときマケドニア軍の左翼を率いたのは、他ならぬアレキサンドロスであった。

そんなアレキサンドロスだったが、翌年には運に見放されたかのような事態に見舞われる。ピリッポス2世がアレキサンドロスの母オリュンピアスと離縁し、クレオパトラ・エウリュディケをめとったのである。これによって息子ともどもマケドニアを追い出される形となったオリュンピアスは、兄弟であるエペイロスの国王のもとに逃れ、アレキサンドロスはイリュリアに身を隠した。父と息子はのちに和解したものの、ピリッポス2世の後継者としてのアレキサンドロスの立場は安泰ではなくなってしまった。ピリッポス2世に別の男子が生まれたら、その子が王になる可能性が生じてしまったためである。

ギリシャとバルカン半島を征服したのち、ピリッポス2世はペルシアの攻略に乗り出した。ところが紀元前336年、彼は娘の婚礼の最中に近衛兵だったパウサニアスに暗殺されてしまう (アレキサンドロスの母オリュンピアス、あるいはアレキサンドロス本人が暗殺を仕組んだとする説もあるが、暗殺の混乱の中でパウサニアス自身も殺されてしまったため、真相は闇の中である)。これを受け、当時20歳だったアレキサンドロスは、紀元前336年、マケドニアの軍と貴族によって王と認められた。

新たに王となった若きアレキサンドロスは、王位を脅かしかねないライバル全員の死をもって自身の勝利を祝った後、亡き父の遺志を継いでペルシア征服を再開した。バルカン半島で起きた複数の反乱のせいで紀元前334年まで本腰を入れられなかったものの、その後アレキサンドロスの軍勢はヘレスポント海峡を越えてアジアへと渡る。遠征軍は、約4万8000人の歩兵と6000人の騎兵で構成されていた。これは当時としてはかなりの大軍である。加えて彼は、技術者、測量士、科学者、さらには勝利を記録させるために歴史家まで随行させていた。いざ戦いがはじまると、アレキサンドロスはペルシアが誇る将軍たちを次々と打ち破っていった。数ではペルシア軍のほうが常に上回っていたが、そんなことは彼には関係がなかった。

アレキサンドロスが成し遂げた偉業は、彼自身の軍事的な才能、訓練の行き届いた兵士と優れた装備、類まれな団結心に要因を求めることができる。最後のひとつは、アレキサンドロスが無敵であると信じられていたことに依るところが大きい。アレキサンドロスは、彼の先祖である (と自ら訴える) 神々の加護を受けているように見えたため、この虚構は広く人々に受け入られていた。精鋭部隊「ヘタイロイ」を率いて自ら激戦地に身を投じることも日常茶飯事であり、その戦歴に比例して幾度も深手を負ったが、いかなる傷も彼の戦いへの激情をくじくことはなかった。

ペルシアの大部分を降伏させたのち、アレキサンドロスは南下してシリアを攻め、レバントの沿岸を制圧して最後にはエジプトを攻め落とした。その後はペルシア遠征を再開し、バビロンを制圧しつつ、ガウガメラの戦いで残存していたペルシア軍を壊滅させた。ペルシア王ダレイオス3世は逃走したが、アレキサンドロスは敢えてこれを追わず、代わりにスーサの財宝を手に入れた。それからペルシアの古都ペルセポリスを制圧し、数日にわたって部下に略奪をおこなわせた。アレキサンドロスは街のすべてが「図らずも」灰と化すまで、5ヶ月逗留したという。

その後、アレキサンドロスは遠征を再開し、ダレイオス3世と壊走する敵軍を追ってメディア、次いでパルティアへ進軍した。ところが肝心のダレイオス3世は、その地において親族で側近でもあったベッソスに裏切られ、命を落としてしまう。ベッソスは山中に逃れ、ギリシャ軍に対してゲリラ戦を挑んだが、ベッソス自身も裏切られ、紀元前
329年にギリシャ軍に引き渡されると、将軍だったプトレマイオス1世によって処刑されてしまった。このときアレキサンドロスはというと、ヤクサルテス川の戦いでスキタイの大軍を相手にしていたため、主君を殺したペルシア貴族にかまっている暇はなかったようだ。だが、スキタイの指導者であったスピタメネスも結局は味方に殺され、その後、彼らはただちに降伏した。

こうしてアレキサンドロスは、メディア、パルティア、アリア、バクトリア (現在のアフガニスタン)、ドランギアナ、スキタイへとゆっくり軍を進めていった。途中、若き王は歴史あるペルシア帝国の東端部地域を懐柔するため、バクトリアの姫であるロクサネを妃とした。だがそれも束の間、アレキサンドロスはペルシアよりも豊かな富を誇ると噂されるインド亜大陸の征服を決意する。やがてアレキサンドロスはインドの大王ポロスと対峙し、戦いは一時膠着状態に陥ったが、最後に勝利したのはアレキサンドロスだった。もっとも、そのために支払った代償も大きく、部下たちは遠征を終えて家族のもとに帰りたいと王に嘆願した。

アレキサンドロス本人は、征服したバビロンの都から統治を開始した。しかしこれにはすぐに飽きたらしい。「手にした領土の広大さを目にしたアレキサンドロスは、もはや世界のどこにも征服する土地がなくなったことを知って涙した」と言われている。

バビロンに戻ってからのアレキサンドロスは、坂道を転げ落ちるように身を持ち崩していった。酒を浴びるように飲み、考えつくかぎりの放蕩にふけるようになったのだ (そしてバビロンには、ありとあらゆる悪徳が存在していた)。かんしゃくを起こし、発作的な妄想に駆られることもあった。不養生がたたって体を弱らせたアレキサンドロスは、紀元前323年6月、あっけなくこの世を去った。