コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
ギリシャ
固有能力

プラトン著『国家』

政府のワイルドカード政策スロットが1つ増える。

歴史的背景
古代ギリシャ (ヘレニズムとも呼ばれる) の時代は、紀元前510年、アテネ最後の僭主の死によってはじまり、紀元前336年、マケドニアのピリッポス2世の暗殺とともに終わった。この時代が大物の死によって区分されるのはふさわしい。なぜならこの時代は――2度の大規模な戦争と影響力のある都市国家の衰退、そしてマケドニアの覇権のはじまりによって明らかなように――血なまぐさいものだったからである。しかしこの174年間にギリシャは西洋文明の基礎を築きもした。経験主義、芸術的美学、政治構造、文学形式など、文化を構成するほとんどの要素がこの時代にはじまっている。つまり、明暗に満ちた時代であり、世界史の中でも極めて象徴的な時期であったのだ。

ギリシャ人は、都市国家を意味するポリスという (誕生以来ずっと誤用されている) 言葉を生み出した。伝統的にこの言葉が指していたのは古代アテネのような形式の政治単位 (近隣の小さな街や村を支配する中心都市) だったが、スパルタのような組織形態 (とびぬけて強力な中心都市がなく、小さな街同士が結びついていた) を指す場合にも使われた。そしてこの違いによって、古代ギリシャの歴史について多くを説明することができる。特に有力な都市国家は4つあった (コリント、テーベ、アテネ、スパルタ)。それぞれのポリスは自治権をもつ政治的な存在であり、所属する市民に対してのみ責任を負っていた。各都市国家に暮らす市民は言語、歴史、文化を共有していたにもかかわらず、絶え間なく争い、気の向くままに戦争をはじめた。ギリシャ人は共通の敵を前にして団結することもあったが、当面の危機が去るとすぐに同盟は破棄され、互いに殺し合った。

すべては紀元前512年にはじまった。アテネの僭主ペイシストラトスが死去すると、アテネの貴族たちは、僭主 (当時はまだ「暴君」や「独裁者」といった軽蔑的な意味合いはなかったが) はもういらないと、息子のヒッピアスを追放する助力をスパルタに求めた。スパルタの王クレオメネスは統治にスパルタ式の寡頭制を導入しようとしたが、アテネのクレイステネスがそれを阻止し、市民同権の民主主義を制定する一連の改革を行った。そこでは、すべての市民 (もちろん女性と奴隷は除かれる) に、法の下で平等な権利が与えられた。こうして文明に民主主義がもたらされ、状況は大きく変わった。スパルタはアテネを攻撃して傀儡政権を樹立しようと奮闘したが、圧政から解放されたばかりの市民が強固な守りを見せると撤退を余儀なくされた。こうしてアテネとスパルタの対立がはじまり、数世紀もつづくこととなった。

アテネとスパルタの対立はすぐに保留となった。より大きな脅威… ペルシアに対処しなければならなかったからである。紀元前8世紀からギリシャ人入植者はイオニア (小アジアの沿岸地域) に都市を建設していたが、紀元前6世紀なかばまでにすべてがペルシア帝国の軍門に下っていた。499年、イオニアの諸都市は「圧制者」に対し、いわゆるイオニアの反乱を起こした。アテネといくつかのエーゲ海の都市国家はこれを好機と見て同胞のギリシャ人に援軍を送ったが、効果はなかった。この連合軍が494年のラデ沖の戦いで完敗すると、ペルシアは報復に出た。マケドニアとトラキアへ進軍しながらすべてを略奪し、エーゲ海に艦隊を送り込んで片っぱしから船を沈めたのだ。490年にペルシアのダレイオス大王は、アテネを目標として2~10万の軍勢をアッティカに上陸させた。マラトンでペルシア軍と対峙したのは9000人ばかりのアテネ軍と1000人ばかりのプラタイアイ軍であったが、それでも彼らはペルシア軍を打ち破った。この勝利によって、ギリシャは次の局面に向けた準備期間として10年を稼ぐことができた。

ところがギリシャ人は、せっかく得た10年を無駄にし、ただ言い争っていた。紀元前480年になるとペルシアのクセルクセス1世がギリシャへの攻撃を再開し、今度は自らが約30万の軍勢を率いてバルカン半島に上陸した。海上にいる同規模の艦隊から補給を受けつつ、巨大なペルシア軍はギリシャの諸都市を迅速に制圧しつつ、一路アテネを目指した。9月にテルモピュライの隘路で束の間の遅れをとったものの (屈強なスパルタ兵が300人ほどと、誰からも忘れ去られてしまったテスピアイやテーベの兵1100人ほどがペルシア軍と戦った)、ほどなくしてクセルクセス1世はアッティカに進軍し、アテネを侵略して焼き払った。ただし、この時点で人々はアテネから避難していた。

その一方、アテネ率いる271隻のガレー船と三段櫂船からなるギリシャの連合艦隊は、ペルシアのおよそ800隻の大艦隊をアルテミシオンの海峡で迎え撃つために集結していた。丸1日つづいた戦いは引き分けとなったが、ギリシャ軍にはそれ以上戦う余力がなく、テルモピュライでの戦いの連絡を受けると、勇敢にもサラミスの港へ撤退した。クセルクセス1世は決定的な打撃を与えて強情なギリシャ人たちを降参させようと、軽率にも艦隊をサラミス海峡へ送り込んだ。しかし狭い海域ではペルシア艦隊の数は有利になるどころか足枷となり、操船技術に勝るギリシャが上手を取ることとなった (歴史家ヘロドトスは、犠牲者の数に大きな偏りがあるのは、ギリシャ人は泳いで岸まで辿り着けたのに対して、ペルシア人のほとんどが泳げなかったからだと述べている)。

このような危険な場所で補給を絶たれることを恐れたクセルクセス1世は、海上輸送の途絶によって食糧や軍需物資が底をつきかけていたこともあり、ヘレスポント海峡へと段階的に撤退を開始した。紀元前479年には、スパルタのパウサニアス率いる連合軍が、「ギリシャ人にとどめをさす」ために残されていた大規模なペルシアの軍勢を破った。アテネ率いる海軍は、ミカレ岬でもペルシア艦隊を破り、翌年にはイオニアにあるギリシャの植民都市ビザンティウムを取り戻した。アテネは島々の都市国家とデロス同盟を結び (同盟の金庫がデロスという神聖な小島に設けられたことからこの名前がついたが、それも短い間だった)、エーゲ海からペルシアを追い払った。スパルタの重装歩兵隊は、戦いは終わったと判断し (事実そのとおりだった) 帰還した。

平和 (もしくはそれに似た状態) が訪れると、ギリシャ人たちは腰をすえて文化や文明を発展させた。ギリシャの劇作家は戯曲や喜劇を確立した。ペリクレスはデロス同盟の資金を横領し、パルテノン神殿などの素晴らしい建築物を建てた。彫刻家のフェイディアスやミュロン、ポリュクレイトスは、大理石、石材、ブロンズに生命を吹きこんだ。ソクラテスやアリストテレスのような哲学者やソフィストは、学園や書庫で (時には道端で)、人生をはじめとする万物の意味を熟考した。ヘロドトスやトゥキュディデスは「歴史」の記録をはじめた。ピタゴラスやエウドクソスは西洋の数学の基礎を築いた。宗教が形式化され、法律は体系化された。ヒポクラテスはアテネで医者を開業した。そしてそれらすべてが記録された (イソップの寓話のような子供向けのおとぎ話でさえ)。ギリシャ人たちは他にも偉業を成し遂げていたかもしれない… 再び殺し合いをはじめていなければ。

トゥキュディデスがこの不愉快な出来事をすべて書き留めていたので、現代の我々もペロポネソス戦争の経過を細かく知ることができる。ペロポネソス戦争とは、(絶頂期にあった) アテネ率いるデロス同盟と、スパルタが支配するペロポネソス同盟の間で長くつづいた戦争である。ミロスのように対立と距離を置こうとした都市国家でさえ、最終的には戦闘に参加することとなった (ミロスはデロス同盟への参加を求めるアテネの提案を断ったが、アテネに税を払って助かるか、それを拒んで滅ぼされるかという選択を迫られた)。紀元前460年にはじまった第一次ペロポネソス戦争は決着がつかないまま30年和約 (スパルタとアテネの「勢力」範囲を明確にした条約) によって紀元前445年に終結した。

しかし、その後も両陣営は相手の問題に介入しつづけ、紀元前431年には結局戦争は再開した。アテネとスパルタは10年にわたって幾度も方々へ進軍し、殺戮を繰り広げた後、「50年和約」とも呼ばれたニキアスの和平に同意した。だが、それも長くはつづかず、さらに方々への進軍、殺戮、略奪が繰り広げられた。紀元前415年、ついにアテネはコリントのギリシャ植民都市であるシチリア島のシラクサへ全戦力を派遣した。しかしこの作戦は完全に失敗し、紀元前413年までに全軍が壊滅した。その一方でペルシアは、エーゲ海の島々で高圧的なアテネの支配に対して勃発していた反乱を支援していた。紀元前405年にアイゴスポタモイで、スパルタの海軍提督率いるペロポネソス同盟の180隻の艦隊がアテネの新艦隊を破ったことが決定打となり、翌年にアテネは降伏。スパルタがギリシャに君臨した。

スパルタ王は新たな世界秩序の構想を持っていたが、スパルタによる支配はうまくいかなかった。実際のところ、この時代には半世紀の間にさまざまな衝突が起こったが (スパルタ対テーベ、スパルタ対アテネの再戦、スパルタ対テーベの再戦、スパルタ対復活したボイオティア同盟)、戦ってもなにひとつ解決しなかった。どの都市にもギリシャを統一したり支配したりする力はなかった。この時代に起きた策略や裏切り、戦いや虐殺の詳細は、ここで述べるには長すぎる。とにかく、数十年にわたる厳しい戦いでギリシャ南部の諸都市国家は弱体化し、力のバランスは北方のマケドニアに傾いた、と述べれば十分だろう。

紀元前359年頃、それまでギリシャ世界の粗野で未開な周辺地でしかなかったマケドニアの指導権をピリッポス2世が握った。野心的なピリッポス2世率いるマケドニアの重装歩兵隊は、すぐに近隣のパエオニア、イリュリア、トラキアの領土を侵略し、紀元前357年、トラキア最大の港アンフィポリスを奪った。その1年後、ピリッポス2世はアテネが守るピュドナの港を征服した。偉大な (そして後から考えると予言的な) 弁論家デモステネスは、アテネ市民などを相手に、マケドニアの拡大に対して断固戦う必要があると声高に説きはじめた。そしてまったく効果が出ないまま、手遅れとなった。紀元前338年、ピリッポス2世は16才の息子アレキサンドロスをともなって南に進軍した。若きアレキサンドロスは、少数のマケドニア兵を率い、先だって起こったトラキアの反乱を鎮圧しており、すでに将たる力量のあることを証明していた。ピリッポス2世は複数の少部隊を派遣した後、アテネ、コリント、テーベ、メガラ、カルキス、アカイア、エピダウロス、トロイゼーンの連合軍をカイロネイアの戦いで完全に打ち負かした。このカイロネイアの戦いこそが古代世界で最も決定的な戦いだったと論じる者もいるほどである。

それはともかく、ピリッポス2世が次に目をつけたのは、カイロネイアの戦いに参加しなかったスパルタとそのわずかな同盟国だった。そこで翌年はスパルタの領土を荒らし、マケドニアと敵対するスパルタの同盟国と和解し、スパルタを説得することにあてた。ピリッポス2世のこの努力はいくらか実を結び、紀元前337年の後半にコリント同盟 (マケドニア軍がコリントに駐留していたためこの名がついた) をなんとか作りあげた。コリント同盟は、同盟内の領土の平和と、宿敵であるペルシアに遠征する際にピリッポス2世を軍事支援することを約束するものであった。すべての都市国家がこの同盟に加わった… スパルタを除いて。コリント同盟はピリッポス2世をペルシア侵攻のストラテゴス (指揮官) に選出した。

ギリシャは事実上マケドニアの言いなりになり、紀元前336年には先遣隊が北部から小アジアへ送りこまれ、戦端が開かれた。ピリッポス2世も、ペルシアの中心まで侵攻できる大部隊 (ギリシャの同盟軍含む) を率いてつづくはずであったが、娘の婚礼の宴席で自分自身の護衛に暗殺されてしまい、既知世界の制覇は息子に引き継がれた。かくしてアレキサンドロスは20才にしてマケドニアの王位に就き、自動的にギリシャ全体の支配者となった。その後のことは、誰もが知るところである。
PortraitSquare
icon_civilization_greece

特性

指導者
特殊ユニット
特殊インフラ

地形&社会データ

所在地
ヨーロッパ
面積
大雑把に計算して13万1900平方キロメートル
人口
推定66万7500人 (ペロポネソス戦争当時)
首都
すべての都市 (ただし主にスパルタとアテネ。現在はアテネ)
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特性

指導者
特殊ユニット
特殊インフラ

地形&社会データ

所在地
ヨーロッパ
面積
大雑把に計算して13万1900平方キロメートル
人口
推定66万7500人 (ペロポネソス戦争当時)
首都
すべての都市 (ただし主にスパルタとアテネ。現在はアテネ)
固有能力

プラトン著『国家』

政府のワイルドカード政策スロットが1つ増える。

歴史的背景
古代ギリシャ (ヘレニズムとも呼ばれる) の時代は、紀元前510年、アテネ最後の僭主の死によってはじまり、紀元前336年、マケドニアのピリッポス2世の暗殺とともに終わった。この時代が大物の死によって区分されるのはふさわしい。なぜならこの時代は――2度の大規模な戦争と影響力のある都市国家の衰退、そしてマケドニアの覇権のはじまりによって明らかなように――血なまぐさいものだったからである。しかしこの174年間にギリシャは西洋文明の基礎を築きもした。経験主義、芸術的美学、政治構造、文学形式など、文化を構成するほとんどの要素がこの時代にはじまっている。つまり、明暗に満ちた時代であり、世界史の中でも極めて象徴的な時期であったのだ。

ギリシャ人は、都市国家を意味するポリスという (誕生以来ずっと誤用されている) 言葉を生み出した。伝統的にこの言葉が指していたのは古代アテネのような形式の政治単位 (近隣の小さな街や村を支配する中心都市) だったが、スパルタのような組織形態 (とびぬけて強力な中心都市がなく、小さな街同士が結びついていた) を指す場合にも使われた。そしてこの違いによって、古代ギリシャの歴史について多くを説明することができる。特に有力な都市国家は4つあった (コリント、テーベ、アテネ、スパルタ)。それぞれのポリスは自治権をもつ政治的な存在であり、所属する市民に対してのみ責任を負っていた。各都市国家に暮らす市民は言語、歴史、文化を共有していたにもかかわらず、絶え間なく争い、気の向くままに戦争をはじめた。ギリシャ人は共通の敵を前にして団結することもあったが、当面の危機が去るとすぐに同盟は破棄され、互いに殺し合った。

すべては紀元前512年にはじまった。アテネの僭主ペイシストラトスが死去すると、アテネの貴族たちは、僭主 (当時はまだ「暴君」や「独裁者」といった軽蔑的な意味合いはなかったが) はもういらないと、息子のヒッピアスを追放する助力をスパルタに求めた。スパルタの王クレオメネスは統治にスパルタ式の寡頭制を導入しようとしたが、アテネのクレイステネスがそれを阻止し、市民同権の民主主義を制定する一連の改革を行った。そこでは、すべての市民 (もちろん女性と奴隷は除かれる) に、法の下で平等な権利が与えられた。こうして文明に民主主義がもたらされ、状況は大きく変わった。スパルタはアテネを攻撃して傀儡政権を樹立しようと奮闘したが、圧政から解放されたばかりの市民が強固な守りを見せると撤退を余儀なくされた。こうしてアテネとスパルタの対立がはじまり、数世紀もつづくこととなった。

アテネとスパルタの対立はすぐに保留となった。より大きな脅威… ペルシアに対処しなければならなかったからである。紀元前8世紀からギリシャ人入植者はイオニア (小アジアの沿岸地域) に都市を建設していたが、紀元前6世紀なかばまでにすべてがペルシア帝国の軍門に下っていた。499年、イオニアの諸都市は「圧制者」に対し、いわゆるイオニアの反乱を起こした。アテネといくつかのエーゲ海の都市国家はこれを好機と見て同胞のギリシャ人に援軍を送ったが、効果はなかった。この連合軍が494年のラデ沖の戦いで完敗すると、ペルシアは報復に出た。マケドニアとトラキアへ進軍しながらすべてを略奪し、エーゲ海に艦隊を送り込んで片っぱしから船を沈めたのだ。490年にペルシアのダレイオス大王は、アテネを目標として2~10万の軍勢をアッティカに上陸させた。マラトンでペルシア軍と対峙したのは9000人ばかりのアテネ軍と1000人ばかりのプラタイアイ軍であったが、それでも彼らはペルシア軍を打ち破った。この勝利によって、ギリシャは次の局面に向けた準備期間として10年を稼ぐことができた。

ところがギリシャ人は、せっかく得た10年を無駄にし、ただ言い争っていた。紀元前480年になるとペルシアのクセルクセス1世がギリシャへの攻撃を再開し、今度は自らが約30万の軍勢を率いてバルカン半島に上陸した。海上にいる同規模の艦隊から補給を受けつつ、巨大なペルシア軍はギリシャの諸都市を迅速に制圧しつつ、一路アテネを目指した。9月にテルモピュライの隘路で束の間の遅れをとったものの (屈強なスパルタ兵が300人ほどと、誰からも忘れ去られてしまったテスピアイやテーベの兵1100人ほどがペルシア軍と戦った)、ほどなくしてクセルクセス1世はアッティカに進軍し、アテネを侵略して焼き払った。ただし、この時点で人々はアテネから避難していた。

その一方、アテネ率いる271隻のガレー船と三段櫂船からなるギリシャの連合艦隊は、ペルシアのおよそ800隻の大艦隊をアルテミシオンの海峡で迎え撃つために集結していた。丸1日つづいた戦いは引き分けとなったが、ギリシャ軍にはそれ以上戦う余力がなく、テルモピュライでの戦いの連絡を受けると、勇敢にもサラミスの港へ撤退した。クセルクセス1世は決定的な打撃を与えて強情なギリシャ人たちを降参させようと、軽率にも艦隊をサラミス海峡へ送り込んだ。しかし狭い海域ではペルシア艦隊の数は有利になるどころか足枷となり、操船技術に勝るギリシャが上手を取ることとなった (歴史家ヘロドトスは、犠牲者の数に大きな偏りがあるのは、ギリシャ人は泳いで岸まで辿り着けたのに対して、ペルシア人のほとんどが泳げなかったからだと述べている)。

このような危険な場所で補給を絶たれることを恐れたクセルクセス1世は、海上輸送の途絶によって食糧や軍需物資が底をつきかけていたこともあり、ヘレスポント海峡へと段階的に撤退を開始した。紀元前479年には、スパルタのパウサニアス率いる連合軍が、「ギリシャ人にとどめをさす」ために残されていた大規模なペルシアの軍勢を破った。アテネ率いる海軍は、ミカレ岬でもペルシア艦隊を破り、翌年にはイオニアにあるギリシャの植民都市ビザンティウムを取り戻した。アテネは島々の都市国家とデロス同盟を結び (同盟の金庫がデロスという神聖な小島に設けられたことからこの名前がついたが、それも短い間だった)、エーゲ海からペルシアを追い払った。スパルタの重装歩兵隊は、戦いは終わったと判断し (事実そのとおりだった) 帰還した。

平和 (もしくはそれに似た状態) が訪れると、ギリシャ人たちは腰をすえて文化や文明を発展させた。ギリシャの劇作家は戯曲や喜劇を確立した。ペリクレスはデロス同盟の資金を横領し、パルテノン神殿などの素晴らしい建築物を建てた。彫刻家のフェイディアスやミュロン、ポリュクレイトスは、大理石、石材、ブロンズに生命を吹きこんだ。ソクラテスやアリストテレスのような哲学者やソフィストは、学園や書庫で (時には道端で)、人生をはじめとする万物の意味を熟考した。ヘロドトスやトゥキュディデスは「歴史」の記録をはじめた。ピタゴラスやエウドクソスは西洋の数学の基礎を築いた。宗教が形式化され、法律は体系化された。ヒポクラテスはアテネで医者を開業した。そしてそれらすべてが記録された (イソップの寓話のような子供向けのおとぎ話でさえ)。ギリシャ人たちは他にも偉業を成し遂げていたかもしれない… 再び殺し合いをはじめていなければ。

トゥキュディデスがこの不愉快な出来事をすべて書き留めていたので、現代の我々もペロポネソス戦争の経過を細かく知ることができる。ペロポネソス戦争とは、(絶頂期にあった) アテネ率いるデロス同盟と、スパルタが支配するペロポネソス同盟の間で長くつづいた戦争である。ミロスのように対立と距離を置こうとした都市国家でさえ、最終的には戦闘に参加することとなった (ミロスはデロス同盟への参加を求めるアテネの提案を断ったが、アテネに税を払って助かるか、それを拒んで滅ぼされるかという選択を迫られた)。紀元前460年にはじまった第一次ペロポネソス戦争は決着がつかないまま30年和約 (スパルタとアテネの「勢力」範囲を明確にした条約) によって紀元前445年に終結した。

しかし、その後も両陣営は相手の問題に介入しつづけ、紀元前431年には結局戦争は再開した。アテネとスパルタは10年にわたって幾度も方々へ進軍し、殺戮を繰り広げた後、「50年和約」とも呼ばれたニキアスの和平に同意した。だが、それも長くはつづかず、さらに方々への進軍、殺戮、略奪が繰り広げられた。紀元前415年、ついにアテネはコリントのギリシャ植民都市であるシチリア島のシラクサへ全戦力を派遣した。しかしこの作戦は完全に失敗し、紀元前413年までに全軍が壊滅した。その一方でペルシアは、エーゲ海の島々で高圧的なアテネの支配に対して勃発していた反乱を支援していた。紀元前405年にアイゴスポタモイで、スパルタの海軍提督率いるペロポネソス同盟の180隻の艦隊がアテネの新艦隊を破ったことが決定打となり、翌年にアテネは降伏。スパルタがギリシャに君臨した。

スパルタ王は新たな世界秩序の構想を持っていたが、スパルタによる支配はうまくいかなかった。実際のところ、この時代には半世紀の間にさまざまな衝突が起こったが (スパルタ対テーベ、スパルタ対アテネの再戦、スパルタ対テーベの再戦、スパルタ対復活したボイオティア同盟)、戦ってもなにひとつ解決しなかった。どの都市にもギリシャを統一したり支配したりする力はなかった。この時代に起きた策略や裏切り、戦いや虐殺の詳細は、ここで述べるには長すぎる。とにかく、数十年にわたる厳しい戦いでギリシャ南部の諸都市国家は弱体化し、力のバランスは北方のマケドニアに傾いた、と述べれば十分だろう。

紀元前359年頃、それまでギリシャ世界の粗野で未開な周辺地でしかなかったマケドニアの指導権をピリッポス2世が握った。野心的なピリッポス2世率いるマケドニアの重装歩兵隊は、すぐに近隣のパエオニア、イリュリア、トラキアの領土を侵略し、紀元前357年、トラキア最大の港アンフィポリスを奪った。その1年後、ピリッポス2世はアテネが守るピュドナの港を征服した。偉大な (そして後から考えると予言的な) 弁論家デモステネスは、アテネ市民などを相手に、マケドニアの拡大に対して断固戦う必要があると声高に説きはじめた。そしてまったく効果が出ないまま、手遅れとなった。紀元前338年、ピリッポス2世は16才の息子アレキサンドロスをともなって南に進軍した。若きアレキサンドロスは、少数のマケドニア兵を率い、先だって起こったトラキアの反乱を鎮圧しており、すでに将たる力量のあることを証明していた。ピリッポス2世は複数の少部隊を派遣した後、アテネ、コリント、テーベ、メガラ、カルキス、アカイア、エピダウロス、トロイゼーンの連合軍をカイロネイアの戦いで完全に打ち負かした。このカイロネイアの戦いこそが古代世界で最も決定的な戦いだったと論じる者もいるほどである。

それはともかく、ピリッポス2世が次に目をつけたのは、カイロネイアの戦いに参加しなかったスパルタとそのわずかな同盟国だった。そこで翌年はスパルタの領土を荒らし、マケドニアと敵対するスパルタの同盟国と和解し、スパルタを説得することにあてた。ピリッポス2世のこの努力はいくらか実を結び、紀元前337年の後半にコリント同盟 (マケドニア軍がコリントに駐留していたためこの名がついた) をなんとか作りあげた。コリント同盟は、同盟内の領土の平和と、宿敵であるペルシアに遠征する際にピリッポス2世を軍事支援することを約束するものであった。すべての都市国家がこの同盟に加わった… スパルタを除いて。コリント同盟はピリッポス2世をペルシア侵攻のストラテゴス (指揮官) に選出した。

ギリシャは事実上マケドニアの言いなりになり、紀元前336年には先遣隊が北部から小アジアへ送りこまれ、戦端が開かれた。ピリッポス2世も、ペルシアの中心まで侵攻できる大部隊 (ギリシャの同盟軍含む) を率いてつづくはずであったが、娘の婚礼の宴席で自分自身の護衛に暗殺されてしまい、既知世界の制覇は息子に引き継がれた。かくしてアレキサンドロスは20才にしてマケドニアの王位に就き、自動的にギリシャ全体の支配者となった。その後のことは、誰もが知るところである。