コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
ガリア
固有能力

ハルシュタット文化

鉱山がすべての区域に若干の隣接ボーナスをもたらす。所有者のいない土地に対して文化爆弾を発動させる。 文化力+1。専門区域は他の区域から隣接ボーナスを受けられない。また、これらの区域を都心に隣接させることはできない。

歴史的背景
ガリア全土を支配していた王はいない。ガリア人とは、言語や宗教、社会構造を同じくする諸部族の総称である。ガリア人は、カエサルとローマの逆鱗に触れたことで、ローマに完全に屈伏させられた。しかし、滅びたわけではない。その後はローマの文化を吸収し、ローマの領土だった時代からその後にかけて独自のアイデンティティを育み、後のフランスの礎を築いたのである。

ガリア人は (カエサルの正確無比な記述によると) 当初、「ガリア人」とは名乗っておらず、 「ケルタエ」 と名乗っていたらしい。地域の名前となった「ガリア」とは、「異邦人」という意味のケルト語だった。つまりガリアとは、「異邦人 (この場合はローマ人) が治める王国」の意味だったのである。紛らわしいことに、ローマ人が「ガリアのケルタエ人」という意味で使っていた「ガラティア」という呼称は、「たくましい」という別のガリア語から派生したらしい。征服されたガリア人がローマ人に対して「自分たちはたくましいケルト人だ」と名乗った場合、「我々は異邦人に治められし国である」という意味にも聞こえたということだ。別のケルトの土地で暮らしていた彼らの遠い祖先がこれを聞けば、他人事とは思えなかったろう。

カエサルによる征服から千年ほど前、後にガリア人となる諸部族が、中央フランスのライン川流域に住み着いた。紀元前5世紀頃、この人々は地中海沿岸に向かって南下し、イタリア北部に定住する。彼らはそこで止まらず、イタリア半島をさらに南下して、ブレンヌスという族長に率いられて紀元前390年にはローマを略奪している (紀元前278年頃にギリシャに侵攻したブレンヌスという指導者がいるが、別人である)。ガリア人は恐るべき、無視できない勢力だった。ローマとカルタゴが争った第二次ポエニ戦争では、彼らはハンニバル・バルカに味方した。この時の同盟と略奪がローマを怒らせたことは言うまでもない。ローマ軍は侵攻してくるガリア人を押し返し、やがてはどうにか優位に立つことに成功し、最終的にはガリア戦争で彼らを征服した。紀元前51年、ユリウス・カエサルとその盟友たちによってガリアはローマの支配下に置かれた。ガリア征服はカエサル自身の悲願でもあった。彼は負債を返すための黄金 (ガリア人はたっぷり持っていた) と、本国からの批判をはねのける軍事的成功を必要としていたのだ。もちろん中にはローマによる統治に反旗をひるがえす部族もあった。特に有名なのが、ウェルキンゲトリクスのアルウェルニ族とアンビオリクス率いるエブロネス族だ。どちらの反乱もガリア側の敗北に終わったが、敗因は技量や戦意ではなく、資源と結束の不足だった。

紀元前27年から紀元前12年頃に、ガリアはローマ帝国の統治下で3つの地域に分割された。後の皇帝アウグストゥスは、ユリウス・カエサルの記録を頼りにして境界を維持しようとしたというのだから驚かされる。西暦3世紀のゲルマン人の侵攻によってローマの求心力に陰りが生じるまで、地域の平和は (比較的) 保たれていた。

ローマによる征服以前のガリア人は、異なる部族の集まりとは思えないほど豊かで独特な社会を形作っていた。彼らはたくさんの金鉱を持っていた (当然カエサルはこれに目をつけた)。カエサルがガリア人から奪った黄金があまりに多かったため、金の価格が下落したというのだから、その豊かさが伺えるだろう。ガリア人はこうした黄金を加工し、さまざまな装飾品を作った。黄金は兜にもあしらわれた。女性は「トルク」と呼ばれる蹄鉄のような形をしたネックレスを、対になるブレスレットと合わせて身につけた。

ガリア人の政治や社会の仕組みは複雑だった。ドルイドと呼ばれる司祭が高い地位にあり、精神的、政治的指導者として振る舞った。一般的なイメージやローマ人による悪意ある宣伝と違い、人間を使った生贄の儀式などはおこなわれていなかった。部族にとってドルイドは、伝承を維持し、人々を治療する存在だったようだ。ドルイドは信仰や政治に関する助言を与え、必要なら裁判官の役を務めることもあった。ドルイドが信者たちに与える影響を危惧し、彼らの習わしや知識を弾圧しようとした者もいた。皇帝クラウディウス1世は中でも有名だろう。こうした動きに加え、一神教であるキリスト教が台頭したため、ドルイドによる「ケルトの」宗教は完全に破壊されてしまった。彼らがいかなる存在であったのか、今日では断片的な手がかりから解き明かしていくしかない。

ドルイドだけでなく、部族の長老や王が集まった評議会もガリア人を導いた。時には共同統治のような形で部族を率いる例もあった。部族はおおむね自治を許されていたが、この分断がカエサルに付け入る隙を与えたともいえる。ローマの統治下に置かれると、ガリア人の中でも豊かな者はローマの文化的素養を身につけ、階級間の格差の拡大と固定も進んでいった。こうした人々はローマ人のような服を着て、母語であるゲール語とラテン語が混ざった言葉を話した (フランス語の原型である)。家や村の築き方についても、征服後のガリア人はローマ人の真似をした。

現在、ガリア人、つまりケルト人の子孫は、イギリス、ドイツ、バルカン半島諸国、トルコ、スペイン、フランスで暮らしている。彼らの遺産は、他のさまざまな文化と混ざり合ってきた。たとえばフランスは、ガリア人だけでなく、フランク人 (ゲルマン系部族)、ローマ帝国後期に攻め入って定住したゴート人、同じく侵略者であるノルマン人、そして他ならぬローマ人によって生み出されたのである。
PortraitSquare
icon_civilization_unknown

特性

指導者
特殊ユニット
特殊インフラ

地形&社会データ

所在地
西ヨーロッパ (現在のフランス近辺)
面積
50万平方キロメートル
人口
正確な数字は残っていない。アンビオリクスの時代には600万から800万人と推定される。
首都
首都と呼べる都市は存在しない。アンビオリクスの部族の砦はアトゥアトゥカにあった
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特性

指導者
特殊ユニット
特殊インフラ

地形&社会データ

所在地
西ヨーロッパ (現在のフランス近辺)
面積
50万平方キロメートル
人口
正確な数字は残っていない。アンビオリクスの時代には600万から800万人と推定される。
首都
首都と呼べる都市は存在しない。アンビオリクスの部族の砦はアトゥアトゥカにあった
固有能力

ハルシュタット文化

鉱山がすべての区域に若干の隣接ボーナスをもたらす。所有者のいない土地に対して文化爆弾を発動させる。 文化力+1。専門区域は他の区域から隣接ボーナスを受けられない。また、これらの区域を都心に隣接させることはできない。

歴史的背景
ガリア全土を支配していた王はいない。ガリア人とは、言語や宗教、社会構造を同じくする諸部族の総称である。ガリア人は、カエサルとローマの逆鱗に触れたことで、ローマに完全に屈伏させられた。しかし、滅びたわけではない。その後はローマの文化を吸収し、ローマの領土だった時代からその後にかけて独自のアイデンティティを育み、後のフランスの礎を築いたのである。

ガリア人は (カエサルの正確無比な記述によると) 当初、「ガリア人」とは名乗っておらず、 「ケルタエ」 と名乗っていたらしい。地域の名前となった「ガリア」とは、「異邦人」という意味のケルト語だった。つまりガリアとは、「異邦人 (この場合はローマ人) が治める王国」の意味だったのである。紛らわしいことに、ローマ人が「ガリアのケルタエ人」という意味で使っていた「ガラティア」という呼称は、「たくましい」という別のガリア語から派生したらしい。征服されたガリア人がローマ人に対して「自分たちはたくましいケルト人だ」と名乗った場合、「我々は異邦人に治められし国である」という意味にも聞こえたということだ。別のケルトの土地で暮らしていた彼らの遠い祖先がこれを聞けば、他人事とは思えなかったろう。

カエサルによる征服から千年ほど前、後にガリア人となる諸部族が、中央フランスのライン川流域に住み着いた。紀元前5世紀頃、この人々は地中海沿岸に向かって南下し、イタリア北部に定住する。彼らはそこで止まらず、イタリア半島をさらに南下して、ブレンヌスという族長に率いられて紀元前390年にはローマを略奪している (紀元前278年頃にギリシャに侵攻したブレンヌスという指導者がいるが、別人である)。ガリア人は恐るべき、無視できない勢力だった。ローマとカルタゴが争った第二次ポエニ戦争では、彼らはハンニバル・バルカに味方した。この時の同盟と略奪がローマを怒らせたことは言うまでもない。ローマ軍は侵攻してくるガリア人を押し返し、やがてはどうにか優位に立つことに成功し、最終的にはガリア戦争で彼らを征服した。紀元前51年、ユリウス・カエサルとその盟友たちによってガリアはローマの支配下に置かれた。ガリア征服はカエサル自身の悲願でもあった。彼は負債を返すための黄金 (ガリア人はたっぷり持っていた) と、本国からの批判をはねのける軍事的成功を必要としていたのだ。もちろん中にはローマによる統治に反旗をひるがえす部族もあった。特に有名なのが、ウェルキンゲトリクスのアルウェルニ族とアンビオリクス率いるエブロネス族だ。どちらの反乱もガリア側の敗北に終わったが、敗因は技量や戦意ではなく、資源と結束の不足だった。

紀元前27年から紀元前12年頃に、ガリアはローマ帝国の統治下で3つの地域に分割された。後の皇帝アウグストゥスは、ユリウス・カエサルの記録を頼りにして境界を維持しようとしたというのだから驚かされる。西暦3世紀のゲルマン人の侵攻によってローマの求心力に陰りが生じるまで、地域の平和は (比較的) 保たれていた。

ローマによる征服以前のガリア人は、異なる部族の集まりとは思えないほど豊かで独特な社会を形作っていた。彼らはたくさんの金鉱を持っていた (当然カエサルはこれに目をつけた)。カエサルがガリア人から奪った黄金があまりに多かったため、金の価格が下落したというのだから、その豊かさが伺えるだろう。ガリア人はこうした黄金を加工し、さまざまな装飾品を作った。黄金は兜にもあしらわれた。女性は「トルク」と呼ばれる蹄鉄のような形をしたネックレスを、対になるブレスレットと合わせて身につけた。

ガリア人の政治や社会の仕組みは複雑だった。ドルイドと呼ばれる司祭が高い地位にあり、精神的、政治的指導者として振る舞った。一般的なイメージやローマ人による悪意ある宣伝と違い、人間を使った生贄の儀式などはおこなわれていなかった。部族にとってドルイドは、伝承を維持し、人々を治療する存在だったようだ。ドルイドは信仰や政治に関する助言を与え、必要なら裁判官の役を務めることもあった。ドルイドが信者たちに与える影響を危惧し、彼らの習わしや知識を弾圧しようとした者もいた。皇帝クラウディウス1世は中でも有名だろう。こうした動きに加え、一神教であるキリスト教が台頭したため、ドルイドによる「ケルトの」宗教は完全に破壊されてしまった。彼らがいかなる存在であったのか、今日では断片的な手がかりから解き明かしていくしかない。

ドルイドだけでなく、部族の長老や王が集まった評議会もガリア人を導いた。時には共同統治のような形で部族を率いる例もあった。部族はおおむね自治を許されていたが、この分断がカエサルに付け入る隙を与えたともいえる。ローマの統治下に置かれると、ガリア人の中でも豊かな者はローマの文化的素養を身につけ、階級間の格差の拡大と固定も進んでいった。こうした人々はローマ人のような服を着て、母語であるゲール語とラテン語が混ざった言葉を話した (フランス語の原型である)。家や村の築き方についても、征服後のガリア人はローマ人の真似をした。

現在、ガリア人、つまりケルト人の子孫は、イギリス、ドイツ、バルカン半島諸国、トルコ、スペイン、フランスで暮らしている。彼らの遺産は、他のさまざまな文化と混ざり合ってきた。たとえばフランスは、ガリア人だけでなく、フランク人 (ゲルマン系部族)、ローマ帝国後期に攻め入って定住したゴート人、同じく侵略者であるノルマン人、そして他ならぬローマ人によって生み出されたのである。