コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
日本
固有能力

明治維新

別の区域に隣接している区域は通常の隣接ボーナスを追加できる。

歴史的背景
長く閉鎖的な島国として守りを固めていた日本は、最近150年の間に世界有数の工業力と、経済・文化の面で最も影響力をもつ文明の1つとなった。江戸時代の侍は歌舞伎や浮世絵、国内政治に明け暮れていたが、100年後の日本は芸術家、建築家、ファッションデザイナー、サラリーマンを世界の桧舞台に送り出した。古くからの伝統である「和」の精神(英語では「ハーモニー (調和)」と訳される) は、良きにつけ悪しきにつけ、進歩と利益にとって代わられた。

日本で初めて記述された書物である『古事記』 (紀元前712年頃) には、原初の5代の神の後に生まれたイザナギとイザナミの兄妹神が、434の日本の島々を創りだしたと記されている。巨大な矛で海をかきまぜると、槍から垂れた水滴が陸地となり、兄妹はそこに住まい、他の多くのカミ (神、霊的存在) を生んだという。現実はこの物語よりももう少し散文的だった。日本列島が大陸から切り離される4万年前、人々は地峡を渡り、約2万9千年後にアジアから切り離された。紀元前660年にはすでに文明が存在し、太陽の女神天照の子孫とされる天皇も存在していたようである。

日本の「有史時代」は3世紀頃からはじまるが、それ以前の西暦57年の後漢時代の書物にも、捉えどころのない記述が残っている。この「古墳時代」に日本では複数の軍事的な氏族が興った。中でも本州の南中央部にいたヤマトが支配的となったが、その過程で多くの血が流れたことは間違いない。他氏族をすべて屈服させたヤマトは、自らを統一された日本列島の帝であると宣言した。しかし続く2世紀にヤマトの権勢は次第に衰え、朝廷の権力は野心的な豪族 (当時の日本における「領主」) によって徐々に侵食されていった。

ヤマト政権初期の数世紀の間に日本の農民は鉄製の農具を使うようになっていった。鉄製の農具のおかげで農耕が発達し、米を栽培する田が大きく広がった。米は味が良く、栄養価も高かったため、すぐに日本食に欠かせない食材となった。この農地拡大によって少ない人数で非常に多くの食料生産が可能になったため、豪族は余った労働力を軍事に注ぎ込めるようになった。こうして、「傍で仕えるもの」を意味する侍という新たな階級が日本社会に生まれた。あらゆる封建領主が私兵を抱えるようにるのに時間はかからなかった。また、この時期に日本は隣国から当時の先端技術をいくつも取り入れたが、中でも重要なのは中国から伝わった筆記だろう。筆記ともに宗教 (儒教) が入り、6世紀には仏教も伝来した。

初期の将軍は、天皇から任命される官職の1つで、正式には征夷大将軍 (「蛮族遠征軍の総司令官」) といった。征夷大将軍の役割は、蝦夷 (えみし) やアイヌなど、天皇の支配を頑なに拒む勢力を平定することだった。やがてこの称号は世襲となり、将軍は単なる軍事的指導者ではなく帝すら凌ぐ実質的統治者として認識されるようになる。当然、将軍の地位を巡って内紛が多発した。西暦1185年、源平の合戦において源氏は当時将軍家だった平氏をほぼ完全に滅ぼした。源氏はすぐさま法を定めて封建制度を確立し、天皇を表舞台から引き下がらせて単に崇められるだけの名目上の支配者にした。

源頼朝が没すると、その妻の一族である北条氏が幕府を支配した。北条氏について特筆すべきは、時宗の時代にモンゴルの侵略を2度撃退し、禅宗を広め、「武士道」を完成に至らしめるのに貢献したことだろう。モンゴルの侵略は、日本の歴史にとって2つの極めて重要な意味を持つ。まず、従来の刀ではモンゴル軍の鎧 (茹でて硬化させた分厚い革でできていた) の前に折れてしまいがちだったため、その心配を払拭するために刀工の手によって名高い「日本刀」が生み出されたこと。そして、このモンゴルによる侵略は、侍が本土の同胞以外と戦ったわずか3度の機会のうちの最初のものだったということだ (他の2回は1592年の朝鮮出兵と1609年の琉球征服)。そう、侍はもっぱら同国人同士で斬り合っていたのである。

その後も北条氏は権力を保ったが、1333年、後醍醐天皇が実質的な支配権を皇族に取り戻そうと反乱を起こした。倒幕には貴族に加え、武士、そして僧兵の協力を得ていた。しかし後醍醐天皇に味方した主要勢力は、獲得した利益の配分に不満を抱き、1336年に反旗を翻して天皇を北の吉野山へ追いやった。その後の60年間は、北朝と南朝の2つの朝廷が存在し、日本の統治は二分された。名目上は南朝の天皇の統治が続いていたが、実権を握っていたのは足利幕府だった。1391年、朝廷が再統一され、将軍足利尊氏が権力の座に就いた。

ここから日本は「戦国」として知られる時代に突入する。この150年間は、社会的な大変動、暗殺を含む政治的陰謀、大名同士の軍勢によるほぼ絶え間ない軍事衝突に彩られている。しかし、そんな時代にも花開いた文化はあった。この時代に築かれた壮麗な城は芸術の域に達し (現存するものもある)、兵士は多様な武器に熟練した。ヨーロッパの貿易商が銃をもたらした後は、マスケット銃の扱いもそこに加わった。戦国時代は忍者が活躍した時代でもある。やがて、才気あふれる織田信長の下、天下統一はほぼ成し遂げられたが、信長は不幸にも1582年に最も信頼していた部下に裏切られ、志なかばにしてこの世を去る。その後も多くの血が流されたが、ついに1603年、信長と国境を接していた大名であり盟友でもあった徳川家康 (最も有名な侍の1人) が将軍の座に就いた。

こうした時代にヨーロッパ人も日本にやって来ていた。まず1543年、中国へ向かっていたポルトガル船が種子島に漂着した。その後の数年間で、ポルトガル、スペイン、さらにオランダとイギリスの貿易商が日本に立ち寄り、イエズス会、ドミニコ会、フランシスコ会の宣教師たちが布教に努めた。だが新たな将軍は、貿易のために築かれた居留地や教会は、実のところヨーロッパ人による侵略の前触れではないかという疑念にかられていた。実際、キリスト教は急速に広まり、虐げられてきた農民の間で特に流行していた。1637年、約3万人のキリスト教信者 (ほとんどが百姓) と浪人 (君主をもたない侍) が起こした島原の乱は、将軍が派遣した大軍によって鎮圧された。

将軍の施策は徹底的だった。島原の乱の後、徳川家光の下でいわゆる鎖国 (隔離法) が開始され、後継者によってつづく250年の間に強化された。長崎の出島から出ることを禁じられたわずかのオランダ人と中国人を除き、宣教師や貿易商をはじめとするあらゆる外国人が追放され、朝鮮との交易は対馬に限定された。入国しようとする外国人も出国しようとする日本人も、ただちに死刑に処された。カトリック教徒は追放され、カトリックの学校や教会は取り壊された。大名の改宗も禁じられ、違反した者にはやはり死刑が待っていた (日本における標準的な刑罰である)。

鎖国政策のおかげかどうかはわからないが、250年以上にわたる江戸時代に日本は社会と文化の最盛期を迎えた。また江戸時代は比較的安定した平和な時代でもあった (たとえ刀の切っ先を突きつけての強制的な平和だろうが)。浮世絵、歌舞伎、そして文楽は見事な作品を生み出し、琴や尺八の最も有名な曲もこの時代に作られた。芸者は単なる芸人 (あらゆる意味で) から、洗練された女性らしさの極みへと進化を遂げた。侍が芸術を後援したことで、全国に優雅な景観や建築が広がった。社会構造は厳格なものとなり、その体制下では人口の約85%を占めた最下層の百姓から250の大名まで、各々が身分と責任を受け持った。身分を逸脱したことに対する罰は厳しく、また即座に行われるものが多かった。茶を飲むことから自害まで、あらゆることが厳格に儀式化されていた。

日本が平穏だったのは、1853年にアメリカのマシュー・ペリー提督が訪れるまでのことだった。ペリーは4隻の近代的な軍艦の砲撃準備を整えて江戸湾を航行し、開国して西洋と規制のない貿易をおこなうことを日本に要求した。翌年ペリーは7隻の艦隊を引き連れて再び来訪し、武力を背景にして将軍に日米和親条約を結ばせた。それから5年以内に、日本はほとんどの西洋諸国と同様の条約を結ぶ「喜び」を味わった。今まで犯されることのなかった門戸を外国の軍に踏み荒らされ、火力によって圧倒された恥辱の中で徳川幕府は倒れ、実質的な権力は天皇のもとへ戻ることとなった。

1867年に即位した精力的で若い明治天皇は、国の上から下まで飲み込む抜本的な改革の時代を開始した。その目的は、日本の近海を航行していた軍艦の所有者である欧米諸国に匹敵する軍事力と経済力を獲得することにあった。1912年までに政府は封建制度を廃止し、ほとんどの大名の領地を「天皇の統治」下に置き、その大半を百姓に与えた。また、信仰の自由を定め、貿易を推進し、武士階級を実質的に廃止した。より実際的な面では、殖産興業を奨励し、ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制を確立した。そして1873年、日本は全国的に徴兵制を敷き、日本帝国陸軍および海軍を創設した。

その改革は非常に効率的で、日本はアジアの大国として急速に頭角を現した。やがて、これも西洋を真似、植民地帝国の建設にとりかかった。1894年、日本は朝鮮の支配権をめぐって瀕死の中国と対立した。日本はやすやすと勝利を収め、朝鮮、台湾、澎湖諸島、遼東半島の「独立」を獲得した。しかし列強諸国は遼東半島を中国に返還させ、中国はそれをすぐにロシアへ貸与した。日本は激怒し、その結果とした1904に勃発した日露戦争は、日本には「西洋」の列強を叩きのめす力があることを証明する機会となった。第一次世界大戦では、日本は敗北したドイツが太平洋とアジアに所有していた領土を獲得するチャンスを得た。次に日本は中国を少しずつ侵食しはじめ、満州に進出してほぼすべての国を驚愕させた。しかし、世界恐慌とブロック経済は、全体主義的な軍国主義による政権掌握に拍車をかけることになる。1930年代終盤、欧米の民主主義国家と日本帝国の衝突はもはや避けられない情勢になっていた。

中国でおこなわれた残虐行為、フランスのナチスドイツへの完敗に便乗したインドシナ進駐、満州でのソ連との衝突が報じられたのにともない、アメリカでは民衆の反日感情が高まっていった。それから間もない1941年、日本はアメリカと大英帝国に宣戦を布告。第二次世界大戦に参戦した。だが、最初こそ驚異的な成功を収めたものの、その後日本は総崩れとなり、敗色が濃厚となった1945年8月、原爆によってとどめを刺された。しかし、アメリカの占領下、日本はフェニックス (日本風に言えば「鳳凰」か) のごとく蘇り、世界有数の経済力、技術力、文化力を有するに至った。
PortraitSquare
icon_civilization_japan

特性

指導者
特殊ユニット
特殊インフラ

地形&社会データ

所在地
アジア
面積
推定37万8000平方キロメートル
人口
1億2640万人 (最新)
首都
さまざま (京都までは列挙しきれず。現在は東京)
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特性

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特殊ユニット
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地形&社会データ

所在地
アジア
面積
推定37万8000平方キロメートル
人口
1億2640万人 (最新)
首都
さまざま (京都までは列挙しきれず。現在は東京)
固有能力

明治維新

別の区域に隣接している区域は通常の隣接ボーナスを追加できる。

歴史的背景
長く閉鎖的な島国として守りを固めていた日本は、最近150年の間に世界有数の工業力と、経済・文化の面で最も影響力をもつ文明の1つとなった。江戸時代の侍は歌舞伎や浮世絵、国内政治に明け暮れていたが、100年後の日本は芸術家、建築家、ファッションデザイナー、サラリーマンを世界の桧舞台に送り出した。古くからの伝統である「和」の精神(英語では「ハーモニー (調和)」と訳される) は、良きにつけ悪しきにつけ、進歩と利益にとって代わられた。

日本で初めて記述された書物である『古事記』 (紀元前712年頃) には、原初の5代の神の後に生まれたイザナギとイザナミの兄妹神が、434の日本の島々を創りだしたと記されている。巨大な矛で海をかきまぜると、槍から垂れた水滴が陸地となり、兄妹はそこに住まい、他の多くのカミ (神、霊的存在) を生んだという。現実はこの物語よりももう少し散文的だった。日本列島が大陸から切り離される4万年前、人々は地峡を渡り、約2万9千年後にアジアから切り離された。紀元前660年にはすでに文明が存在し、太陽の女神天照の子孫とされる天皇も存在していたようである。

日本の「有史時代」は3世紀頃からはじまるが、それ以前の西暦57年の後漢時代の書物にも、捉えどころのない記述が残っている。この「古墳時代」に日本では複数の軍事的な氏族が興った。中でも本州の南中央部にいたヤマトが支配的となったが、その過程で多くの血が流れたことは間違いない。他氏族をすべて屈服させたヤマトは、自らを統一された日本列島の帝であると宣言した。しかし続く2世紀にヤマトの権勢は次第に衰え、朝廷の権力は野心的な豪族 (当時の日本における「領主」) によって徐々に侵食されていった。

ヤマト政権初期の数世紀の間に日本の農民は鉄製の農具を使うようになっていった。鉄製の農具のおかげで農耕が発達し、米を栽培する田が大きく広がった。米は味が良く、栄養価も高かったため、すぐに日本食に欠かせない食材となった。この農地拡大によって少ない人数で非常に多くの食料生産が可能になったため、豪族は余った労働力を軍事に注ぎ込めるようになった。こうして、「傍で仕えるもの」を意味する侍という新たな階級が日本社会に生まれた。あらゆる封建領主が私兵を抱えるようにるのに時間はかからなかった。また、この時期に日本は隣国から当時の先端技術をいくつも取り入れたが、中でも重要なのは中国から伝わった筆記だろう。筆記ともに宗教 (儒教) が入り、6世紀には仏教も伝来した。

初期の将軍は、天皇から任命される官職の1つで、正式には征夷大将軍 (「蛮族遠征軍の総司令官」) といった。征夷大将軍の役割は、蝦夷 (えみし) やアイヌなど、天皇の支配を頑なに拒む勢力を平定することだった。やがてこの称号は世襲となり、将軍は単なる軍事的指導者ではなく帝すら凌ぐ実質的統治者として認識されるようになる。当然、将軍の地位を巡って内紛が多発した。西暦1185年、源平の合戦において源氏は当時将軍家だった平氏をほぼ完全に滅ぼした。源氏はすぐさま法を定めて封建制度を確立し、天皇を表舞台から引き下がらせて単に崇められるだけの名目上の支配者にした。

源頼朝が没すると、その妻の一族である北条氏が幕府を支配した。北条氏について特筆すべきは、時宗の時代にモンゴルの侵略を2度撃退し、禅宗を広め、「武士道」を完成に至らしめるのに貢献したことだろう。モンゴルの侵略は、日本の歴史にとって2つの極めて重要な意味を持つ。まず、従来の刀ではモンゴル軍の鎧 (茹でて硬化させた分厚い革でできていた) の前に折れてしまいがちだったため、その心配を払拭するために刀工の手によって名高い「日本刀」が生み出されたこと。そして、このモンゴルによる侵略は、侍が本土の同胞以外と戦ったわずか3度の機会のうちの最初のものだったということだ (他の2回は1592年の朝鮮出兵と1609年の琉球征服)。そう、侍はもっぱら同国人同士で斬り合っていたのである。

その後も北条氏は権力を保ったが、1333年、後醍醐天皇が実質的な支配権を皇族に取り戻そうと反乱を起こした。倒幕には貴族に加え、武士、そして僧兵の協力を得ていた。しかし後醍醐天皇に味方した主要勢力は、獲得した利益の配分に不満を抱き、1336年に反旗を翻して天皇を北の吉野山へ追いやった。その後の60年間は、北朝と南朝の2つの朝廷が存在し、日本の統治は二分された。名目上は南朝の天皇の統治が続いていたが、実権を握っていたのは足利幕府だった。1391年、朝廷が再統一され、将軍足利尊氏が権力の座に就いた。

ここから日本は「戦国」として知られる時代に突入する。この150年間は、社会的な大変動、暗殺を含む政治的陰謀、大名同士の軍勢によるほぼ絶え間ない軍事衝突に彩られている。しかし、そんな時代にも花開いた文化はあった。この時代に築かれた壮麗な城は芸術の域に達し (現存するものもある)、兵士は多様な武器に熟練した。ヨーロッパの貿易商が銃をもたらした後は、マスケット銃の扱いもそこに加わった。戦国時代は忍者が活躍した時代でもある。やがて、才気あふれる織田信長の下、天下統一はほぼ成し遂げられたが、信長は不幸にも1582年に最も信頼していた部下に裏切られ、志なかばにしてこの世を去る。その後も多くの血が流されたが、ついに1603年、信長と国境を接していた大名であり盟友でもあった徳川家康 (最も有名な侍の1人) が将軍の座に就いた。

こうした時代にヨーロッパ人も日本にやって来ていた。まず1543年、中国へ向かっていたポルトガル船が種子島に漂着した。その後の数年間で、ポルトガル、スペイン、さらにオランダとイギリスの貿易商が日本に立ち寄り、イエズス会、ドミニコ会、フランシスコ会の宣教師たちが布教に努めた。だが新たな将軍は、貿易のために築かれた居留地や教会は、実のところヨーロッパ人による侵略の前触れではないかという疑念にかられていた。実際、キリスト教は急速に広まり、虐げられてきた農民の間で特に流行していた。1637年、約3万人のキリスト教信者 (ほとんどが百姓) と浪人 (君主をもたない侍) が起こした島原の乱は、将軍が派遣した大軍によって鎮圧された。

将軍の施策は徹底的だった。島原の乱の後、徳川家光の下でいわゆる鎖国 (隔離法) が開始され、後継者によってつづく250年の間に強化された。長崎の出島から出ることを禁じられたわずかのオランダ人と中国人を除き、宣教師や貿易商をはじめとするあらゆる外国人が追放され、朝鮮との交易は対馬に限定された。入国しようとする外国人も出国しようとする日本人も、ただちに死刑に処された。カトリック教徒は追放され、カトリックの学校や教会は取り壊された。大名の改宗も禁じられ、違反した者にはやはり死刑が待っていた (日本における標準的な刑罰である)。

鎖国政策のおかげかどうかはわからないが、250年以上にわたる江戸時代に日本は社会と文化の最盛期を迎えた。また江戸時代は比較的安定した平和な時代でもあった (たとえ刀の切っ先を突きつけての強制的な平和だろうが)。浮世絵、歌舞伎、そして文楽は見事な作品を生み出し、琴や尺八の最も有名な曲もこの時代に作られた。芸者は単なる芸人 (あらゆる意味で) から、洗練された女性らしさの極みへと進化を遂げた。侍が芸術を後援したことで、全国に優雅な景観や建築が広がった。社会構造は厳格なものとなり、その体制下では人口の約85%を占めた最下層の百姓から250の大名まで、各々が身分と責任を受け持った。身分を逸脱したことに対する罰は厳しく、また即座に行われるものが多かった。茶を飲むことから自害まで、あらゆることが厳格に儀式化されていた。

日本が平穏だったのは、1853年にアメリカのマシュー・ペリー提督が訪れるまでのことだった。ペリーは4隻の近代的な軍艦の砲撃準備を整えて江戸湾を航行し、開国して西洋と規制のない貿易をおこなうことを日本に要求した。翌年ペリーは7隻の艦隊を引き連れて再び来訪し、武力を背景にして将軍に日米和親条約を結ばせた。それから5年以内に、日本はほとんどの西洋諸国と同様の条約を結ぶ「喜び」を味わった。今まで犯されることのなかった門戸を外国の軍に踏み荒らされ、火力によって圧倒された恥辱の中で徳川幕府は倒れ、実質的な権力は天皇のもとへ戻ることとなった。

1867年に即位した精力的で若い明治天皇は、国の上から下まで飲み込む抜本的な改革の時代を開始した。その目的は、日本の近海を航行していた軍艦の所有者である欧米諸国に匹敵する軍事力と経済力を獲得することにあった。1912年までに政府は封建制度を廃止し、ほとんどの大名の領地を「天皇の統治」下に置き、その大半を百姓に与えた。また、信仰の自由を定め、貿易を推進し、武士階級を実質的に廃止した。より実際的な面では、殖産興業を奨励し、ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制を確立した。そして1873年、日本は全国的に徴兵制を敷き、日本帝国陸軍および海軍を創設した。

その改革は非常に効率的で、日本はアジアの大国として急速に頭角を現した。やがて、これも西洋を真似、植民地帝国の建設にとりかかった。1894年、日本は朝鮮の支配権をめぐって瀕死の中国と対立した。日本はやすやすと勝利を収め、朝鮮、台湾、澎湖諸島、遼東半島の「独立」を獲得した。しかし列強諸国は遼東半島を中国に返還させ、中国はそれをすぐにロシアへ貸与した。日本は激怒し、その結果とした1904に勃発した日露戦争は、日本には「西洋」の列強を叩きのめす力があることを証明する機会となった。第一次世界大戦では、日本は敗北したドイツが太平洋とアジアに所有していた領土を獲得するチャンスを得た。次に日本は中国を少しずつ侵食しはじめ、満州に進出してほぼすべての国を驚愕させた。しかし、世界恐慌とブロック経済は、全体主義的な軍国主義による政権掌握に拍車をかけることになる。1930年代終盤、欧米の民主主義国家と日本帝国の衝突はもはや避けられない情勢になっていた。

中国でおこなわれた残虐行為、フランスのナチスドイツへの完敗に便乗したインドシナ進駐、満州でのソ連との衝突が報じられたのにともない、アメリカでは民衆の反日感情が高まっていった。それから間もない1941年、日本はアメリカと大英帝国に宣戦を布告。第二次世界大戦に参戦した。だが、最初こそ驚異的な成功を収めたものの、その後日本は総崩れとなり、敗色が濃厚となった1945年8月、原爆によってとどめを刺された。しかし、アメリカの占領下、日本はフェニックス (日本風に言えば「鳳凰」か) のごとく蘇り、世界有数の経済力、技術力、文化力を有するに至った。