コンセプト
主要文明
指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
ギターチャ
固有能力

三界の貴き女神

信仰力で海洋ユニットを購入できる。宗教ユニットは移動力を消費せず乗船と下船が可能。沿岸/湖タイルに隣接している都心の 信仰力+2。

概要
ギターチャはあらゆる島と浜辺の女王であり、彼女が治める無数の都市は、大海原に点在し、インドネシアが誇るジョングによって守られていました。
詳細説明
インドネシアはまず湾や入江の多い沿岸に目を向けます。こうした場所の大半はインドネシアにとって、隣接ボーナスを最大限に得られる理想的な区域設置候補地だからです。造船の技術を得ると同時にギターチャの労働者ユニットは高床式の水上家屋「カンプン」を作れるようになるので、農地が不足していても大都市への発展が可能になります。インドネシアは 信仰力の産出を最大化するよう努めるべきです。そうすればジョングを中心とする大海軍の整備、大きな益をもたらしてくれる 偉人の獲得、水上移動が可能な宗教ユニット (宗教による勝利にとって追い風となります) の生産など、戦略の幅が広がります。
歴史的背景
塔に幽閉されていた姫君は、いかにして14世紀の香辛料帝国を率いる摂政女王へと変貌したのか? 物語は小さな暗殺事件からはじまる。

我々がギターチャの統治について知っていることの多くは、『ナガラクレタガマ』という壮大な詩を典拠としている。これはラカウィ・プラパンカという宮廷詩人によって書かれたもので、歴史と神話が混ざっている。そのため、内容の真偽についてはある程度割り引いて考えた方がよいだろう。とにかく『ナガラクレタガマ』によると、カフリパンの女君ことギターチャの物語は、異母兄弟であるジャヤナガル王の殺害によって幕を開けた。

女王摂政トリブワノトゥンガデウィ・ジャヤウィシュヌワダニ、またの名をディア・ギターチャは、西暦1309年以前のどこかの時点で、マジャパヒト王国の建国者ラデン・ウィジャヤと王妃ガーヤトリー・ラジャパトニの娘として生まれた。ギターチャは異母兄弟ジャヤナガル (別名「クディリの王子」) の後を継ぎ、1329年から1350年まで東南アジアの香辛料帝国を治めた。時代は王国に対するあからさまな反乱が横行し、混沌を極めた。

伝説によると、ジャヤナガルは四面楚歌の状態だったため、血を分けた姉妹さえ王位を脅かす敵とみなしていたという。そこで彼は姉妹たちを宮廷に閉じ込め、求婚者が現れないように遠ざけた。だが周到な彼も、宮廷医師の嫉妬までは計算に入れていなかった。ジャヤナガルが自分の妻を誘惑したと知り、この人物は西暦1328年に王を殺害した。

ジャヤナガルは臣下の妻を口説くことに忙しく、世継ぎを生ませることにはあまり熱心でなかったため、残された王妃は娘のディア・ギターチャを玉座に座らせることができた。西暦1329年のことである。新しく戴冠した女王摂政は、以後、トリブワノトゥンガデウィ・ジャヤウィシュヌワダニという正式な称号で知られるようになる。

同年、彼女はガジャ・マダをパティ、すなわちマジャパヒト王国の宰相に任命した。歴史はこのマダという人物のことを、熱心な帝国拡張論者、ラジャサ王朝の3人の君主に仕えた忠臣、そして宮廷の陰謀家として描いている。マダがジャヤナガル王の暗殺にかかわったという噂が真実かどうかはわからない。また、自分のパティが先王の殺害に関与していた疑いがあることをディア・ギターチャが知っていたかどうかも、歴史は伝えていない。

幽閉から解放されたギターチャは、その後チャクラダラを王配に迎え、西暦1334年に息子ハヤム・ウルクを授かった。

女王摂政として統治していた時代、ギターチャはサデンとケタで反乱を鎮めた。彼女はいとこであるマレープラの王、アディタヤワルマンと共に、陣頭に立って戦ったと言われている。

しかし彼女の統治について歴史がより鮮やかに描きだすのは、マジャパヒトが宰相の軍略によってバリ島を征服したことであろう。バリの指導者の血統はガジャ・マダによって絶たれ、王国はマジャパヒトの軍門に下った。

ギターチャの統治の終焉は、戦争や宮廷の陰謀でなく、マジャパヒトの王位継承における不運な出来事によるものだった。ギターチャに摂政女王の称号を授けたのは、彼女の母ガーヤトリーであった。つまりギターチャは、皇太后の意を受けて政治をしていたのである。そのため、西暦1350年にガーヤトリーが僧院で息を引き取ると、後見人を失ったギターチャは玉座を明け渡さざるをえなくなった。

ギターチャの跡を継いだのは、息子のハヤム・ウルクである。この若者は、インドネシアの多くの人々がマジャパヒト王国の黄金時代と考えている時代を開いた。歴史家によって見方は多少異なるが、ハヤム・ウルクは母親が守った帝国を無事に引き継いだ。そしてマジャパヒト王国の版図を、現在のインドネシアを超え、マレーシアの一部にまで拡大したのである。

ディア・ギターチャの退位後の人生がどのようなものだったのか、記録はほとんど残っていない。彼女がいつ没したかも不明である。しかし、領土を広げ、マジャパヒトの国威を高めた彼女の功績は、いつまでも人々の記憶に残るだろう。
icon_leader_default
土地が足りなければ海に出よ。大海原はさらなる土地をもたらすだろう。

特性

文明

設定

アジェンダ
群島国家
小さな陸地への入植、またはそうした土地にある都市の征服を避ける文明を好み、小さな陸地に多くの都市を持つ文明を嫌う。
宗教
icon_leader_default
土地が足りなければ海に出よ。大海原はさらなる土地をもたらすだろう。

特性

文明

設定

アジェンダ
群島国家
小さな陸地への入植、またはそうした土地にある都市の征服を避ける文明を好み、小さな陸地に多くの都市を持つ文明を嫌う。
宗教
固有能力

三界の貴き女神

信仰力で海洋ユニットを購入できる。宗教ユニットは移動力を消費せず乗船と下船が可能。沿岸/湖タイルに隣接している都心の 信仰力+2。

概要
ギターチャはあらゆる島と浜辺の女王であり、彼女が治める無数の都市は、大海原に点在し、インドネシアが誇るジョングによって守られていました。
詳細説明
インドネシアはまず湾や入江の多い沿岸に目を向けます。こうした場所の大半はインドネシアにとって、隣接ボーナスを最大限に得られる理想的な区域設置候補地だからです。造船の技術を得ると同時にギターチャの労働者ユニットは高床式の水上家屋「カンプン」を作れるようになるので、農地が不足していても大都市への発展が可能になります。インドネシアは 信仰力の産出を最大化するよう努めるべきです。そうすればジョングを中心とする大海軍の整備、大きな益をもたらしてくれる 偉人の獲得、水上移動が可能な宗教ユニット (宗教による勝利にとって追い風となります) の生産など、戦略の幅が広がります。
歴史的背景
塔に幽閉されていた姫君は、いかにして14世紀の香辛料帝国を率いる摂政女王へと変貌したのか? 物語は小さな暗殺事件からはじまる。

我々がギターチャの統治について知っていることの多くは、『ナガラクレタガマ』という壮大な詩を典拠としている。これはラカウィ・プラパンカという宮廷詩人によって書かれたもので、歴史と神話が混ざっている。そのため、内容の真偽についてはある程度割り引いて考えた方がよいだろう。とにかく『ナガラクレタガマ』によると、カフリパンの女君ことギターチャの物語は、異母兄弟であるジャヤナガル王の殺害によって幕を開けた。

女王摂政トリブワノトゥンガデウィ・ジャヤウィシュヌワダニ、またの名をディア・ギターチャは、西暦1309年以前のどこかの時点で、マジャパヒト王国の建国者ラデン・ウィジャヤと王妃ガーヤトリー・ラジャパトニの娘として生まれた。ギターチャは異母兄弟ジャヤナガル (別名「クディリの王子」) の後を継ぎ、1329年から1350年まで東南アジアの香辛料帝国を治めた。時代は王国に対するあからさまな反乱が横行し、混沌を極めた。

伝説によると、ジャヤナガルは四面楚歌の状態だったため、血を分けた姉妹さえ王位を脅かす敵とみなしていたという。そこで彼は姉妹たちを宮廷に閉じ込め、求婚者が現れないように遠ざけた。だが周到な彼も、宮廷医師の嫉妬までは計算に入れていなかった。ジャヤナガルが自分の妻を誘惑したと知り、この人物は西暦1328年に王を殺害した。

ジャヤナガルは臣下の妻を口説くことに忙しく、世継ぎを生ませることにはあまり熱心でなかったため、残された王妃は娘のディア・ギターチャを玉座に座らせることができた。西暦1329年のことである。新しく戴冠した女王摂政は、以後、トリブワノトゥンガデウィ・ジャヤウィシュヌワダニという正式な称号で知られるようになる。

同年、彼女はガジャ・マダをパティ、すなわちマジャパヒト王国の宰相に任命した。歴史はこのマダという人物のことを、熱心な帝国拡張論者、ラジャサ王朝の3人の君主に仕えた忠臣、そして宮廷の陰謀家として描いている。マダがジャヤナガル王の暗殺にかかわったという噂が真実かどうかはわからない。また、自分のパティが先王の殺害に関与していた疑いがあることをディア・ギターチャが知っていたかどうかも、歴史は伝えていない。

幽閉から解放されたギターチャは、その後チャクラダラを王配に迎え、西暦1334年に息子ハヤム・ウルクを授かった。

女王摂政として統治していた時代、ギターチャはサデンとケタで反乱を鎮めた。彼女はいとこであるマレープラの王、アディタヤワルマンと共に、陣頭に立って戦ったと言われている。

しかし彼女の統治について歴史がより鮮やかに描きだすのは、マジャパヒトが宰相の軍略によってバリ島を征服したことであろう。バリの指導者の血統はガジャ・マダによって絶たれ、王国はマジャパヒトの軍門に下った。

ギターチャの統治の終焉は、戦争や宮廷の陰謀でなく、マジャパヒトの王位継承における不運な出来事によるものだった。ギターチャに摂政女王の称号を授けたのは、彼女の母ガーヤトリーであった。つまりギターチャは、皇太后の意を受けて政治をしていたのである。そのため、西暦1350年にガーヤトリーが僧院で息を引き取ると、後見人を失ったギターチャは玉座を明け渡さざるをえなくなった。

ギターチャの跡を継いだのは、息子のハヤム・ウルクである。この若者は、インドネシアの多くの人々がマジャパヒト王国の黄金時代と考えている時代を開いた。歴史家によって見方は多少異なるが、ハヤム・ウルクは母親が守った帝国を無事に引き継いだ。そしてマジャパヒト王国の版図を、現在のインドネシアを超え、マレーシアの一部にまで拡大したのである。

ディア・ギターチャの退位後の人生がどのようなものだったのか、記録はほとんど残っていない。彼女がいつ没したかも不明である。しかし、領土を広げ、マジャパヒトの国威を高めた彼女の功績は、いつまでも人々の記憶に残るだろう。