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ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
ジョアン3世
固有能力

ポルタ・ド・セルコ

すべてのユニットの視界+1。文明と出会うと 交易路の数+1。すべての都市国家の国境が開放される。

概要
ポルトガルは沿岸部の資源や海洋探索など、自国の強みを利用してマップの探索を進め、航路を主とする交易帝国を築こうとします。
詳細説明
ポルトガルの勝利は、広大な交易網を築き、沿岸部のタイルを活用できるかどうかにかかっています。忘れてはならないのは、ポルトガルの 交易路は海路に限られていることです。したがって、沿岸部に都市を築き、交易拠点を最大限に活用することが重要になります。沿岸の都市では「航海術学校」を最大限に活用することにより、海洋ユニットの 生産力や沿岸タイルと湖タイルの 科学力、 大提督ポイントを増やせます。早い段階でマップの探索を進め、固有の施設であるフェイトリア (固有ユニット「ナウ船」によって建設される) の建設地を探しておくべきでしょう。ポルトガルは交易による収益をあらゆる目的に活用できますが、戦争は避けるべきです。港への自由な出入りなくして活発な交易はありえません!
歴史的背景
「植民王」の異名を持つ一方、より親しみやすい「敬虔王」という名でも呼ばれるジョアン3世は、ポルトガルとアルガルヴェ王国の王であり、西暦1521年から1556年まで国を治めた。マヌエル1世を父に、マリア・デ・アラゴンを母に持つ彼は、長子として幼い頃から英才教育をほどこされ、名のある学者を家庭教師として天文学や占星学、神学、法学、人文学を修め、12歳のときには自分で管理する家を与えられた。実務経験を身につけ、父王の公務の補佐をはじめたのは、それから数年後のことである。

ジョアンは16歳のときに従姉のレオノール・デ・アウストリアと結婚する予定だった。しかし、父親マヌエル1世に先を越され、レオノールは父の妃となってしまう。当然ながらこれは気分のいい出来事ではなく、ジョアンは少なからず心乱れる思いをした。1521年に即位したジョアンは、その数年後にカタリナ・デ・アウストリアと政略結婚した。彼女はかつての婚約者レオノールの妹であった。

恋に破れた彼は信仰に身を投じた。重要なことは、ジョアンが宗教に対する人文主義的なアプローチを後援したことだ。その筆頭がイエズス会である。胸を張れることではないかもしれないが、異端審問がついにポルトガルに現れたのも彼の治世である。これによって自由な探求が弾圧を受けることになったのは想像に難くない (ポルトガルでプロテスタント運動が起きなかったのは異端審問のおかげという側面もあるが)。異端審問の目的は、魔術や重婚 (ジョアンと同時代のイングランド王ヘンリー8世が複雑な女性遍歴をめぐって教会と対立したことを思い出していただきたい)、教会のあり方に疑問を呈する文学、性的逸脱など、教会が問題視したり冒涜とみなしたりしたものを罰することであった。ジョアンは (教皇の許可を得て) 弟のエンリケ枢機卿を異端審問所長官に任じ、ポルトガル領全土に異端審問所を設立した。異端審問の影響は、ポルトガルの文化や日常生活にも影を落とした。ジョアンが「敬虔王」と呼ばれるようになったのは、こうした背景によるものである。

ジョアン3世は、戦いによる征服に明け暮れるというより、外交や有利な政略結婚を活用する君主だった。妹のイザベルを神聖ローマ皇帝カール5世に嫁がせ、長女のマリア・マヌエラはスペインのフェリペ2世に輿入れさせた。五男のジョアン・マヌエル王子はスペインの王女フアナと結婚し、その息子はセバスティアン1世になった。こうした婚姻には、共通の傾向がはっきりと見てとれる。ポルトガルは独立を確保しながら、同盟を通してイベリア半島に確かな地歩を築こうとしていたのだ。

ジョアン3世はポルトガルに非効率がはびこり、その広大な帝国が負債と汚職にまみれていることに気づいた。よい人材がよい結果をもたらすという考えのもと、当初は新たな総督を任命することで問題の解決を図ろうとした。しかし、問題は制度に由来するものだった。また、「解任された」総督がおとなしく立ち退かないこともままあった。

ジョアン3世の統治の最大の功績は、交易網の拡大にあった。モンバサやモザンビークなど、アフリカ各地にポルトガルの交易施設であり要塞でもあったフェイトリアが築かれた。ポルトガルは東南アジアではティモールやモルッカ諸島、南アジアではゴアやスリランカを手に入れ、東アジアでは長崎とマカオを交易の拠点とした。ポルトガル領ブラジルがのちに一大植民地となったのも、ジョアン3世がその治世に礎を築いたためである。こうしたネットワークは、香辛料や砂糖、黄金、香料、絹を世界中に運んだ。称賛できることではないが、ジョアンは奴隷売買も手がけた。コンゴ国王ムベンバ・ア・ンジンガが、ポルトガルの奴隷商人の活動を痛烈に批判する書簡をジョアン3世に宛てて書いたのは、このためである。

その治世の末期、ジョアン3世は後継者の指名に苦労した。彼は王妃カタリナとの間に9人の子供をもうけたが、2人を残してみな夭逝し、その2人も父親より先に世を去っていたからである。1557年にジョアン3世が没すると、彼の王位は孫のセバスティアンが継承した。
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我ドン・ジョアンは、神の恩寵を賜りしポルトガルとアルガルヴェの王にして海の果て、アフリカはギニアの領主、エチオピア、アラビア、ペルシア、インドの征服と探索、交易を統べる者である。

特性

文明

設定

アジェンダ
航海者の遺産
世界を探索する文明を好み、国境付近に留まる文明を嫌う。
宗教
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我ドン・ジョアンは、神の恩寵を賜りしポルトガルとアルガルヴェの王にして海の果て、アフリカはギニアの領主、エチオピア、アラビア、ペルシア、インドの征服と探索、交易を統べる者である。

特性

文明

設定

アジェンダ
航海者の遺産
世界を探索する文明を好み、国境付近に留まる文明を嫌う。
宗教
固有能力

ポルタ・ド・セルコ

すべてのユニットの視界+1。文明と出会うと 交易路の数+1。すべての都市国家の国境が開放される。

概要
ポルトガルは沿岸部の資源や海洋探索など、自国の強みを利用してマップの探索を進め、航路を主とする交易帝国を築こうとします。
詳細説明
ポルトガルの勝利は、広大な交易網を築き、沿岸部のタイルを活用できるかどうかにかかっています。忘れてはならないのは、ポルトガルの 交易路は海路に限られていることです。したがって、沿岸部に都市を築き、交易拠点を最大限に活用することが重要になります。沿岸の都市では「航海術学校」を最大限に活用することにより、海洋ユニットの 生産力や沿岸タイルと湖タイルの 科学力、 大提督ポイントを増やせます。早い段階でマップの探索を進め、固有の施設であるフェイトリア (固有ユニット「ナウ船」によって建設される) の建設地を探しておくべきでしょう。ポルトガルは交易による収益をあらゆる目的に活用できますが、戦争は避けるべきです。港への自由な出入りなくして活発な交易はありえません!
歴史的背景
「植民王」の異名を持つ一方、より親しみやすい「敬虔王」という名でも呼ばれるジョアン3世は、ポルトガルとアルガルヴェ王国の王であり、西暦1521年から1556年まで国を治めた。マヌエル1世を父に、マリア・デ・アラゴンを母に持つ彼は、長子として幼い頃から英才教育をほどこされ、名のある学者を家庭教師として天文学や占星学、神学、法学、人文学を修め、12歳のときには自分で管理する家を与えられた。実務経験を身につけ、父王の公務の補佐をはじめたのは、それから数年後のことである。

ジョアンは16歳のときに従姉のレオノール・デ・アウストリアと結婚する予定だった。しかし、父親マヌエル1世に先を越され、レオノールは父の妃となってしまう。当然ながらこれは気分のいい出来事ではなく、ジョアンは少なからず心乱れる思いをした。1521年に即位したジョアンは、その数年後にカタリナ・デ・アウストリアと政略結婚した。彼女はかつての婚約者レオノールの妹であった。

恋に破れた彼は信仰に身を投じた。重要なことは、ジョアンが宗教に対する人文主義的なアプローチを後援したことだ。その筆頭がイエズス会である。胸を張れることではないかもしれないが、異端審問がついにポルトガルに現れたのも彼の治世である。これによって自由な探求が弾圧を受けることになったのは想像に難くない (ポルトガルでプロテスタント運動が起きなかったのは異端審問のおかげという側面もあるが)。異端審問の目的は、魔術や重婚 (ジョアンと同時代のイングランド王ヘンリー8世が複雑な女性遍歴をめぐって教会と対立したことを思い出していただきたい)、教会のあり方に疑問を呈する文学、性的逸脱など、教会が問題視したり冒涜とみなしたりしたものを罰することであった。ジョアンは (教皇の許可を得て) 弟のエンリケ枢機卿を異端審問所長官に任じ、ポルトガル領全土に異端審問所を設立した。異端審問の影響は、ポルトガルの文化や日常生活にも影を落とした。ジョアンが「敬虔王」と呼ばれるようになったのは、こうした背景によるものである。

ジョアン3世は、戦いによる征服に明け暮れるというより、外交や有利な政略結婚を活用する君主だった。妹のイザベルを神聖ローマ皇帝カール5世に嫁がせ、長女のマリア・マヌエラはスペインのフェリペ2世に輿入れさせた。五男のジョアン・マヌエル王子はスペインの王女フアナと結婚し、その息子はセバスティアン1世になった。こうした婚姻には、共通の傾向がはっきりと見てとれる。ポルトガルは独立を確保しながら、同盟を通してイベリア半島に確かな地歩を築こうとしていたのだ。

ジョアン3世はポルトガルに非効率がはびこり、その広大な帝国が負債と汚職にまみれていることに気づいた。よい人材がよい結果をもたらすという考えのもと、当初は新たな総督を任命することで問題の解決を図ろうとした。しかし、問題は制度に由来するものだった。また、「解任された」総督がおとなしく立ち退かないこともままあった。

ジョアン3世の統治の最大の功績は、交易網の拡大にあった。モンバサやモザンビークなど、アフリカ各地にポルトガルの交易施設であり要塞でもあったフェイトリアが築かれた。ポルトガルは東南アジアではティモールやモルッカ諸島、南アジアではゴアやスリランカを手に入れ、東アジアでは長崎とマカオを交易の拠点とした。ポルトガル領ブラジルがのちに一大植民地となったのも、ジョアン3世がその治世に礎を築いたためである。こうしたネットワークは、香辛料や砂糖、黄金、香料、絹を世界中に運んだ。称賛できることではないが、ジョアンは奴隷売買も手がけた。コンゴ国王ムベンバ・ア・ンジンガが、ポルトガルの奴隷商人の活動を痛烈に批判する書簡をジョアン3世に宛てて書いたのは、このためである。

その治世の末期、ジョアン3世は後継者の指名に苦労した。彼は王妃カタリナとの間に9人の子供をもうけたが、2人を残してみな夭逝し、その2人も父親より先に世を去っていたからである。1557年にジョアン3世が没すると、彼の王位は孫のセバスティアンが継承した。