コンセプト
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区域
建造物
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ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
イギリス
固有能力

世界の工場

鉄鉱山と石炭鉱山によって蓄えられる資源が毎ターン+2。工兵に対する 生産力+100%。工兵の労働力+2。 電力が供給されると産出量が増える建造物の産出量+4。工業地帯の建造物に対する 生産力+20%。港の建造物による戦略資源の備蓄+10 (標準のスピードで) 。

歴史的背景
ノルマン人が秩序を打ち立てるまで、「王権に統べられた島」は船を漕げるあらゆる者 (ケルト人、ブルターニュ人、アングル人、ローマ人、サクソン人、バイキングなど) から侵略された。ブリテン王国は、「ノルマン人の侵略」におけるノルマンディー公の到来に起源を発する。小競り合いの続くイングランドを統一しようと試みた勢力は多数存在したが、実際にこれを成し遂げたのはアーサー王 (伝説の中の話だが) とウィリアム征服王 (いくつかの理由から「庶子王」とも呼ばれる) だけであった。今日の「グレート」ブリテン王国はEUのみならず、世界経済 (GDP第6位を誇り)、そして人類文化のリーダーの一角であり、約6400万人の国民を擁している。

アングロ・サクソンのハロルド2世やノルウェーのハーラル3世など、イングランドの玉座を狙う競争者の中を生き延びたノルマンディー公ウィリアムは、ドーバー、カンタベリー、ケント、サザク、ウィンチェスターの王家宝物庫を押さえた。頑固な伯爵たちと聖職者を従わせ、1066年12月にウィリアムはウェストミンスター寺院でイングランド王の地位を得た。彼は残りの生涯を支配の安定と反乱の鎮圧、襲い来るバイキングの撃退の他、ノルマンディーに戻って自身の領地を守ることに費やした。1135年までにウィリアムの血統は徐々に途絶え、短い「無政府時代」の後、アンジュー家のヘンリー2世が王座に着いた。

1153年、直近の内戦 (最後でないことは確実だった) がウォリングフォード協定で終結し、アンジュー家の血を引く4人の王たち (名高きリチャード獅子心王や、その弟にして悪名高きジョン失地王も含まれる) が誰もが認める支配者となった。これらの王により、イングランド王室の紋章は定められた。紋章に描かれたのは、荒々しい黄金のライオン… 寒冷なイギリスにはいない動物だ。そしてさらにもう2頭が紋章に加えられた。イングランドにおけるジョン王の統治は酷いもので (そのうえフランス軍に敗れてノルマンディーを失った)、1215年、彼は貴族たちから強引にマグナ・カルタを承認させられた。その主な内容は王と反逆した男爵たちの平和条約であり、後年に修正を受けている。これまで王は「力と意思」によってのみ支配する、一方的な専断を行う存在だった。マグナカルタ以降、その権威は「法による支配」にもとづくものとなり、臣民の権利が保証された。もちろんこれは土地を持つ貴族に限った話で、不遇な農民たちはそれから何世紀も奴隷のままだった。

もちろんイギリス史は数十人の王侯貴族だけのものではない。そこには農奴、使用人、兵士、職人、聖職者、商人、筆記者、酒場の主人、主婦、芸術家、作家、ごく一般的な国民など、大多数の普通の人々が存在した。イギリスの農業と水産業が全盛期を迎えると、その恩恵で自給自足が可能になった。交易が栄え、イギリスの商品は (特に毛織物や堅木の工芸品) ヨーロッパ中で需要があった。中世になると活気に満ちた文化が花開く。バイユーのタペストリーが織り上げられ、チョーサーとマロリーが不朽の作品を書いた。ゴシック様式の大聖堂や城がそびえ立ち、民話 (ロビン・フッドなど) が定着した。成り上がりの平民たちが、徐々に権利意識を持ちはじめていた。

アンジュー朝につづいてイングランドの王位を得たのは、より利己的なプランタジネット朝だった。プランタジネット朝はなんといっても百年戦争 (実際の期間は1337年~1453年の116年間) を勃発させたことで知られている。これはフランスの王冠をコレクションに加えようした王の見え透いた野心から起きた戦争だった。この王朝は貴族や国民に疎まれたリチャード2世が1399年9月に廃位されたことで幕を閉じる。彼はポンティフラクト城に監禁され、数ヶ月後に死去した (一説には餓死だったと言われている)。ランカスター家が王座を得たものの、間もなくヨーク家 (プランタジネット家の分家) がその支配権に異議を唱える。1455年に両家の間で散発的な衝突――血に彩られたバラ戦争――がはじまる。渦巻く数多の策謀と日和見貴族たちの寝返りが特徴的な戦争だ。最終的にヨーク家とランカスター家はお互いをほぼ皆殺しにし、ボーフォート家のさして名も知れていなかった嫡子、ヘンリー・テューダーがボズワース・フィールドの戦いでランカスター王家最後の1人であるリチャード3世を打ち破り (戦死した)、イングランドの新たな王となった。

ヘンリー7世となったヘンリー・テューダーは、急ぎヨーク家のエリザベスと婚姻を交わし、対立者を黙らせた。そして政治と経済の安定を取り戻すため、法律が許す限り厳しい税を課し、貴族の専横を防ぐために国王評議会を設けた。しかし、長期に渡って君臨した彼の息子ヘンリー8世 (1509~1547) と孫娘エリザベス1世 (1558~1603) は王国に変革をもたらした。何人もの妻や対立者を斬首の刑に処しているうちに傲慢となったヘンリー8世は、教皇に逆らってイギリス国教会を創始し (当然、イングランドにおける教会の首長は王が兼務した)、エリザベス1世は強大なカトリック勢力と対峙しながらもこれを守った。こうしてイングランドではせわしない100年間が過ぎた。

この頃、イングランドの庶民はただの庶民ではなくなりつつあった。1295年に庶民院が設立され、「貴族ないし聖職者の議員」ではない議員が民衆の言葉を代弁し、君主に意見することができるようになったのだ。ヘンリー8世はその意見をほぼ完全に無視したが (無視せず、意見した者を処刑することもあった)、エリザベス1世は彼らと近しい関係を保ち、その財政的価値と愛国心を評価した。ヘンリー8世もそうだが、特にエリザベス1世の治世では芸術が開花し、詩人たちが世界に誇る戯曲を書いた。これによって国民は苦労して稼いだ金の使い道を得た。また、国がカトリックの資産を接収したため、作曲家や外国の画家、建築家のパトロンとなる余裕も生まれた。ルネサンス期の華やかさが日常生活に定着していったのである。

「処女王」はとうとう子供を残さずに崩御した。そこでスチュアート朝の王がスコットランドとイングランドを同時に統べたが、チャールズ1世の時代に清教徒革命が起こり、イングランドは一時的に共和国となった (最初に実施されたのは、不運なチャールズ1世の処刑だった)。その後スチュアート家は王政復古を実現。名誉革命と1707年の連合法の可決をもってグレートブリテン王国が成立した。一方、エリザベス1世の政策にもとづき、王国は世界に向けた調査団の派遣と植民地政策に資金を費やした。目標は新世界からはじまり、さらに遠方へ広がっていった。これもまたエリザベス1世の政策だが、スペイン無敵艦隊の圧力に対抗し、イングランド海軍は「海の支配者」としての基盤を築きつつあった。

愛らしいアン女王は17回も妊娠したが、1人として無事に育つことはなく、彼女自身も1714年に49歳で崩御した。後を継いだのはハノーヴァー選帝侯ジョージ1世だが、彼は英語が話せなかった。長年統治をつづけたジョージ1世から4世 (合わせて1714年から1839年まで統治した) に怠惰と狂気の傾向が見られたことを考えると驚くに値しないが、この期間に議会政治は、「憲法上の」君主の下で首相が政治を導くという、現在の姿へと移行していった。ジョージ3世はアメリカの植民地を失ったが、その一方で (忘れられがちだが) 最終的にワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破っている。君主が看板ないし象徴としての面を強め、首相が実務を担当する政治が最適な形だったのかもしれない。ハノーヴァー家の次はザクセン=コーブルク家から平凡な君主が1人生まれ、第一次世界大戦中に高まった国民の反ドイツ感情に配慮し、1917年にウィンザー家と家名を改めた (ザクセン=コーブルクはドイツの領邦)。

革命の地であるイギリスは、1800年年代中頃にも1つの革命を経験した。輝かしき「第二次」産業革命は、たち昇る石炭の煙、工場や造船所の立てる騒音、島中に張り巡らされた鉄道線路という形で現れた。新たな製造業の中心地には新たな貧民街が生まれ、新たな賃金生活者で埋め尽くされた。イギリス人は文明史にかつてない高度な生活水準を堪能した。産業革命による繁栄、そして製品と電気は生活のあらゆる面に影響を及ぼし、ヴィクトリア朝時代(長期間在位した頑固な女王の名前に由来する) の納税者は、誰もがこれらを享受できた。1901年、ニューカッスル・アポン・タイン付近に初めての3相高圧発電所が建設され、1912年までにイギリスは世界最大の統合電力システムを持つに至る。イギリスの工場は年中無休でありとあらゆる商品を生産し、(食料を除く) あらゆる物資に満ち溢れ、きな臭い国際情勢から一歩離れていた。

この産業革命が帝国に寄与したのか逆なのかはともかく、ヴィクトリア女王の統治は「太陽の沈まない」帝国を作り上げ、やがて「白人の責務」という論が支持されていく。1600年代後半には地球のごく一部の領土を獲得していただけだったが、蒸気船や汽車、海中電信ケーブルの出現――そして連発銃や弩級戦艦も忘れてはいけない――によってイギリスは遠く離れた植民地すらある程度は効率的に統治する力を得た。カナダ、オーストラリア、南アフリカ、香港、シンガポール、インド、ニュージーランド、その他の居留地から農作物や原料が巨大なイギリス商船に積まれ、イギリスの港へ運び込まれた。遠隔地で問題が起きればホワイトホール (ロンドン中央の官公庁街) へすぐさま電報が届き、勇壮な陸軍と自慢の海軍が迅速に鎮圧へと向かった。

こういった時代の最中、費用がかさんだ第一次世界大戦が呑気なイギリス人にちょっとしたショックを与えた。さらに追い打ちをかけるように、20年後には第二次世界大戦が勃発した。大陸の同盟国はいずれも精強なドイツ軍に制圧され、イギリスはマルタとスエズ運河を通じて極東の領地に続く生命線を必死に防衛した。勇敢で不屈のイギリス人は、ソ連とアメリカ (有利な貿易協定で密かにイギリスを支えた) が味方として参戦するまでなんとか持ち堪えたが (両国の参戦は、ドイツと日本の独裁者の傲慢さが原因だった)、終戦までにその経済は消耗し尽くし、およそ45万人もの国民が犠牲になった。膨大な負債と天井知らずのインフレがのしかかり、帝国はバラバラになり (残った植民地は表向きイギリス連邦として残留した)、さらには冷戦にまで巻き込まれたが… これには勝利した。

革新的な民主主義国家であり、スポーツと象徴と伝統を愛し、1兆6000億ポンド (およそ247兆円) の国民総生産を誇るイギリスは、芸術・科学・政治・金融といったあらゆる分野で今も重要な国である。
PortraitSquare
icon_civilization_england

地形&社会データ

所在地
ヨーロッパ
面積
約24万3458.88平方キロメートル
人口
推定6410万人
首都
ロンドン (だいたいは)
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地形&社会データ

所在地
ヨーロッパ
面積
約24万3458.88平方キロメートル
人口
推定6410万人
首都
ロンドン (だいたいは)
固有能力

世界の工場

鉄鉱山と石炭鉱山によって蓄えられる資源が毎ターン+2。工兵に対する 生産力+100%。工兵の労働力+2。 電力が供給されると産出量が増える建造物の産出量+4。工業地帯の建造物に対する 生産力+20%。港の建造物による戦略資源の備蓄+10 (標準のスピードで) 。

歴史的背景
ノルマン人が秩序を打ち立てるまで、「王権に統べられた島」は船を漕げるあらゆる者 (ケルト人、ブルターニュ人、アングル人、ローマ人、サクソン人、バイキングなど) から侵略された。ブリテン王国は、「ノルマン人の侵略」におけるノルマンディー公の到来に起源を発する。小競り合いの続くイングランドを統一しようと試みた勢力は多数存在したが、実際にこれを成し遂げたのはアーサー王 (伝説の中の話だが) とウィリアム征服王 (いくつかの理由から「庶子王」とも呼ばれる) だけであった。今日の「グレート」ブリテン王国はEUのみならず、世界経済 (GDP第6位を誇り)、そして人類文化のリーダーの一角であり、約6400万人の国民を擁している。

アングロ・サクソンのハロルド2世やノルウェーのハーラル3世など、イングランドの玉座を狙う競争者の中を生き延びたノルマンディー公ウィリアムは、ドーバー、カンタベリー、ケント、サザク、ウィンチェスターの王家宝物庫を押さえた。頑固な伯爵たちと聖職者を従わせ、1066年12月にウィリアムはウェストミンスター寺院でイングランド王の地位を得た。彼は残りの生涯を支配の安定と反乱の鎮圧、襲い来るバイキングの撃退の他、ノルマンディーに戻って自身の領地を守ることに費やした。1135年までにウィリアムの血統は徐々に途絶え、短い「無政府時代」の後、アンジュー家のヘンリー2世が王座に着いた。

1153年、直近の内戦 (最後でないことは確実だった) がウォリングフォード協定で終結し、アンジュー家の血を引く4人の王たち (名高きリチャード獅子心王や、その弟にして悪名高きジョン失地王も含まれる) が誰もが認める支配者となった。これらの王により、イングランド王室の紋章は定められた。紋章に描かれたのは、荒々しい黄金のライオン… 寒冷なイギリスにはいない動物だ。そしてさらにもう2頭が紋章に加えられた。イングランドにおけるジョン王の統治は酷いもので (そのうえフランス軍に敗れてノルマンディーを失った)、1215年、彼は貴族たちから強引にマグナ・カルタを承認させられた。その主な内容は王と反逆した男爵たちの平和条約であり、後年に修正を受けている。これまで王は「力と意思」によってのみ支配する、一方的な専断を行う存在だった。マグナカルタ以降、その権威は「法による支配」にもとづくものとなり、臣民の権利が保証された。もちろんこれは土地を持つ貴族に限った話で、不遇な農民たちはそれから何世紀も奴隷のままだった。

もちろんイギリス史は数十人の王侯貴族だけのものではない。そこには農奴、使用人、兵士、職人、聖職者、商人、筆記者、酒場の主人、主婦、芸術家、作家、ごく一般的な国民など、大多数の普通の人々が存在した。イギリスの農業と水産業が全盛期を迎えると、その恩恵で自給自足が可能になった。交易が栄え、イギリスの商品は (特に毛織物や堅木の工芸品) ヨーロッパ中で需要があった。中世になると活気に満ちた文化が花開く。バイユーのタペストリーが織り上げられ、チョーサーとマロリーが不朽の作品を書いた。ゴシック様式の大聖堂や城がそびえ立ち、民話 (ロビン・フッドなど) が定着した。成り上がりの平民たちが、徐々に権利意識を持ちはじめていた。

アンジュー朝につづいてイングランドの王位を得たのは、より利己的なプランタジネット朝だった。プランタジネット朝はなんといっても百年戦争 (実際の期間は1337年~1453年の116年間) を勃発させたことで知られている。これはフランスの王冠をコレクションに加えようした王の見え透いた野心から起きた戦争だった。この王朝は貴族や国民に疎まれたリチャード2世が1399年9月に廃位されたことで幕を閉じる。彼はポンティフラクト城に監禁され、数ヶ月後に死去した (一説には餓死だったと言われている)。ランカスター家が王座を得たものの、間もなくヨーク家 (プランタジネット家の分家) がその支配権に異議を唱える。1455年に両家の間で散発的な衝突――血に彩られたバラ戦争――がはじまる。渦巻く数多の策謀と日和見貴族たちの寝返りが特徴的な戦争だ。最終的にヨーク家とランカスター家はお互いをほぼ皆殺しにし、ボーフォート家のさして名も知れていなかった嫡子、ヘンリー・テューダーがボズワース・フィールドの戦いでランカスター王家最後の1人であるリチャード3世を打ち破り (戦死した)、イングランドの新たな王となった。

ヘンリー7世となったヘンリー・テューダーは、急ぎヨーク家のエリザベスと婚姻を交わし、対立者を黙らせた。そして政治と経済の安定を取り戻すため、法律が許す限り厳しい税を課し、貴族の専横を防ぐために国王評議会を設けた。しかし、長期に渡って君臨した彼の息子ヘンリー8世 (1509~1547) と孫娘エリザベス1世 (1558~1603) は王国に変革をもたらした。何人もの妻や対立者を斬首の刑に処しているうちに傲慢となったヘンリー8世は、教皇に逆らってイギリス国教会を創始し (当然、イングランドにおける教会の首長は王が兼務した)、エリザベス1世は強大なカトリック勢力と対峙しながらもこれを守った。こうしてイングランドではせわしない100年間が過ぎた。

この頃、イングランドの庶民はただの庶民ではなくなりつつあった。1295年に庶民院が設立され、「貴族ないし聖職者の議員」ではない議員が民衆の言葉を代弁し、君主に意見することができるようになったのだ。ヘンリー8世はその意見をほぼ完全に無視したが (無視せず、意見した者を処刑することもあった)、エリザベス1世は彼らと近しい関係を保ち、その財政的価値と愛国心を評価した。ヘンリー8世もそうだが、特にエリザベス1世の治世では芸術が開花し、詩人たちが世界に誇る戯曲を書いた。これによって国民は苦労して稼いだ金の使い道を得た。また、国がカトリックの資産を接収したため、作曲家や外国の画家、建築家のパトロンとなる余裕も生まれた。ルネサンス期の華やかさが日常生活に定着していったのである。

「処女王」はとうとう子供を残さずに崩御した。そこでスチュアート朝の王がスコットランドとイングランドを同時に統べたが、チャールズ1世の時代に清教徒革命が起こり、イングランドは一時的に共和国となった (最初に実施されたのは、不運なチャールズ1世の処刑だった)。その後スチュアート家は王政復古を実現。名誉革命と1707年の連合法の可決をもってグレートブリテン王国が成立した。一方、エリザベス1世の政策にもとづき、王国は世界に向けた調査団の派遣と植民地政策に資金を費やした。目標は新世界からはじまり、さらに遠方へ広がっていった。これもまたエリザベス1世の政策だが、スペイン無敵艦隊の圧力に対抗し、イングランド海軍は「海の支配者」としての基盤を築きつつあった。

愛らしいアン女王は17回も妊娠したが、1人として無事に育つことはなく、彼女自身も1714年に49歳で崩御した。後を継いだのはハノーヴァー選帝侯ジョージ1世だが、彼は英語が話せなかった。長年統治をつづけたジョージ1世から4世 (合わせて1714年から1839年まで統治した) に怠惰と狂気の傾向が見られたことを考えると驚くに値しないが、この期間に議会政治は、「憲法上の」君主の下で首相が政治を導くという、現在の姿へと移行していった。ジョージ3世はアメリカの植民地を失ったが、その一方で (忘れられがちだが) 最終的にワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破っている。君主が看板ないし象徴としての面を強め、首相が実務を担当する政治が最適な形だったのかもしれない。ハノーヴァー家の次はザクセン=コーブルク家から平凡な君主が1人生まれ、第一次世界大戦中に高まった国民の反ドイツ感情に配慮し、1917年にウィンザー家と家名を改めた (ザクセン=コーブルクはドイツの領邦)。

革命の地であるイギリスは、1800年年代中頃にも1つの革命を経験した。輝かしき「第二次」産業革命は、たち昇る石炭の煙、工場や造船所の立てる騒音、島中に張り巡らされた鉄道線路という形で現れた。新たな製造業の中心地には新たな貧民街が生まれ、新たな賃金生活者で埋め尽くされた。イギリス人は文明史にかつてない高度な生活水準を堪能した。産業革命による繁栄、そして製品と電気は生活のあらゆる面に影響を及ぼし、ヴィクトリア朝時代(長期間在位した頑固な女王の名前に由来する) の納税者は、誰もがこれらを享受できた。1901年、ニューカッスル・アポン・タイン付近に初めての3相高圧発電所が建設され、1912年までにイギリスは世界最大の統合電力システムを持つに至る。イギリスの工場は年中無休でありとあらゆる商品を生産し、(食料を除く) あらゆる物資に満ち溢れ、きな臭い国際情勢から一歩離れていた。

この産業革命が帝国に寄与したのか逆なのかはともかく、ヴィクトリア女王の統治は「太陽の沈まない」帝国を作り上げ、やがて「白人の責務」という論が支持されていく。1600年代後半には地球のごく一部の領土を獲得していただけだったが、蒸気船や汽車、海中電信ケーブルの出現――そして連発銃や弩級戦艦も忘れてはいけない――によってイギリスは遠く離れた植民地すらある程度は効率的に統治する力を得た。カナダ、オーストラリア、南アフリカ、香港、シンガポール、インド、ニュージーランド、その他の居留地から農作物や原料が巨大なイギリス商船に積まれ、イギリスの港へ運び込まれた。遠隔地で問題が起きればホワイトホール (ロンドン中央の官公庁街) へすぐさま電報が届き、勇壮な陸軍と自慢の海軍が迅速に鎮圧へと向かった。

こういった時代の最中、費用がかさんだ第一次世界大戦が呑気なイギリス人にちょっとしたショックを与えた。さらに追い打ちをかけるように、20年後には第二次世界大戦が勃発した。大陸の同盟国はいずれも精強なドイツ軍に制圧され、イギリスはマルタとスエズ運河を通じて極東の領地に続く生命線を必死に防衛した。勇敢で不屈のイギリス人は、ソ連とアメリカ (有利な貿易協定で密かにイギリスを支えた) が味方として参戦するまでなんとか持ち堪えたが (両国の参戦は、ドイツと日本の独裁者の傲慢さが原因だった)、終戦までにその経済は消耗し尽くし、およそ45万人もの国民が犠牲になった。膨大な負債と天井知らずのインフレがのしかかり、帝国はバラバラになり (残った植民地は表向きイギリス連邦として残留した)、さらには冷戦にまで巻き込まれたが… これには勝利した。

革新的な民主主義国家であり、スポーツと象徴と伝統を愛し、1兆6000億ポンド (およそ247兆円) の国民総生産を誇るイギリスは、芸術・科学・政治・金融といったあらゆる分野で今も重要な国である。