コンセプト
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ユニットのレベルアップ
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文明

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アステカ

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アラビア

イギリス

インカ

インド

インドネシア

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エチオピア

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スコットランド

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ズールー

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ヌビア

ノルウェー

バビロン

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ビザンティン

フェニキア

ブラジル

フランス

ベトナム

ペルシア

ポルトガル

ポーランド

マオリ

マケドニア

マプチェ

マヤ

マリ

モンゴル

ローマ

ロシア

韓国

大コロンビア

中国

日本

指導者

クリー
固有能力

ニヒトウ

陶磁器の技術を得ると 交易路の数+1。交易商を無償で1つ得る。クリーの都市から3タイル以内の誰にも支配されていないタイルは、交易商が最初に入るとクリーのものになる。

歴史的背景
現在のクリー族は、カナダ最大の先住民族である (イヌイットは除く)。ただし「クリー」は英語名であり、彼ら自身は「ネヒラウェ」と名乗っている。伝統的に彼らは、現在のアルバータ州、サスカチュワン州、マニトバ州、オンタリオ州の亜寒帯と平原地域、そしてハドソン湾南西岸からケベック州の一部に食い込む一帯を主な勢力圏にしてきた。居住地域や方言によって幾つかの子集団に分かれ、独立した数多くの部族で構成されているほか、アルゴンキン系言語を話す他の人々の流入も見られるが、クリー族と他の先住民族の結びつきは緊密で、彼らが昔から外来者に対して寛容な姿勢を示してきたこともあり、他の部族や外来者からの血も多く入りこんでいる。

クリー族の文化で大きな特徴を成しているのが、個人と集団の関係である。柔軟性と外来者を歓迎する風土が、民族としてのクリー族最大の強さといえるだろう。その歴史の大部分において、クリー族は家族を中心とする小さな集団をその構成単位としていた。男に期待されるのは狩りに出て部族を守ることであり、女はキャンプを築いて物資を管理するという重要な役割を担った。各個人は、部族に新しく加わってその部族に貢献することも、部族を去って別の部族に加わる道を選ぶこともできた。外来者も、結婚や養子という形である集団への仲間入りを果たすことが可能だった。こうしたことでクリー諸族の関係は強化され、同様に他の先住民族やメティ (カナダ先住民とヨーロッパ人の混血)、ヨーロッパ人と関係を結ぶこともあった。

こうした集団の統率権は、厳格な血筋よりも個人の資質に大きく依存していた (たとえば、首長の息子だからといって必ずしも父の後を継げるとは限らなかった)。首長には肉体的な勇猛さだけでなく、政治的に明達で、柔軟な思考を持ち、弁舌巧みであることも求められたのである。また、贈り物や問題の仲裁などを通じて、集団の内外で寛容さを示すことも求められ、意思決定においてはあらゆる方面からの忠告に耳を傾けねばならなかった。戦士たちや踊り子の集団は、次世代の有望な指導者たちに対して、戦いや政治の場で、自らの資質を示す機会を提供した。

このように、統一的な指導者がいなかった彼らを、「クリー族」という単一の集団として語るのには無理がある。とりわけ問題だったのは、西洋諸国の政府と交渉する必要があった場合だ。話し合いを求める者もいれば、戦いを主張する者もいるといった具合で、指導者ごとにその態度はバラバラだったが、クリー族の一員という表面上の立場は皆共通だったからである。

アメリカ先住民の多くと同様、クリー族は歴史の継承を口伝に頼っていた。創生神話の豊かな蓄積も例外ではなく、部族によって内容が異なることも珍しくない。そうした物語のひとつによれば、人々の祖先はかつて雲の上にいた。あるとき彼らは、青々とした緑豊かな下界を眺め、大小の川に縁取られたその土地に住みたいと考えた。彼らは偉大な精霊に、自分たちを下界に下ろしてほしいと頼んだ。すると精霊は雲で巨大な器を作り、人々をそこに入らせて下界に下ろした。しかし器は途中で木に引っかかってしまう。動物たちが次々と通り過ぎたが、誰も助けてくれない。だがそこに漁師が現れた。漁師は木に登り、人々を下ろしてくれた。

ヨーロッパ側の記録に初めてクリー族が現れるのは、17世紀初頭にヘンリー・ハドソンがジェームズ湾とハドソン湾を調査した際の報告書においてである。このあと間もなく、ヨーロッパとクリー族の間で毛皮の交易が本格的に始まった。この交易はクリー族を根本的に変化させた。いや、彼らだけではない。北米の文化と経済が根本から一変したのである。

当時のクリー族は、主にハドソン湾周辺地域で暮らしていた。現在のオンタリオ州とケベック州の南にあたる場所である。彼らは罠師として、そして交易商として毛皮交易に関わり、ヨーロッパからもたらされた品と毛皮を交換した。クリー族の諸部族は、メティやヨーロッパ人と強固な関係を築くことに成功し、それを交易に活かした。クリー族同士で西洋の品を取引することもしばしばあった。

最終的にクリー族は、ソートー族とアシニボイン族と語らい、軍事と政治の両面にわたる同盟を結成した。これは「鉄の同盟」と呼ばれ、中央カナダにおける一大勢力として、150年にわたって存続した。同盟の基盤となっていたのは、ヨーロッパの毛皮市場との交易だった。この当時、クリー族の部族の多くが、森林を出て西の大草原へと移動していった。森の罠師や猟師だった彼らの社会が、馬にまたがる戦士やバイソン猟師へと急速に進化していったのだ。だがクリー族の西方拡大は、他の先住民族との衝突につながり、ブラックフット族やスネーク族との間に断続的な争いが生じた。

こうした部族間抗争は、馬、バイソン、領土といった平原の資源を巡る争いだった。襲撃と報復の負の連鎖は、平原に迫る脅威を前に、話し合いや養子縁組 (「パウンドメーカー」の項も参照) によって次第に鎮静した。

しかし19世紀中頃までには、毛皮と肉を得るための乱獲により、バイソンの群れは急激にその数を減らしていった。アスペン・パークランドを拠点としていたクリー族は、南の草原地帯より早くバイソンの減少に直面したが、いきつく先はどこも同じだった。こうした「共有地の悲劇」はその後さらに悪化し、生活の糧を失ったクリー族はカナダ政府に支援を求めざるをえなくなった。

結局、クリー族の諸部族は、カナダ政府と「番号付きインディアン条約」を結ぶことになった。この背景には、政府から支援を引き出し、新しい生活をはじめたいとの考えがあった。また、自分たちが暮らす地域への白人入植者の流入を防ぐ思惑もあった。しかし、先住民族の諸部族はあくまでも個々の集団として署名することが多かったのに対し、政府は彼らが民族全体を代表して調印したと考えていた。こうした認識の不一致は、のちに先住民族が条約の義務を無視しているという非難に発展する。そしてこうした非難が、政府が約束を守らないことを正当化する材料となり、条約に署名した人々の不幸は一段と大きくなったのである。

クリー族の指導者の中には署名を拒む者もいた (あるいは、署名するにしても非常に渋った)。ミスタヒマスクワ (別名ビッグ・ベア) やピトカハナピウィイン (別名パウンドメーカー) はその代表格である。彼らはこうした条約が伝統的な生き方に終止符を打つものと考えていた。

アシニボイン族とクリー族の一部は、メティが起こした「ノースウェストの反乱」と同時期に発生した暴動に加わった。この反乱は、カナダ政府が条約を遵守していないという不満に加え、居留地の内外で暮らす先住民族の生活がバイソンの減少によって困窮を極めたことを原因としていた。だが、兵力、装備、兵站においてカナダ政府は優位にあり、一方の反乱勢力は連携すらままならなかったため、先住民族は敗北すべくして敗北した。これにより、カナダにおける一大勢力としての「鉄の同盟」は、終焉を迎えることになった。

反乱が鎮圧された後、クリー族は居留地に移住させられ、自分たちの土地の資源に対する権利を奪われ、その伝統的な文化は政府の監視下に置かれた。また、子供たちは先住民族のための寄宿学校に押し込められた。言うまでもなくこれは、母語と伝統文化の継承を妨げることを目的とした、強制的な同化政策だった。これはクリー族の文化の存続に、消えることのない大きな傷跡を残す結果となった。一部の伝統的知識は今や完全に失われてしまっており、その影響は今後さらに何世代も続くことになるだろう。

しかしクリー族は、自分たちの権利を主張することや国の舵取りに参加する権利を諦めてはいなかった。20世紀後半にはクリー族の弁論家が多数育った。そして今、クリー族はカナダ最大の先住民族として、世界中の先住少数民族の権利の擁護、そうした人々の土地の環境保全、土着の伝統文化の保存に尽力している。
PortraitSquare
icon_civilization_cree

特性

指導者
icon_leader_poundmaker
パウンドメーカー
特殊ユニット
icon_unit_cree_okihtcitaw
オキチタウ
特殊インフラ
icon_improvement_mekewap
メクワップ

地形&社会データ

所在地
北アメリカ
面積
約135万平方キロメートル
人口
19世紀後半にはわずか8000人。21世紀初頭には30万人超。
首都
なし (狩猟採集生活を営む家族集団が集まって集落をなすことが多かった。また、季節ごとに地域の集会を開いた。)
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指導者
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パウンドメーカー
特殊ユニット
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オキチタウ
特殊インフラ
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メクワップ

地形&社会データ

所在地
北アメリカ
面積
約135万平方キロメートル
人口
19世紀後半にはわずか8000人。21世紀初頭には30万人超。
首都
なし (狩猟採集生活を営む家族集団が集まって集落をなすことが多かった。また、季節ごとに地域の集会を開いた。)
固有能力

ニヒトウ

陶磁器の技術を得ると 交易路の数+1。交易商を無償で1つ得る。クリーの都市から3タイル以内の誰にも支配されていないタイルは、交易商が最初に入るとクリーのものになる。

歴史的背景
現在のクリー族は、カナダ最大の先住民族である (イヌイットは除く)。ただし「クリー」は英語名であり、彼ら自身は「ネヒラウェ」と名乗っている。伝統的に彼らは、現在のアルバータ州、サスカチュワン州、マニトバ州、オンタリオ州の亜寒帯と平原地域、そしてハドソン湾南西岸からケベック州の一部に食い込む一帯を主な勢力圏にしてきた。居住地域や方言によって幾つかの子集団に分かれ、独立した数多くの部族で構成されているほか、アルゴンキン系言語を話す他の人々の流入も見られるが、クリー族と他の先住民族の結びつきは緊密で、彼らが昔から外来者に対して寛容な姿勢を示してきたこともあり、他の部族や外来者からの血も多く入りこんでいる。

クリー族の文化で大きな特徴を成しているのが、個人と集団の関係である。柔軟性と外来者を歓迎する風土が、民族としてのクリー族最大の強さといえるだろう。その歴史の大部分において、クリー族は家族を中心とする小さな集団をその構成単位としていた。男に期待されるのは狩りに出て部族を守ることであり、女はキャンプを築いて物資を管理するという重要な役割を担った。各個人は、部族に新しく加わってその部族に貢献することも、部族を去って別の部族に加わる道を選ぶこともできた。外来者も、結婚や養子という形である集団への仲間入りを果たすことが可能だった。こうしたことでクリー諸族の関係は強化され、同様に他の先住民族やメティ (カナダ先住民とヨーロッパ人の混血)、ヨーロッパ人と関係を結ぶこともあった。

こうした集団の統率権は、厳格な血筋よりも個人の資質に大きく依存していた (たとえば、首長の息子だからといって必ずしも父の後を継げるとは限らなかった)。首長には肉体的な勇猛さだけでなく、政治的に明達で、柔軟な思考を持ち、弁舌巧みであることも求められたのである。また、贈り物や問題の仲裁などを通じて、集団の内外で寛容さを示すことも求められ、意思決定においてはあらゆる方面からの忠告に耳を傾けねばならなかった。戦士たちや踊り子の集団は、次世代の有望な指導者たちに対して、戦いや政治の場で、自らの資質を示す機会を提供した。

このように、統一的な指導者がいなかった彼らを、「クリー族」という単一の集団として語るのには無理がある。とりわけ問題だったのは、西洋諸国の政府と交渉する必要があった場合だ。話し合いを求める者もいれば、戦いを主張する者もいるといった具合で、指導者ごとにその態度はバラバラだったが、クリー族の一員という表面上の立場は皆共通だったからである。

アメリカ先住民の多くと同様、クリー族は歴史の継承を口伝に頼っていた。創生神話の豊かな蓄積も例外ではなく、部族によって内容が異なることも珍しくない。そうした物語のひとつによれば、人々の祖先はかつて雲の上にいた。あるとき彼らは、青々とした緑豊かな下界を眺め、大小の川に縁取られたその土地に住みたいと考えた。彼らは偉大な精霊に、自分たちを下界に下ろしてほしいと頼んだ。すると精霊は雲で巨大な器を作り、人々をそこに入らせて下界に下ろした。しかし器は途中で木に引っかかってしまう。動物たちが次々と通り過ぎたが、誰も助けてくれない。だがそこに漁師が現れた。漁師は木に登り、人々を下ろしてくれた。

ヨーロッパ側の記録に初めてクリー族が現れるのは、17世紀初頭にヘンリー・ハドソンがジェームズ湾とハドソン湾を調査した際の報告書においてである。このあと間もなく、ヨーロッパとクリー族の間で毛皮の交易が本格的に始まった。この交易はクリー族を根本的に変化させた。いや、彼らだけではない。北米の文化と経済が根本から一変したのである。

当時のクリー族は、主にハドソン湾周辺地域で暮らしていた。現在のオンタリオ州とケベック州の南にあたる場所である。彼らは罠師として、そして交易商として毛皮交易に関わり、ヨーロッパからもたらされた品と毛皮を交換した。クリー族の諸部族は、メティやヨーロッパ人と強固な関係を築くことに成功し、それを交易に活かした。クリー族同士で西洋の品を取引することもしばしばあった。

最終的にクリー族は、ソートー族とアシニボイン族と語らい、軍事と政治の両面にわたる同盟を結成した。これは「鉄の同盟」と呼ばれ、中央カナダにおける一大勢力として、150年にわたって存続した。同盟の基盤となっていたのは、ヨーロッパの毛皮市場との交易だった。この当時、クリー族の部族の多くが、森林を出て西の大草原へと移動していった。森の罠師や猟師だった彼らの社会が、馬にまたがる戦士やバイソン猟師へと急速に進化していったのだ。だがクリー族の西方拡大は、他の先住民族との衝突につながり、ブラックフット族やスネーク族との間に断続的な争いが生じた。

こうした部族間抗争は、馬、バイソン、領土といった平原の資源を巡る争いだった。襲撃と報復の負の連鎖は、平原に迫る脅威を前に、話し合いや養子縁組 (「パウンドメーカー」の項も参照) によって次第に鎮静した。

しかし19世紀中頃までには、毛皮と肉を得るための乱獲により、バイソンの群れは急激にその数を減らしていった。アスペン・パークランドを拠点としていたクリー族は、南の草原地帯より早くバイソンの減少に直面したが、いきつく先はどこも同じだった。こうした「共有地の悲劇」はその後さらに悪化し、生活の糧を失ったクリー族はカナダ政府に支援を求めざるをえなくなった。

結局、クリー族の諸部族は、カナダ政府と「番号付きインディアン条約」を結ぶことになった。この背景には、政府から支援を引き出し、新しい生活をはじめたいとの考えがあった。また、自分たちが暮らす地域への白人入植者の流入を防ぐ思惑もあった。しかし、先住民族の諸部族はあくまでも個々の集団として署名することが多かったのに対し、政府は彼らが民族全体を代表して調印したと考えていた。こうした認識の不一致は、のちに先住民族が条約の義務を無視しているという非難に発展する。そしてこうした非難が、政府が約束を守らないことを正当化する材料となり、条約に署名した人々の不幸は一段と大きくなったのである。

クリー族の指導者の中には署名を拒む者もいた (あるいは、署名するにしても非常に渋った)。ミスタヒマスクワ (別名ビッグ・ベア) やピトカハナピウィイン (別名パウンドメーカー) はその代表格である。彼らはこうした条約が伝統的な生き方に終止符を打つものと考えていた。

アシニボイン族とクリー族の一部は、メティが起こした「ノースウェストの反乱」と同時期に発生した暴動に加わった。この反乱は、カナダ政府が条約を遵守していないという不満に加え、居留地の内外で暮らす先住民族の生活がバイソンの減少によって困窮を極めたことを原因としていた。だが、兵力、装備、兵站においてカナダ政府は優位にあり、一方の反乱勢力は連携すらままならなかったため、先住民族は敗北すべくして敗北した。これにより、カナダにおける一大勢力としての「鉄の同盟」は、終焉を迎えることになった。

反乱が鎮圧された後、クリー族は居留地に移住させられ、自分たちの土地の資源に対する権利を奪われ、その伝統的な文化は政府の監視下に置かれた。また、子供たちは先住民族のための寄宿学校に押し込められた。言うまでもなくこれは、母語と伝統文化の継承を妨げることを目的とした、強制的な同化政策だった。これはクリー族の文化の存続に、消えることのない大きな傷跡を残す結果となった。一部の伝統的知識は今や完全に失われてしまっており、その影響は今後さらに何世代も続くことになるだろう。

しかしクリー族は、自分たちの権利を主張することや国の舵取りに参加する権利を諦めてはいなかった。20世紀後半にはクリー族の弁論家が多数育った。そして今、クリー族はカナダ最大の先住民族として、世界中の先住少数民族の権利の擁護、そうした人々の土地の環境保全、土着の伝統文化の保存に尽力している。
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