コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
中国
固有能力

王朝の盛衰

ひらめきと 天啓によってもたらされるのが、社会制度と技術の40%ではなく50%になる。遺産を完成させると、可能ならその時代の遺産からランダムな ひらめきと 天啓が得られる。

歴史的背景
中国は文明に多くの貢献をしてきた。紙、鈴、釣りのリール、火薬、羅針盤、隔壁、トランプ、油井、木版印刷、絹など、中国由来の発明品は数多い。また、宗教 (儒教、道教、法教、毕摩教など) や、哲学 (墨家、法規主義、自然主義、玄学など) の分野への貢献も計り知れない。著作家としては施耐庵や呉承恩、芸術家としては韓幹や馬遠、作曲家としては魏良輔や蔡琰などが文明を豊かにした。さらには、奴隷制度、一夫一婦制、スパイ活動、政府の転覆、プロパガンダ、都市化、凌遅刑 (何度も何度も切りつける処刑方法) なども中国からもたらされた。

戦国時代 (およそ紀元前475年~紀元前221年)、古代中国には斉、秦、趙、燕、韓、楚、魏の7つの王国があった。これらの国は互いに仲が悪く… いや、「極めて」仲が悪く、絶え間なく戦争をつづけていた。最終的に秦の王である嬴政が中国を統一し、最後の敵国である斉を征服して自ら「始皇帝」と称した。始皇帝による栄光の統治の下、書物は焼かれ、皇帝の意に沿わない学者は生き埋めにされた (戦国時代は「諸子百家」と呼ばれる、嘆かわしい自由主義哲学と自由思想にまみれた学者をたくさん生んでいたのだ)。また秦は広域に及ぶ道路や運河の建設に着手。また、遊牧民を攻めこませないために万里の長城の建設を開始した (この努力は無駄に終わる)。始皇帝は手を尽くして伝説の不死の仙薬を探し求めたものの、ついに発見できず、紀元前210年に崩御。遺体は70万人の「無償労働者」によって長安付近に建設された巨大な霊廟に葬られ、かの有名な兵馬俑が死後の護衛を務めた。始皇帝の死後、秦帝国はわずか数年で崩壊した。

地方の農民だった劉邦は生まれながらのトラブルメーカーだった。紀元前207年、野心豊かな楚の将軍項羽の後押しを受けて始皇帝の後継者である子嬰を玉座から引きずり下ろすと、劉邦は項羽を排除して漢王朝を打ち立てた。一時的に新王朝によって中断された時期もあるが、漢の治世は言語の統合、文化的な実験、政治的表現、好景気、領土の探検と拡張、そして技術革新など、じつに良い時代だった。後年、武帝がステップ地帯で匈奴の連合軍を打ち破り、伝統的な中国の国境を広げたことで、漢の繁栄は頂点に達した。漢の遺跡でローマ製のガラス製品が発見されたことから、漢の商人は遠くパルティア帝国やインドにまで足を運んでいたことがわかっている。漢の歴代皇帝は、元兵士を農民として西域に多数移住させ、いわゆるシルクロードの基礎を築いた。

曹操の存在感の増大は、漢皇帝の権威の低下を意味した。西暦208年、曹操は皇帝の相談役である三公を廃し、自身を丞相の地位に着けた。215年、曹操は献帝に皇后との離婚を強制し、曹操の娘を新たな皇后として娶らせる。天の兆しが示すとおりに漢王朝の天命は尽き、献帝は220年12月に皇帝の位を退き、曹操の息子、曹丕に玉座を譲った。曹丕は魏王朝を打ち立てた… が、中国統一はほどなくしてバラバラになった。

黄巾の乱が起きてから60年間――中国の研究家は想像力豊かに「三国時代」と呼んでいる――魏、蜀、呉の3国が秦や漢のような中央集権国家を建て直すために争ったが、いずれも達成できずに滅び、後の晋王朝がようやくそれを成し遂げることになる。司馬炎は魏王である曹奐に禅譲を強制し、その卓越した軍略によって西暦263年に蜀を、西暦279年に呉を征服した。しかし晋王朝は皇子たちによる争いで深刻な衰退をはじめ、間もなく中国北部と西部の支配を失った (以後の晋王朝は単に東晋と呼ばれる)。やがて中国は五胡十六国時代 (またしても中国研究家たちによる命名) へ移り、これが439年まで続いた。

いくつかの国は血河の果てに併合されたが、西暦589年まで中国全土が1人の支配者によって統一されることはなく、やっとそれを成し遂げた隋王朝もまた短命だった。つづいて唐王朝が生まれ、907年まで (おおむね) 中国を統一しつづけた。唐の治世は漢に似ており、交易と外交を重視することで中国に安定と繁栄をもたらした。宗教や文化においても隆盛を極めた時代である。隋王朝の時代からはじまった大運河が完成し、シルクロードによる東西交流が再びはじまった。また、律令の修正も行われた。特にこの結果、女性の権利が徐々に拡大され、官僚の選抜試験も開始された。実施された改革は他にも多岐にわたる。租税は身分に応じて標準化され、国民全員に納めさせるために中国で初の国勢調査が行われた。李白と杜甫のような才ある詩人はこの時代を大いに称え、彼らの作品は中国文学の水準の高さを示すものとして後世に残った。

しかし、唐王朝は自然災害にたびたび苦しめられた。黄河と大運河周辺の氾濫、そしてそれにつづく干ばつは、大飢饉と経済の崩壊を引き起こした。農業生産は半分まで落ち込み、民衆は通例に従って新たな指導者を求めた。唐王朝は度重なる反乱に悩まされ、西暦907年にかつては塩の密輸業者だった朱全忠が将軍に取り立てられる。彼は唐最後の皇帝を退位させ、自ら王朝を開いた。そして五代十国時代が到来し (中身はおよそ名前のとおりである)、960年頃までつづいた。その後の4世紀、5つの王朝が再び中国を統一した。順に宋朝、遼朝、金朝 (2度目)、西夏、そして元朝 (フビライ・ハンが万里の長城を越えてきた) である。いずれの王朝も人間の織りなす文明に技術的発展、哲学の追求、そして社会的な前進という形で貢献したが、最も想像力を惹きつけるのは明王朝だろう。

民衆の胸にはモンゴル人の支配に対する憤りがくすぶっていた。西暦1340年代に起きた飢饉と疫病の蔓延は人々の不満に火を付け、大規模な農民反乱のきっかけともなった。もはやフビライの子孫が天命から見放されつつあるのは明白だった。貧しい農民から反乱軍の指導者になった朱元璋 (今日では洪武帝と呼ばれている) は、大都 (現在の北京) を占領した後、1368年に明王朝の初代皇帝として即位した。朱元璋が皇帝に至る道程は長かった。伝説によれば彼は7人ないし8人兄弟の末子で、貧しかったために兄弟の何人かは売られたという。さらに黄河の氾濫が村を襲い、疫病によって家族をすべて失った後は、仏教の僧院 (皇覚寺) に身を寄せることで生き延びた。この僧院もゾロアスター教徒の反乱に対する報復としてモンゴル軍に破壊された。しかしその後、朱元璋は紅巾党の反乱に加わり、30歳になる頃にはそれを率いるまでになっていた。復讐は復讐を招くのである。

明王朝は中国に華やかな時代の到来を告げた。ひとたび玉座を得た洪武帝は数々の政策を打ち出した。彼は何よりもまず、前王朝で専横を享受していた宦官たちに対し、宮廷内での昇進や影響力を制限すべく動いた (明王朝が末期に味わった苦難の原因は、宦官の力が蘇り、事実上2つの政権に分かれてしまったことである)。社会秩序においては貴族、農民、職人、商人という4つの階級が定められ、それぞれに義務と権利が与えられた。後年の明皇帝は商人階級の活躍が王朝に更なる富と税をもたらすと考え、彼らの便益を増やした。モンゴル軍の脅威を再び退けた一方、朝鮮と日本との戦争では蓄えた富の多くを吐き出すことになり、さらに天災が再び襲ってきた。西暦1640年には大人数の農民が蜂起した。彼らは皆飢餓に苦しみ、税を納められず、そして度々打ち破られていた明軍を恐れていなかった。この反乱によって明王朝は滅び、混迷の果てに清王朝 (満州族による王朝) が成立した。

ヨーロッパ人の波紋が広がるまで、中国は順調だった。かのマルコ・ポーロや、時折来訪する商人、冒険家は、中国のいわば裏口から入国していたのだが、ポルトガル人のジョルジュ・アルヴァレスは1513年、海路から中国本土へ上陸した。彼らは明の皇帝を言いくるめてマカオをヨーロッパ人の「居留地」として認めさせ、1557年に最初の統治者を置いた。とはいえ、清の時代の中国の経済と統治は――賢明にも外国との無用な摩擦は避けていた――安定していた。高い識字率、政府が支援する出版産業、都市の拡張、平穏な内面の探求を重視した儒教の普及などが、芸術や哲学の分野における急速な発展に貢献した。また、書道、絵画、詩歌、演劇、料理といった伝統的な工芸も再興された。

しかし、よそ者は横やりを入れつづけてきた。19世紀前半になり、中国は己がヨーロッパ、明治時代の日本、そして帝政ロシアの前に無防備だと気づかされる。はるかに優れた海軍力や良質な兵器、通信技術、互いに戦争を繰り広げたことで研ぎ澄まされた戦術などにより、植民地政策をとる列強は、清を従わせて交易を掌握すると、思うままに振る舞おうとした。1842年、第一次アヘン戦争で中国はイギリス軍に敗れ、悪名高い南京条約 (多く結ばれた「不平等条約」の初期の1つ) に調印することを強いられた。通商条約のほとんどは不平等なもので、中国経済は1900年までに大きく傾いた。急速な近代化を果たし、植民地獲得競争に参加した日本は、中国から朝鮮と台湾の統治権を奪いとった。清が名目上の君主として残っていたにもかかわらず、ロシアを含むヨーロッパが領土のすべてを各々の独占的な勢力範囲に分割した。一方、アメリカは中国における門戸開放政策を一方的に宣言した。

もはや限界に達していた。1899年、一般大衆により義和団が結成され、中国を自国民の手に取り戻そうとする義和団の乱が巻き起こる。だが、残念ながら彼らは鎮圧された。1901年、中国にとって厳しい内容の平和条約が結ばれた。「八カ国連合」(義和団の攻撃を受けた国家から成る) は義和団を支援した清の官吏を残らず処刑し、外国軍の首都への駐留を規定、年間の税収を上回る巨額の賠償金を課した。清は拡大する内乱に翻弄された。西太后は民衆の訴えに応じ、各地の官吏へ改革案の提出を求めた。だが、広範で革新的な案が生まれ、それが実行に移されていたとしても、時すでに遅しだった。1908年11月に光緒帝が突如として崩御 (ヒ素中毒と思われる)、その翌日に西太后もまた崩御。暴動と反乱の結果、1912年に隆裕皇太后は幼き溥儀皇帝を説得して退位させ、2000年に渡る中国の帝政に幕を引いた。そして中国は新たな闘争と、残忍な軍閥に支配される時代へと移っていく。
PortraitSquare
icon_civilization_china

地形&社会データ

所在地
アジア
面積
推定960万平方キロメートル
人口
1990年時点で11億人
首都
多数 (主に次の4都: 南京、洛陽、長安、現在は北京)
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地形&社会データ

所在地
アジア
面積
推定960万平方キロメートル
人口
1990年時点で11億人
首都
多数 (主に次の4都: 南京、洛陽、長安、現在は北京)
固有能力

王朝の盛衰

ひらめきと 天啓によってもたらされるのが、社会制度と技術の40%ではなく50%になる。遺産を完成させると、可能ならその時代の遺産からランダムな ひらめきと 天啓が得られる。

歴史的背景
中国は文明に多くの貢献をしてきた。紙、鈴、釣りのリール、火薬、羅針盤、隔壁、トランプ、油井、木版印刷、絹など、中国由来の発明品は数多い。また、宗教 (儒教、道教、法教、毕摩教など) や、哲学 (墨家、法規主義、自然主義、玄学など) の分野への貢献も計り知れない。著作家としては施耐庵や呉承恩、芸術家としては韓幹や馬遠、作曲家としては魏良輔や蔡琰などが文明を豊かにした。さらには、奴隷制度、一夫一婦制、スパイ活動、政府の転覆、プロパガンダ、都市化、凌遅刑 (何度も何度も切りつける処刑方法) なども中国からもたらされた。

戦国時代 (およそ紀元前475年~紀元前221年)、古代中国には斉、秦、趙、燕、韓、楚、魏の7つの王国があった。これらの国は互いに仲が悪く… いや、「極めて」仲が悪く、絶え間なく戦争をつづけていた。最終的に秦の王である嬴政が中国を統一し、最後の敵国である斉を征服して自ら「始皇帝」と称した。始皇帝による栄光の統治の下、書物は焼かれ、皇帝の意に沿わない学者は生き埋めにされた (戦国時代は「諸子百家」と呼ばれる、嘆かわしい自由主義哲学と自由思想にまみれた学者をたくさん生んでいたのだ)。また秦は広域に及ぶ道路や運河の建設に着手。また、遊牧民を攻めこませないために万里の長城の建設を開始した (この努力は無駄に終わる)。始皇帝は手を尽くして伝説の不死の仙薬を探し求めたものの、ついに発見できず、紀元前210年に崩御。遺体は70万人の「無償労働者」によって長安付近に建設された巨大な霊廟に葬られ、かの有名な兵馬俑が死後の護衛を務めた。始皇帝の死後、秦帝国はわずか数年で崩壊した。

地方の農民だった劉邦は生まれながらのトラブルメーカーだった。紀元前207年、野心豊かな楚の将軍項羽の後押しを受けて始皇帝の後継者である子嬰を玉座から引きずり下ろすと、劉邦は項羽を排除して漢王朝を打ち立てた。一時的に新王朝によって中断された時期もあるが、漢の治世は言語の統合、文化的な実験、政治的表現、好景気、領土の探検と拡張、そして技術革新など、じつに良い時代だった。後年、武帝がステップ地帯で匈奴の連合軍を打ち破り、伝統的な中国の国境を広げたことで、漢の繁栄は頂点に達した。漢の遺跡でローマ製のガラス製品が発見されたことから、漢の商人は遠くパルティア帝国やインドにまで足を運んでいたことがわかっている。漢の歴代皇帝は、元兵士を農民として西域に多数移住させ、いわゆるシルクロードの基礎を築いた。

曹操の存在感の増大は、漢皇帝の権威の低下を意味した。西暦208年、曹操は皇帝の相談役である三公を廃し、自身を丞相の地位に着けた。215年、曹操は献帝に皇后との離婚を強制し、曹操の娘を新たな皇后として娶らせる。天の兆しが示すとおりに漢王朝の天命は尽き、献帝は220年12月に皇帝の位を退き、曹操の息子、曹丕に玉座を譲った。曹丕は魏王朝を打ち立てた… が、中国統一はほどなくしてバラバラになった。

黄巾の乱が起きてから60年間――中国の研究家は想像力豊かに「三国時代」と呼んでいる――魏、蜀、呉の3国が秦や漢のような中央集権国家を建て直すために争ったが、いずれも達成できずに滅び、後の晋王朝がようやくそれを成し遂げることになる。司馬炎は魏王である曹奐に禅譲を強制し、その卓越した軍略によって西暦263年に蜀を、西暦279年に呉を征服した。しかし晋王朝は皇子たちによる争いで深刻な衰退をはじめ、間もなく中国北部と西部の支配を失った (以後の晋王朝は単に東晋と呼ばれる)。やがて中国は五胡十六国時代 (またしても中国研究家たちによる命名) へ移り、これが439年まで続いた。

いくつかの国は血河の果てに併合されたが、西暦589年まで中国全土が1人の支配者によって統一されることはなく、やっとそれを成し遂げた隋王朝もまた短命だった。つづいて唐王朝が生まれ、907年まで (おおむね) 中国を統一しつづけた。唐の治世は漢に似ており、交易と外交を重視することで中国に安定と繁栄をもたらした。宗教や文化においても隆盛を極めた時代である。隋王朝の時代からはじまった大運河が完成し、シルクロードによる東西交流が再びはじまった。また、律令の修正も行われた。特にこの結果、女性の権利が徐々に拡大され、官僚の選抜試験も開始された。実施された改革は他にも多岐にわたる。租税は身分に応じて標準化され、国民全員に納めさせるために中国で初の国勢調査が行われた。李白と杜甫のような才ある詩人はこの時代を大いに称え、彼らの作品は中国文学の水準の高さを示すものとして後世に残った。

しかし、唐王朝は自然災害にたびたび苦しめられた。黄河と大運河周辺の氾濫、そしてそれにつづく干ばつは、大飢饉と経済の崩壊を引き起こした。農業生産は半分まで落ち込み、民衆は通例に従って新たな指導者を求めた。唐王朝は度重なる反乱に悩まされ、西暦907年にかつては塩の密輸業者だった朱全忠が将軍に取り立てられる。彼は唐最後の皇帝を退位させ、自ら王朝を開いた。そして五代十国時代が到来し (中身はおよそ名前のとおりである)、960年頃までつづいた。その後の4世紀、5つの王朝が再び中国を統一した。順に宋朝、遼朝、金朝 (2度目)、西夏、そして元朝 (フビライ・ハンが万里の長城を越えてきた) である。いずれの王朝も人間の織りなす文明に技術的発展、哲学の追求、そして社会的な前進という形で貢献したが、最も想像力を惹きつけるのは明王朝だろう。

民衆の胸にはモンゴル人の支配に対する憤りがくすぶっていた。西暦1340年代に起きた飢饉と疫病の蔓延は人々の不満に火を付け、大規模な農民反乱のきっかけともなった。もはやフビライの子孫が天命から見放されつつあるのは明白だった。貧しい農民から反乱軍の指導者になった朱元璋 (今日では洪武帝と呼ばれている) は、大都 (現在の北京) を占領した後、1368年に明王朝の初代皇帝として即位した。朱元璋が皇帝に至る道程は長かった。伝説によれば彼は7人ないし8人兄弟の末子で、貧しかったために兄弟の何人かは売られたという。さらに黄河の氾濫が村を襲い、疫病によって家族をすべて失った後は、仏教の僧院 (皇覚寺) に身を寄せることで生き延びた。この僧院もゾロアスター教徒の反乱に対する報復としてモンゴル軍に破壊された。しかしその後、朱元璋は紅巾党の反乱に加わり、30歳になる頃にはそれを率いるまでになっていた。復讐は復讐を招くのである。

明王朝は中国に華やかな時代の到来を告げた。ひとたび玉座を得た洪武帝は数々の政策を打ち出した。彼は何よりもまず、前王朝で専横を享受していた宦官たちに対し、宮廷内での昇進や影響力を制限すべく動いた (明王朝が末期に味わった苦難の原因は、宦官の力が蘇り、事実上2つの政権に分かれてしまったことである)。社会秩序においては貴族、農民、職人、商人という4つの階級が定められ、それぞれに義務と権利が与えられた。後年の明皇帝は商人階級の活躍が王朝に更なる富と税をもたらすと考え、彼らの便益を増やした。モンゴル軍の脅威を再び退けた一方、朝鮮と日本との戦争では蓄えた富の多くを吐き出すことになり、さらに天災が再び襲ってきた。西暦1640年には大人数の農民が蜂起した。彼らは皆飢餓に苦しみ、税を納められず、そして度々打ち破られていた明軍を恐れていなかった。この反乱によって明王朝は滅び、混迷の果てに清王朝 (満州族による王朝) が成立した。

ヨーロッパ人の波紋が広がるまで、中国は順調だった。かのマルコ・ポーロや、時折来訪する商人、冒険家は、中国のいわば裏口から入国していたのだが、ポルトガル人のジョルジュ・アルヴァレスは1513年、海路から中国本土へ上陸した。彼らは明の皇帝を言いくるめてマカオをヨーロッパ人の「居留地」として認めさせ、1557年に最初の統治者を置いた。とはいえ、清の時代の中国の経済と統治は――賢明にも外国との無用な摩擦は避けていた――安定していた。高い識字率、政府が支援する出版産業、都市の拡張、平穏な内面の探求を重視した儒教の普及などが、芸術や哲学の分野における急速な発展に貢献した。また、書道、絵画、詩歌、演劇、料理といった伝統的な工芸も再興された。

しかし、よそ者は横やりを入れつづけてきた。19世紀前半になり、中国は己がヨーロッパ、明治時代の日本、そして帝政ロシアの前に無防備だと気づかされる。はるかに優れた海軍力や良質な兵器、通信技術、互いに戦争を繰り広げたことで研ぎ澄まされた戦術などにより、植民地政策をとる列強は、清を従わせて交易を掌握すると、思うままに振る舞おうとした。1842年、第一次アヘン戦争で中国はイギリス軍に敗れ、悪名高い南京条約 (多く結ばれた「不平等条約」の初期の1つ) に調印することを強いられた。通商条約のほとんどは不平等なもので、中国経済は1900年までに大きく傾いた。急速な近代化を果たし、植民地獲得競争に参加した日本は、中国から朝鮮と台湾の統治権を奪いとった。清が名目上の君主として残っていたにもかかわらず、ロシアを含むヨーロッパが領土のすべてを各々の独占的な勢力範囲に分割した。一方、アメリカは中国における門戸開放政策を一方的に宣言した。

もはや限界に達していた。1899年、一般大衆により義和団が結成され、中国を自国民の手に取り戻そうとする義和団の乱が巻き起こる。だが、残念ながら彼らは鎮圧された。1901年、中国にとって厳しい内容の平和条約が結ばれた。「八カ国連合」(義和団の攻撃を受けた国家から成る) は義和団を支援した清の官吏を残らず処刑し、外国軍の首都への駐留を規定、年間の税収を上回る巨額の賠償金を課した。清は拡大する内乱に翻弄された。西太后は民衆の訴えに応じ、各地の官吏へ改革案の提出を求めた。だが、広範で革新的な案が生まれ、それが実行に移されていたとしても、時すでに遅しだった。1908年11月に光緒帝が突如として崩御 (ヒ素中毒と思われる)、その翌日に西太后もまた崩御。暴動と反乱の結果、1912年に隆裕皇太后は幼き溥儀皇帝を説得して退位させ、2000年に渡る中国の帝政に幕を引いた。そして中国は新たな闘争と、残忍な軍閥に支配される時代へと移っていく。