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マケドニア

マプチェ

マヤ

マリ

モンゴル

ローマ

ロシア

韓国

大コロンビア

中国

日本

指導者

オランダ
固有能力

大河川地帯

川に接しているキャンパス、劇場広場、工業地帯に大規模な隣接ボーナス。港が完成すると、隣接するタイルで文化爆弾が発動する。ダム区域と防波堤の 生産力+50%。

歴史的背景
オランダは、その小さな国土を物ともせずに発展を遂げた国である。オランダ人の粘り強さと創意は、木靴やチューリップ、風車にオレンジ色だけにとどまらず、特色のある文化を生み出した。より広い土地が必要になれば、オランダは北海の波を押し返し、水の底だった土地を手に入れた。またこの国の誇る艦隊は、祖国の岸を遠く離れ、彼方の土地に遠征した。武力にも支えられながら、オランダは貿易によって帝国を築きあげたのだ。

西暦1世紀までに、ゲルマン系の諸部族がライン川を越えてこの地に移住してきた。後にオランダとなる地域に定住した人々は、この新天地にさして感銘を受けなかった。湿地は農耕に不向きなうえ、いささか臭かったからだ。しかし、川や湖の多い地形は、たいへん守りやすかった。ローマ人もそう考えたのだろう。彼らは辺境の国境地帯に2つの軍事基地 (ナイメーヘンとユトレヒト) を置いた。

しばらくの間、ゲルマン人たちはこの国境に満足していた。後にアムステルダムとなる土地で暮らしていた人々は、ローマ人とたびたび交易した。バタウィ族はローマ人に味方して戦うこともあったが、皇帝ネロの治世の末期に反乱を起こした。この反乱は鎮圧されて終わったが、これを端緒にその後も反抗の機運はつづいた。

ローマ帝国が衰退すると、低地地方ことネーデルラントを狙ってさまざまな勢力 (フランク人、フリース人、バイキングなどがその代表) が侵略してきた。特にフランク人はこの地に残る意志を固め、キリスト教を持ち込み、ナイメーヘンに宮殿を築いた。これは814年に (シャルルマーニュ大帝の死を受けて) フランク王国がいくつもの小国家へ分裂するまでつづいた。その後、独自の裁量権を得たオランダは、遠くアジアまで届く交易路を築いた。また、土壌の悪さと海面の上昇を克服すべく、湿地の干拓という遠大な取り組みに着手した。

1433年までに低地地方の支配権はブルゴーニュ公に渡っていた。交易 (増加の一途にあった人口を支えるために必要不可欠な要素だった) の流れは順調だったが、ブルゴーニュ公の課した税は不評だった。スペインのフェリペ2世がオランダを相続した1500年代後半、現地のオランダ人たちが抱える不満は限界に達する。この継承の後、気づけばオランダは80年にわたる凄惨な戦争に突入していた。このスペインに対する反乱を指揮したのは、オランダの貴族オラニエ公ウィレム1世だった。彼は1584年に暗殺されたが、独立を求める戦いの火が消えることはなかった。オランダは1648年まで戦い抜き、ミュンスター講和条約に調印した。独立国家オランダの誕生である。

せっかく大国から独立したのに、たちまち別の国に征服されてしまっては元も子もない。そうした事態を避けるため、オランダは決然として貿易帝国を拡大させていった。オランダ東インド会社の権益は、アメリカ大陸の東岸から遥か彼方の島国である日本 (この国については独占交易権を手に入れた) にまで及び、アムステルダムは交易と造船の中心として、不確実な時代にチャンスをつかめる都市となった。

交易による利潤によって、オランダは芸術や科学に投資できるようになった。絵画の巨匠レンブラントが素晴らしい作品を残したのは、この時代のことである。数学者にして科学者のクリスティアーン・ホイヘンスは、土星の衛星タイタンを発見し、光の波動説を唱えた。地図製作者ヨアン・ブラウは、17世紀当時としては最大の、そして最も完成度の高い地図を作成した。彼の『大アトラス』(『アトラス・ブラウ』とも呼ばれる) には、ラテン語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、オランダ語で書かれた594の地図が収められていた。

オランダの富の増大と、着実に存在感を高めていく艦隊に危機感を覚えたヨーロッパの国は少なくなかった。とりわけイギリスは、交易に関する規制を課し、イギリスが携わる取引においてオランダが「仲介人」のように振る舞うのをやめさせようとした。こうした動きに加え、イギリスが統一を求める主張 (苦労して独立を勝ち取ったオランダに対する事実上の解体要求) をするようになったことから、17世紀後半には数度にわたって英蘭戦争が発生した。この結果、イギリスはオランダの富と影響力、海軍力の飛躍的な増大を押し留めることには成功したが、戦火が静まった後もオランダは独立国の地位を保っていた。

オランダの人々にとって不幸なことに、ナポレオン・ボナパルト率いる帝政フランスは、国境を接する独立国の存在を快く思わなかった。18世紀末、ナポレオンは低地地方を制圧し、弟ルイを国王の座につけた。このルイ国王は、オランダの臣民から驚くほどの敬意を集めたが、その政策に不満を持ったナポレオンは弟と仲違いし、わずか4年後に彼を退位させる。その後も帝政フランスに従ったオランダは、フランスの戦争に参戦し、フランスの政策に従ったが、1813年に (にわかには信じがたいが) 血を流すことなく独立を取り戻した。新たに誕生した「オランダ王国」は、ベルギーとルクセンブルクも一時期その領土としていた。ただし、ベルギーは反乱を起こして1830年に独立。ルクセンブルクも、19世紀の終わりごろ、相続法に絡んだ騒動でオランダとの同君連合を解消した (もっとも、この顛末はとくに興味深いものではない)。

オランダは中立の立場を確立してこれを守り、自国の安全の確保と経済成長、そして内政に専念した。おかげで第一次世界大戦では比較的浅い傷を負うだけで済んだが、第二次世界大戦では傍観者でいられなかった。王家とオランダ政府は、ドイツ軍の侵攻を逃れるためにロンドンへ亡命。女王ウィルヘルミナはドイツによるオランダ支配に果敢に抵抗し、祖国に残る国民 (そして戦意旺盛なオランダのレジスタンス) の士気を高めた。オランダは4年にわたる占領に耐え、最後には連合国軍による祖国解放を支援した。その後大戦が終結すると、オランダは多大な労苦が待ち構える国土の再建に着手したのだった。

現在のオランダは、戦後のヨーロッパにおいて重要な地位を占めている。国際的な司法機関の所在地であると同時に商業の重要な拠点であるだけでなく、この国は個人に大きな自由を認めていることで知られているが、これは社会的寛容の歴史を反映したものに他ならない。オランダは食料の純輸出国であり、土地の干拓と開発について最先端を行く存在でもある。実際、注目に値するいくつかの土木計画が、この国を舞台として進められている。北極と南極の氷が溶けることによる海面上昇が騒がれているが、オランダは不屈の精神、創意工夫、そして皮肉交じりのユーモアをもって不確かな未来と向き合っている。迫り来る海を押し返すことにかけては、千年にわたって粘り強く取り組んできたオランダ人に勝る者はいないのである。
PortraitSquare
icon_civilization_netherlands

特性

指導者
icon_leader_wilhelmina
ウィルヘルミナ
特殊ユニット
icon_unit_de_zeven_provincien
デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン
特殊インフラ
icon_improvement_polder
ポルダー

地形&社会データ

所在地
西ヨーロッパ
面積
約4万平方キロメートル
人口
2017年の推計で1711万6281人
首都
アムステルダム
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特性

指導者
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ウィルヘルミナ
特殊ユニット
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デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン
特殊インフラ
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ポルダー

地形&社会データ

所在地
西ヨーロッパ
面積
約4万平方キロメートル
人口
2017年の推計で1711万6281人
首都
アムステルダム
固有能力

大河川地帯

川に接しているキャンパス、劇場広場、工業地帯に大規模な隣接ボーナス。港が完成すると、隣接するタイルで文化爆弾が発動する。ダム区域と防波堤の 生産力+50%。

歴史的背景
オランダは、その小さな国土を物ともせずに発展を遂げた国である。オランダ人の粘り強さと創意は、木靴やチューリップ、風車にオレンジ色だけにとどまらず、特色のある文化を生み出した。より広い土地が必要になれば、オランダは北海の波を押し返し、水の底だった土地を手に入れた。またこの国の誇る艦隊は、祖国の岸を遠く離れ、彼方の土地に遠征した。武力にも支えられながら、オランダは貿易によって帝国を築きあげたのだ。

西暦1世紀までに、ゲルマン系の諸部族がライン川を越えてこの地に移住してきた。後にオランダとなる地域に定住した人々は、この新天地にさして感銘を受けなかった。湿地は農耕に不向きなうえ、いささか臭かったからだ。しかし、川や湖の多い地形は、たいへん守りやすかった。ローマ人もそう考えたのだろう。彼らは辺境の国境地帯に2つの軍事基地 (ナイメーヘンとユトレヒト) を置いた。

しばらくの間、ゲルマン人たちはこの国境に満足していた。後にアムステルダムとなる土地で暮らしていた人々は、ローマ人とたびたび交易した。バタウィ族はローマ人に味方して戦うこともあったが、皇帝ネロの治世の末期に反乱を起こした。この反乱は鎮圧されて終わったが、これを端緒にその後も反抗の機運はつづいた。

ローマ帝国が衰退すると、低地地方ことネーデルラントを狙ってさまざまな勢力 (フランク人、フリース人、バイキングなどがその代表) が侵略してきた。特にフランク人はこの地に残る意志を固め、キリスト教を持ち込み、ナイメーヘンに宮殿を築いた。これは814年に (シャルルマーニュ大帝の死を受けて) フランク王国がいくつもの小国家へ分裂するまでつづいた。その後、独自の裁量権を得たオランダは、遠くアジアまで届く交易路を築いた。また、土壌の悪さと海面の上昇を克服すべく、湿地の干拓という遠大な取り組みに着手した。

1433年までに低地地方の支配権はブルゴーニュ公に渡っていた。交易 (増加の一途にあった人口を支えるために必要不可欠な要素だった) の流れは順調だったが、ブルゴーニュ公の課した税は不評だった。スペインのフェリペ2世がオランダを相続した1500年代後半、現地のオランダ人たちが抱える不満は限界に達する。この継承の後、気づけばオランダは80年にわたる凄惨な戦争に突入していた。このスペインに対する反乱を指揮したのは、オランダの貴族オラニエ公ウィレム1世だった。彼は1584年に暗殺されたが、独立を求める戦いの火が消えることはなかった。オランダは1648年まで戦い抜き、ミュンスター講和条約に調印した。独立国家オランダの誕生である。

せっかく大国から独立したのに、たちまち別の国に征服されてしまっては元も子もない。そうした事態を避けるため、オランダは決然として貿易帝国を拡大させていった。オランダ東インド会社の権益は、アメリカ大陸の東岸から遥か彼方の島国である日本 (この国については独占交易権を手に入れた) にまで及び、アムステルダムは交易と造船の中心として、不確実な時代にチャンスをつかめる都市となった。

交易による利潤によって、オランダは芸術や科学に投資できるようになった。絵画の巨匠レンブラントが素晴らしい作品を残したのは、この時代のことである。数学者にして科学者のクリスティアーン・ホイヘンスは、土星の衛星タイタンを発見し、光の波動説を唱えた。地図製作者ヨアン・ブラウは、17世紀当時としては最大の、そして最も完成度の高い地図を作成した。彼の『大アトラス』(『アトラス・ブラウ』とも呼ばれる) には、ラテン語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、オランダ語で書かれた594の地図が収められていた。

オランダの富の増大と、着実に存在感を高めていく艦隊に危機感を覚えたヨーロッパの国は少なくなかった。とりわけイギリスは、交易に関する規制を課し、イギリスが携わる取引においてオランダが「仲介人」のように振る舞うのをやめさせようとした。こうした動きに加え、イギリスが統一を求める主張 (苦労して独立を勝ち取ったオランダに対する事実上の解体要求) をするようになったことから、17世紀後半には数度にわたって英蘭戦争が発生した。この結果、イギリスはオランダの富と影響力、海軍力の飛躍的な増大を押し留めることには成功したが、戦火が静まった後もオランダは独立国の地位を保っていた。

オランダの人々にとって不幸なことに、ナポレオン・ボナパルト率いる帝政フランスは、国境を接する独立国の存在を快く思わなかった。18世紀末、ナポレオンは低地地方を制圧し、弟ルイを国王の座につけた。このルイ国王は、オランダの臣民から驚くほどの敬意を集めたが、その政策に不満を持ったナポレオンは弟と仲違いし、わずか4年後に彼を退位させる。その後も帝政フランスに従ったオランダは、フランスの戦争に参戦し、フランスの政策に従ったが、1813年に (にわかには信じがたいが) 血を流すことなく独立を取り戻した。新たに誕生した「オランダ王国」は、ベルギーとルクセンブルクも一時期その領土としていた。ただし、ベルギーは反乱を起こして1830年に独立。ルクセンブルクも、19世紀の終わりごろ、相続法に絡んだ騒動でオランダとの同君連合を解消した (もっとも、この顛末はとくに興味深いものではない)。

オランダは中立の立場を確立してこれを守り、自国の安全の確保と経済成長、そして内政に専念した。おかげで第一次世界大戦では比較的浅い傷を負うだけで済んだが、第二次世界大戦では傍観者でいられなかった。王家とオランダ政府は、ドイツ軍の侵攻を逃れるためにロンドンへ亡命。女王ウィルヘルミナはドイツによるオランダ支配に果敢に抵抗し、祖国に残る国民 (そして戦意旺盛なオランダのレジスタンス) の士気を高めた。オランダは4年にわたる占領に耐え、最後には連合国軍による祖国解放を支援した。その後大戦が終結すると、オランダは多大な労苦が待ち構える国土の再建に着手したのだった。

現在のオランダは、戦後のヨーロッパにおいて重要な地位を占めている。国際的な司法機関の所在地であると同時に商業の重要な拠点であるだけでなく、この国は個人に大きな自由を認めていることで知られているが、これは社会的寛容の歴史を反映したものに他ならない。オランダは食料の純輸出国であり、土地の干拓と開発について最先端を行く存在でもある。実際、注目に値するいくつかの土木計画が、この国を舞台として進められている。北極と南極の氷が溶けることによる海面上昇が騒がれているが、オランダは不屈の精神、創意工夫、そして皮肉交じりのユーモアをもって不確かな未来と向き合っている。迫り来る海を押し返すことにかけては、千年にわたって粘り強く取り組んできたオランダ人に勝る者はいないのである。
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