コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間

文明

イントロダクション

アステカ

アメリカ

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イギリス

インカ

インド

インドネシア

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スコットランド

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ズールー

ドイツ

ヌビア

ノルウェー

バビロン

ハンガリー

ビザンティン

フェニキア

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フランス

ベトナム

ペルシア

ポルトガル

ポーランド

マオリ

マケドニア

マプチェ

マヤ

マリ

モンゴル

ローマ

ロシア

韓国

大コロンビア

中国

日本

指導者

ドイツ
固有能力

帝国自由都市

各都市に ( 人口にもとづく通常の制限を超えて) 1つ多く区域を建設できる。

歴史的背景
1870年にビスマルクがさまざまな小邦国に、1つであることの利点は多数であることの利点に勝ると納得させるまで、「ドイツ」という国は存在していなかった。
ユリウス・カエサルは、これらライン川の向こう側の未開の土地を、「平和な」ガリアと区別して呼ぶためにゲルマニアという言葉を初めて使ったことで知られている。地理的に見たドイツは、ライン川からビストゥラ川、バルト海からドナウ川にかけて広がっている。カエサルが言うように、ガリア人は好戦的ではあったものの、文明化が可能な人々であったのに対し、チュートン人は征服するしかないほど野蛮で粗野な民族であった。ローマ帝国の崩壊にともない、これらの粗野な部族は「ばらばらの独立したゲンス (人々) とレグナ (王国)」となった (つまり、カエサルの見たては正しかったわけだ)。共通の言語 (だが一定の方言はあり、他の地域のドイツ人にはほとんど理解できない場合もあった) や慣習、そしてお互いを殺し合うという伝統を除くと、これらの国々に共通するものはなにもなかった。

これを (短期間とは言え) 統一する役目は、シャルルマーニュ大帝に任された。シャルルマーニュ大帝は800年12月に教皇レオ3世によって西ローマ皇帝の冠を授けられていた。しかし実際の統一は、レックス・テウトニコラム (ドイツの王) として936年に戴冠した王子オットー1世が、後に帝権移転の原則のもとで教皇ヨハネス12世に神聖ローマ皇帝と宣言されるのを待たねばならなかった。その後、教皇ヨハネス12世とオットー1世は喧々諤々の議論を経てディプロマ・オットニアナムに署名し、これによってローマ教皇はカトリック教会の神聖な長として認められ――この結果、高位聖職者たちが聖書を好き勝手に解釈することはできなくなった――、ドイツの王でもある皇帝がその世俗の守護者となった。オットー1世は残りの生涯を「部族公国」(自治権と選挙権を持つ、ドイツの有力な5つの公国、フランケン、バイエルン、ロタリンギア、ザクセン、スワビア) をなだめたり、フランス人、マジャール人、イタリア人、スラヴ人と戦ったり、さまざまな反乱を鎮めたりと、概してあまり楽しくない日々に費やした。

オットー1世以後の皇位継承は、常に変化する要因の坩堝であり、控えめに言ってもひどい有り様だった。ドイツの王は代々、1356年の金印勅書によって制定された「7人の選帝侯」(3人の大司教と4人の宗教と関係のないドイツの諸侯) によって選ばれていた (ちなみにドイツ人たちがこの方式に同意するだけで400年もかかっている)。それ以前のレックス・テウトニコラム (ドイツの王) の選出は、「礼節をわきまえた混乱」と呼べるような状況だった。三十年戦争のおかげもあり、プロテスタントとカトリックのバランスを保つために選帝侯が1人追加され、1692年には票が運悪く同数になってしまわぬよう、さらに選帝侯が1人追加された。そしてナポレオンがすべてを台無しにしてしまう直前の1803年、選帝侯に関する憲法が改正された。いったん王に選ばれれば、神聖ローマ皇帝の戴冠式などは、その時点での教皇による通過儀礼に過ぎなくなったのだ。

オットー大王以後も王と皇帝の座は長く引き継がれていった。サクソン人、サリ族、ホーエンシュタウフェン家、ヴェルフ家、ルクセンブルク、ヴィッテルスバッハ家、そしてその座を長く譲らなかったハプスブルク家。ハイン
リッヒ4世や赤髭王フリードリヒ1世のような偉大で輝かしい者もいれば、オットー4世やルートヴィヒ4世のような強欲でうぬぼれた者もいた。だが、能力や政策がどうであれ、大国の「力」や特権をねたむ数百もの小国に対処しなければならないのは、みな同じだった。

こんな混成国家が安定するはずがない。1040年頃にはフランケンが、都市国家のフランクフルト、大司教区のマインツ、シュパイアー、ボルムス、方伯領のヘッセンなどに細かく分裂した。1200年代には東でチュートン騎士団がプロイセンを侵略して自分たちのものとすると、ボヘミア、シュレジエン、ポンメルンは野心的なドイツ貴族によってスラヴ人から奪取された。この他にもさまざまな争いがあった。

それにもかかわらずドイツは比較的平和であり、さらに重要なことに、繁栄していた。繁栄の要因の1つとして、ハンザ同盟の設立が挙げられる。ハンザ同盟とは、バルト海や北海沿岸における貿易を支配していた港や銀行ギルドによる「商業同盟」である。木材、毛皮、穀物、鉱石、魚は西へ、加工品は東へと運ばれた。ハンザ同盟は1226年に皇帝フリードリヒ2世が「帝国自由都市」と定めたリューベックを中心に、ケルンやブレーメン、ハンブルクのような都市で強固な地位を築き、ロンドンやノヴゴロドのような遠く離れた港にも倉庫や事務所を持っていた。ハンザ同盟は1200年代から1500年代にかけて栄えたが、この時代の多くのドイツ人はヨーロッパで最も高い生活水準を享受しており、戦争や伝染病があったにもかかわらず、人口は増えていた。ちなみに1500年にはおよそ500~600万人が住んでおり、その多くは職人や商人としてギルドに属していた (ごく一部のギルドでは女性の加入すら認められていた)。

都市が発展して余剰資金が増えると芸術も栄えた。12世紀には女子修道院長のヒルデガルト・フォン・ビンゲンが礼拝の詩や歌曲、ヨーロッパ最古の道徳劇だけでなく、影響力をもった神学と医学の本を書いた。1世紀後、フォン・デア・フォーゲルバイデが、この時代におけるヨーロッパ叙情詩の最高水準の作品を発表した。そしてマインツの思想家であるヨハネス・グーテンベルクが、組み換え可能な金属製の活字、つまり活版印刷を開発した。民衆の識字率が上がり、支配層の考えを熟慮できるようになると、すべてが変化した (読み書きの能力が一般人に広がるのには数世紀を必要としたが、やがて宗教改革や北方ルネサンス、科学革命へとつながっていったのだ)。

ドイツではすべてがうまく進んでいたかに見えた。聖職者マルティン・ルターが聖書を自国語に翻訳し (当時、印刷機のおかげで本当に誰でもそれを買うことができた)、1517年10月、ヴィッテンベルクにある諸聖人の教会の扉に「免罪符の力と効果についての95ヶ条の論題」を釘で打ちつけるまでは。ルターの「プロテスタント (異議を唱える者)」神学説は、すぐに農民戦争 (フランス革命以前ではヨーロッパ最大の民衆反乱) を引き起こし、1555年のアウクスブルクの和議の崩壊後、より残虐な三十年戦争を引き起こした (アウクスブルクの和議によりルター派の信仰は適法と認められ、諸地域の信仰は各支配者の信仰と同じとすることが認められた)。1618年から1648年にかけて、カトリック同盟とプロテスタント連合の軍隊や傭兵たちは、「信仰をともにしない人々」を思う存分殺戮した。この宗教熱が燃え尽きるころには、ドイツの人口は20%から38%も減少していたと推定されている。

マルティン・ルターはたしかに非凡な人物であったが、アルブレヒト・デューラーのような芸術家やヨハネス・ロイヒリンのような学者、パッヘルベルのような音楽家、そしてエリアス・ホルやハンス・クルンパーのような多くの有名建築家とともに、ルネサンス期のドイツの偉人のひとりに数えられているのは皮肉な話だ。しかし、1600年代から1700年代のドイツ人科学者たちは、文明にさらに大きな影響を及ぼした。彼らは他のどの国も及ばないほどの科学的な発見や理解、そして誤用の基礎を築いた (最も有名な科学者の1人、インゴルシュタット大学のフランケンシュタイン博士がドイツ人と設定されているのには理由があるのだ)。シュトゥットガルトのヨハネス・ケプラーは宇宙論に革命を起こし、大学者のライプニッツは微積分学を発展させ、1700年にプロイセン科学アカデミーを設立し、哲学者のイマヌエル・カントは道徳観の科学的根拠を探求した。さらには天文学者であるザクセンのマリア・ヴィンケルマンや昆虫学者であるフランクフルトのマリア・メリアンは、他のドイツ人女性が科学の道で名を挙げられるように扉を開いた。そして印刷技術の発展にともない、感受性の強い人々を困惑させる機会も多くなったのである。

ドイツの芸術家や科学者たちが文明を啓蒙しても、神聖ローマ帝国は順調とは言い難かった。この時点ではすでにヨーロッパの封建制度は法律によって廃止され、新進の中産階級が声をあげはじめていた。ドイツの多くの国々では新しい、より力強い支配者が現れはじめていた。ブランデンブルクとプロイセンを支配したホーエンツォレルン家、バイエルンを支配したヴィッテルスバッハ家、ザクセンを支配したヴェルフ家、そして (もちろん) ヘッセンを支配したヘッセン=カッセル家などである。これらの支配者たちは、オーストリア人でありながら1500年頃からドイツの王、そして神聖ローマ帝国の皇帝でありつづけたハプスブルク家の支配に苛立ちはじめていた。主な血統が途絶えた際にバイエルンのカール7世が短い間 (1742~1745) 皇帝となったが、すぐにハプスブルク=ロートリンゲン家が王座を取り戻した。しかし改革の空気は広まり、(遅々としてではあるが) 皇帝もそれに応じていった。

戦費を捻出し、息子のマクシミリアン1世をドイツ国王の座につけるためにドイツの公国君主たちの援助を必要としたフリードリヒ3世は、意志決定への参加を要求する共同戦線に直面することになった。公国君主たちは、帝国議会 (ライヒスターク) において王への助言や監督をおこなえる選帝侯と他の公国君主からなる集まりを設けることを「要求」した。フリードリヒ3世は1回目の帝国議会が招集される事態を避けたが、父より融和的な (もしくは聡明ではなかった) 息子はついにボルムス議会を招集する。この議会で、王と公国君主たちはまず4つの法案に同意した。帝国改革と総称されたこの一連の法律は、崩壊しつつある帝国に必要な基盤を作ることを目的としており、その中には「永遠の平和」(ドイツの貴族間の争いを禁止する令) や「コモンペニー」(新たなインフラを造るための帝国の税金) が含まれていた。後の帝国議会はさらに法律や改革… そして税金を追加した。

しかし1700年代中頃までには、ドイツ王国や神聖ローマ帝国の一体感を守ろうという手遅れの努力よりも速いペースで周辺事情が変化していった。支配者たちはこれまでどおり独自の軍隊や外交団を維持し、「王」の意向や行動とは関係なく勝手に使用するようになっていた。シュレジエン戦争や七年戦争では「啓蒙絶対主義」の指導のもと、プロイセンがヨーロッパで「超大国」として認められるようになり、バイエルンやビュルテンベルクでは支配者たちが宮殿や愛人、芸術に資金をつぎこみ、ヘッセン=カッセルやハノーファーの方伯たちは、自分たちの精鋭兵士を傭兵として貸し出して金を稼いだ。そしてついにハノーファー公国君主はイングランドの王家となり、ドイツの出来事に関心を失っていった (ロンドンで生まれ、アメリカ独立戦争時にはイングランドの王であったジョージ3世は、一度もハノーファーの土を踏まなかった)。

統一という見せかけが崩れつつあったちょうどそのとき、ドイツ王国はフランス革命とその後のナポレオン戦争に対処することとなった。血塗られたフランス革命への恐怖から、ドイツの小国併合や教会領の接収は加速した。小国併合では、隣接する君主国の領土を併合する際、併合される方が権利を交渉できた。また、教会領の接収では、貴族が近隣に散らばっている教会の小さな土地を残らず自分のものにした。1792年以降、革命中のフランスはドイツのほとんどの (連携の取れていない) 国と戦争に突入した。アウステルリッツでフランスが勝利すると、1806年はじめに (オーストリアの) フランツ2世は退位し、ドイツ王国と神聖ローマ帝国は正式にナポレオンによって解体された。ナポレオンはドイツ王国のほとんどをライン同盟に再編したが、最終的には1815年にドイツ連邦がこれにとって代わった。
PortraitSquare
icon_civilization_germany

特性

指導者
icon_leader_barbarossa
赤髭王フリードリヒ1世
icon_leader_default
ルートヴィヒ2世
特殊ユニット
icon_unit_german_uboat
Uボート
特殊インフラ
icon_district_hansa
ハンザ

地形&社会データ

所在地
ヨーロッパ
面積
推定100万平方キロメートル
(西暦1050年当時)
人口
推定2630万人 (西暦1780年当時)
首都
現在はベルリン
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特性

指導者
icon_leader_barbarossa
赤髭王フリードリヒ1世
icon_leader_default
ルートヴィヒ2世
特殊ユニット
icon_unit_german_uboat
Uボート
特殊インフラ
icon_district_hansa
ハンザ

地形&社会データ

所在地
ヨーロッパ
面積
推定100万平方キロメートル
(西暦1050年当時)
人口
推定2630万人 (西暦1780年当時)
首都
現在はベルリン
固有能力

帝国自由都市

各都市に ( 人口にもとづく通常の制限を超えて) 1つ多く区域を建設できる。

歴史的背景
1870年にビスマルクがさまざまな小邦国に、1つであることの利点は多数であることの利点に勝ると納得させるまで、「ドイツ」という国は存在していなかった。
ユリウス・カエサルは、これらライン川の向こう側の未開の土地を、「平和な」ガリアと区別して呼ぶためにゲルマニアという言葉を初めて使ったことで知られている。地理的に見たドイツは、ライン川からビストゥラ川、バルト海からドナウ川にかけて広がっている。カエサルが言うように、ガリア人は好戦的ではあったものの、文明化が可能な人々であったのに対し、チュートン人は征服するしかないほど野蛮で粗野な民族であった。ローマ帝国の崩壊にともない、これらの粗野な部族は「ばらばらの独立したゲンス (人々) とレグナ (王国)」となった (つまり、カエサルの見たては正しかったわけだ)。共通の言語 (だが一定の方言はあり、他の地域のドイツ人にはほとんど理解できない場合もあった) や慣習、そしてお互いを殺し合うという伝統を除くと、これらの国々に共通するものはなにもなかった。

これを (短期間とは言え) 統一する役目は、シャルルマーニュ大帝に任された。シャルルマーニュ大帝は800年12月に教皇レオ3世によって西ローマ皇帝の冠を授けられていた。しかし実際の統一は、レックス・テウトニコラム (ドイツの王) として936年に戴冠した王子オットー1世が、後に帝権移転の原則のもとで教皇ヨハネス12世に神聖ローマ皇帝と宣言されるのを待たねばならなかった。その後、教皇ヨハネス12世とオットー1世は喧々諤々の議論を経てディプロマ・オットニアナムに署名し、これによってローマ教皇はカトリック教会の神聖な長として認められ――この結果、高位聖職者たちが聖書を好き勝手に解釈することはできなくなった――、ドイツの王でもある皇帝がその世俗の守護者となった。オットー1世は残りの生涯を「部族公国」(自治権と選挙権を持つ、ドイツの有力な5つの公国、フランケン、バイエルン、ロタリンギア、ザクセン、スワビア) をなだめたり、フランス人、マジャール人、イタリア人、スラヴ人と戦ったり、さまざまな反乱を鎮めたりと、概してあまり楽しくない日々に費やした。

オットー1世以後の皇位継承は、常に変化する要因の坩堝であり、控えめに言ってもひどい有り様だった。ドイツの王は代々、1356年の金印勅書によって制定された「7人の選帝侯」(3人の大司教と4人の宗教と関係のないドイツの諸侯) によって選ばれていた (ちなみにドイツ人たちがこの方式に同意するだけで400年もかかっている)。それ以前のレックス・テウトニコラム (ドイツの王) の選出は、「礼節をわきまえた混乱」と呼べるような状況だった。三十年戦争のおかげもあり、プロテスタントとカトリックのバランスを保つために選帝侯が1人追加され、1692年には票が運悪く同数になってしまわぬよう、さらに選帝侯が1人追加された。そしてナポレオンがすべてを台無しにしてしまう直前の1803年、選帝侯に関する憲法が改正された。いったん王に選ばれれば、神聖ローマ皇帝の戴冠式などは、その時点での教皇による通過儀礼に過ぎなくなったのだ。

オットー大王以後も王と皇帝の座は長く引き継がれていった。サクソン人、サリ族、ホーエンシュタウフェン家、ヴェルフ家、ルクセンブルク、ヴィッテルスバッハ家、そしてその座を長く譲らなかったハプスブルク家。ハイン
リッヒ4世や赤髭王フリードリヒ1世のような偉大で輝かしい者もいれば、オットー4世やルートヴィヒ4世のような強欲でうぬぼれた者もいた。だが、能力や政策がどうであれ、大国の「力」や特権をねたむ数百もの小国に対処しなければならないのは、みな同じだった。

こんな混成国家が安定するはずがない。1040年頃にはフランケンが、都市国家のフランクフルト、大司教区のマインツ、シュパイアー、ボルムス、方伯領のヘッセンなどに細かく分裂した。1200年代には東でチュートン騎士団がプロイセンを侵略して自分たちのものとすると、ボヘミア、シュレジエン、ポンメルンは野心的なドイツ貴族によってスラヴ人から奪取された。この他にもさまざまな争いがあった。

それにもかかわらずドイツは比較的平和であり、さらに重要なことに、繁栄していた。繁栄の要因の1つとして、ハンザ同盟の設立が挙げられる。ハンザ同盟とは、バルト海や北海沿岸における貿易を支配していた港や銀行ギルドによる「商業同盟」である。木材、毛皮、穀物、鉱石、魚は西へ、加工品は東へと運ばれた。ハンザ同盟は1226年に皇帝フリードリヒ2世が「帝国自由都市」と定めたリューベックを中心に、ケルンやブレーメン、ハンブルクのような都市で強固な地位を築き、ロンドンやノヴゴロドのような遠く離れた港にも倉庫や事務所を持っていた。ハンザ同盟は1200年代から1500年代にかけて栄えたが、この時代の多くのドイツ人はヨーロッパで最も高い生活水準を享受しており、戦争や伝染病があったにもかかわらず、人口は増えていた。ちなみに1500年にはおよそ500~600万人が住んでおり、その多くは職人や商人としてギルドに属していた (ごく一部のギルドでは女性の加入すら認められていた)。

都市が発展して余剰資金が増えると芸術も栄えた。12世紀には女子修道院長のヒルデガルト・フォン・ビンゲンが礼拝の詩や歌曲、ヨーロッパ最古の道徳劇だけでなく、影響力をもった神学と医学の本を書いた。1世紀後、フォン・デア・フォーゲルバイデが、この時代におけるヨーロッパ叙情詩の最高水準の作品を発表した。そしてマインツの思想家であるヨハネス・グーテンベルクが、組み換え可能な金属製の活字、つまり活版印刷を開発した。民衆の識字率が上がり、支配層の考えを熟慮できるようになると、すべてが変化した (読み書きの能力が一般人に広がるのには数世紀を必要としたが、やがて宗教改革や北方ルネサンス、科学革命へとつながっていったのだ)。

ドイツではすべてがうまく進んでいたかに見えた。聖職者マルティン・ルターが聖書を自国語に翻訳し (当時、印刷機のおかげで本当に誰でもそれを買うことができた)、1517年10月、ヴィッテンベルクにある諸聖人の教会の扉に「免罪符の力と効果についての95ヶ条の論題」を釘で打ちつけるまでは。ルターの「プロテスタント (異議を唱える者)」神学説は、すぐに農民戦争 (フランス革命以前ではヨーロッパ最大の民衆反乱) を引き起こし、1555年のアウクスブルクの和議の崩壊後、より残虐な三十年戦争を引き起こした (アウクスブルクの和議によりルター派の信仰は適法と認められ、諸地域の信仰は各支配者の信仰と同じとすることが認められた)。1618年から1648年にかけて、カトリック同盟とプロテスタント連合の軍隊や傭兵たちは、「信仰をともにしない人々」を思う存分殺戮した。この宗教熱が燃え尽きるころには、ドイツの人口は20%から38%も減少していたと推定されている。

マルティン・ルターはたしかに非凡な人物であったが、アルブレヒト・デューラーのような芸術家やヨハネス・ロイヒリンのような学者、パッヘルベルのような音楽家、そしてエリアス・ホルやハンス・クルンパーのような多くの有名建築家とともに、ルネサンス期のドイツの偉人のひとりに数えられているのは皮肉な話だ。しかし、1600年代から1700年代のドイツ人科学者たちは、文明にさらに大きな影響を及ぼした。彼らは他のどの国も及ばないほどの科学的な発見や理解、そして誤用の基礎を築いた (最も有名な科学者の1人、インゴルシュタット大学のフランケンシュタイン博士がドイツ人と設定されているのには理由があるのだ)。シュトゥットガルトのヨハネス・ケプラーは宇宙論に革命を起こし、大学者のライプニッツは微積分学を発展させ、1700年にプロイセン科学アカデミーを設立し、哲学者のイマヌエル・カントは道徳観の科学的根拠を探求した。さらには天文学者であるザクセンのマリア・ヴィンケルマンや昆虫学者であるフランクフルトのマリア・メリアンは、他のドイツ人女性が科学の道で名を挙げられるように扉を開いた。そして印刷技術の発展にともない、感受性の強い人々を困惑させる機会も多くなったのである。

ドイツの芸術家や科学者たちが文明を啓蒙しても、神聖ローマ帝国は順調とは言い難かった。この時点ではすでにヨーロッパの封建制度は法律によって廃止され、新進の中産階級が声をあげはじめていた。ドイツの多くの国々では新しい、より力強い支配者が現れはじめていた。ブランデンブルクとプロイセンを支配したホーエンツォレルン家、バイエルンを支配したヴィッテルスバッハ家、ザクセンを支配したヴェルフ家、そして (もちろん) ヘッセンを支配したヘッセン=カッセル家などである。これらの支配者たちは、オーストリア人でありながら1500年頃からドイツの王、そして神聖ローマ帝国の皇帝でありつづけたハプスブルク家の支配に苛立ちはじめていた。主な血統が途絶えた際にバイエルンのカール7世が短い間 (1742~1745) 皇帝となったが、すぐにハプスブルク=ロートリンゲン家が王座を取り戻した。しかし改革の空気は広まり、(遅々としてではあるが) 皇帝もそれに応じていった。

戦費を捻出し、息子のマクシミリアン1世をドイツ国王の座につけるためにドイツの公国君主たちの援助を必要としたフリードリヒ3世は、意志決定への参加を要求する共同戦線に直面することになった。公国君主たちは、帝国議会 (ライヒスターク) において王への助言や監督をおこなえる選帝侯と他の公国君主からなる集まりを設けることを「要求」した。フリードリヒ3世は1回目の帝国議会が招集される事態を避けたが、父より融和的な (もしくは聡明ではなかった) 息子はついにボルムス議会を招集する。この議会で、王と公国君主たちはまず4つの法案に同意した。帝国改革と総称されたこの一連の法律は、崩壊しつつある帝国に必要な基盤を作ることを目的としており、その中には「永遠の平和」(ドイツの貴族間の争いを禁止する令) や「コモンペニー」(新たなインフラを造るための帝国の税金) が含まれていた。後の帝国議会はさらに法律や改革… そして税金を追加した。

しかし1700年代中頃までには、ドイツ王国や神聖ローマ帝国の一体感を守ろうという手遅れの努力よりも速いペースで周辺事情が変化していった。支配者たちはこれまでどおり独自の軍隊や外交団を維持し、「王」の意向や行動とは関係なく勝手に使用するようになっていた。シュレジエン戦争や七年戦争では「啓蒙絶対主義」の指導のもと、プロイセンがヨーロッパで「超大国」として認められるようになり、バイエルンやビュルテンベルクでは支配者たちが宮殿や愛人、芸術に資金をつぎこみ、ヘッセン=カッセルやハノーファーの方伯たちは、自分たちの精鋭兵士を傭兵として貸し出して金を稼いだ。そしてついにハノーファー公国君主はイングランドの王家となり、ドイツの出来事に関心を失っていった (ロンドンで生まれ、アメリカ独立戦争時にはイングランドの王であったジョージ3世は、一度もハノーファーの土を踏まなかった)。

統一という見せかけが崩れつつあったちょうどそのとき、ドイツ王国はフランス革命とその後のナポレオン戦争に対処することとなった。血塗られたフランス革命への恐怖から、ドイツの小国併合や教会領の接収は加速した。小国併合では、隣接する君主国の領土を併合する際、併合される方が権利を交渉できた。また、教会領の接収では、貴族が近隣に散らばっている教会の小さな土地を残らず自分のものにした。1792年以降、革命中のフランスはドイツのほとんどの (連携の取れていない) 国と戦争に突入した。アウステルリッツでフランスが勝利すると、1806年はじめに (オーストリアの) フランツ2世は退位し、ドイツ王国と神聖ローマ帝国は正式にナポレオンによって解体された。ナポレオンはドイツ王国のほとんどをライン同盟に再編したが、最終的には1815年にドイツ連邦がこれにとって代わった。
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