コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
コンゴ
固有能力

ンキシ

通常の 文化力に加えて、 遺物、 英雄の遺物、 秘宝、 傑作 (彫刻) からそれぞれ 食料+2、 生産力+2、 信仰力+1、 ゴールド+4。獲得できる 大芸術家、 大音楽家、 大商人ポイントが50%上昇する。宮殿には傑作スロットが5つある。

歴史的背景
伝承によれば、コンゴと呼ばれる王国は、クイル川流域の (広大でありながらあまり豊かではない) ムペンバ・カシという部族王国の争いから生まれたとされる。伝承によれば、力の弱いムペンバ・カシはある時点で軍事主義的な近隣のムバタと同盟を結び、南方の台地の上に築かれていたムウェン・カブンガ王国を征服した。戦士ニミ・ア・ルケニがこの領土を統合した際、山の上の村落ンバンザ・コンゴを首都に定めたことで、西暦1390年頃にコンゴ王国が誕生した。コンゴ王国の絶頂期、領土はアフリカ大陸中部の大西洋沿岸からクワンゴ川まで、北はポワントノワールから南はロジェ川まで広がった。

最初のマニコンゴ (王) は当然ニミであった。ニミが死去すると、兄弟のムボカニ・ンビンガが後を継いだ。彼には2人の妻と9人の子がおり、多産な血統はその後も途切れることなく、独立コンゴの支配者として君臨しつづけた。ムボカニ・ンビンガの治世では、近隣のロアンゴ王国や周囲の小勢力を征服していった。ムボカニ王はまた、親族にコンゴの地方の支配権を与える政策を開始した。この中央集権化の下で、地方勢力の権威は象徴的なものに過ぎなくなった (かつて誇り高く独立していたムバタ王国も、1620年には「コンゴ王の祖父」という扱いでしかなくなっていた)。

こうした時代を通して、王朝は税収と強制労働、そして王国軍によって体制を維持した。軍の維持費を賄うために、海岸線に到着しはじめていたヨーロッパ人と奴隷、銅、象牙を取引することもあった。また、近隣の都市や王国に貢ぎ物を強く求めた結果、ンバンザ・コンゴは1500年代の終わり頃にはアフリカで最も豊かな都市の1つとなっていた。コンゴ王国はバントゥー族戦士の槍の力もあり、着実に成長をつづけた。ヨーロッパ人が到着した頃、コンゴの王は6つの地方 (ムペンバ、ムバタ、ンスンディ、ムパンガ、ムベンバ、ソヨ) と4つの属国 (ロアンゴ、カコンゴ、ンゴエ、ンドンゴ) を支配していた。伝承によれば、王は訓練と規律の行き届いた男女の戦士をたったの1週間で30万人も戦地に送り込むことができたといわれている。

コンゴの人口は首都ンバンザに集中しており、10万もの人が暮らしていた (当時のコンゴの人口の5分の1)。街は無秩序に拡がっていったかもしれないが、この人口集中は食料、資源、労働力の集積につながり、それらは王の命に応じてすぐに用いることができた。また、この集積によってンバンザは広大な商取引の中心地ともなった (いつだって最終的には金儲けにつながるのだ)。象牙や鉱石といった輸出資源の他に王国の勤勉な人々が目をつけた商品は、銅器、その他の金属製品、ラフィアヤシの服、陶磁器といった加工品だった。

1483年にポルトガルの探検家ディオゴ・カンは「未発見」だったコンゴ川を遡上し、その途上でコンゴ王国に辿り着いた。カンは一部の部下を「客人」として残し、コンゴの役人を何名か連れてポルトガルに帰国した。ポルトガル王はカンの功績を認めてキャバレイロ (騎士) の称号を授けた。1485年にカンは約束を守り (先住民に対するヨーロッパ人の態度としては珍しいことだ)、貴族とともにコンゴへ戻った。ンジンガ・ア・ンクウ王がキリスト教に改宗したのもこの頃である。1491年、カンはンジンガや貴族たちに洗礼を与えたカトリックの司祭を連れて、みたびコンゴを訪れた。ンジンガ王は当時のポルトガル王を讃え、洗礼名を「ジョアン」とした。カンは司祭や他の者とともにコンゴ人を1人連れて帰国し、そのコンゴ人は後にンバンザでポルトガル式の学校を開いた。だが、つまるところは押し売りと同じだ。一度ポルトガルを家の中に招き入れた結果がどうなるかは、言うまでもないだろう…

ジョアン1世 (旧名ンジンガ) の後を継いだのは息子のアフォンソ1世 (旧名ムベンバ・ア・ンジンガ) だった。父親はどう見ても熱心な信徒とは言えなかったものの(これは本人も認めている)、アフォンソは敬虔なカトリック教徒で、民の啓蒙に全力を注いだ。ポルトガルと教会の双方から相談役を招いて近くに置き、キリスト教と土着の信仰との統合を図った。その目論見はうまく行かなかったものの、国庫から学校や教会建造の資金を拠出し、現実的なカトリックの基盤が整えられた (臣民がこれを望んでいたかは別の問題である)。叙任された聖職者 (特に現地の言葉を話す者) が不足していたため、若い貴族が何名かカトリックを学ぶためにヨーロッパに派遣された。アフォンソの息子の1人は聖書を7年間学んだ後、北方の遠いウティカの司教に任命され、コンゴの教皇代理とされた。

しかしキリスト教の慈善と徳は、やがて奴隷貿易の急拡大と、ポルトガルの強欲によって妨げられてしまう。カンの到来から数十年で、コンゴ王国の地方領地はポルトガルにとって奴隷の大きな供給元となっていた。ヨーロッパ人が到来するはるか以前からコンゴでは奴隷制が存在しており、コンゴ人の奴隷市場が活況であったことは間違いないが、ポルトガル人がカリブ海やブラジルへ送る奴隷を集める勢いはその比ではなかった。奴隷貿易は莫大な利益を産み、王国南東の国境付近の紛争で捕らえた捕虜をうまく片づける良い方法だったが、コンゴの歴代の王は、多くの自国民が (捕虜の数が少ない時などに) 「違法に」奴隷化されているのではないかと疑った。これは王国の基盤を揺らがせる事態であるため、貿易運営機構が組織され、違法な奴隷化がおこなわれないよう監視した。適法な奴隷は輸出前にポルトガル人司祭から洗礼を授けられたので、少なくとも魂は救われたはずだ。

王国に終焉をもたらしたのはキリスト教でも奴隷制度でもなく、王位継承を巡る血なまぐさい争いだった。ムボカニの命により、当時のコンゴでは王のいとこや叔父、兄弟が地方や属国を治めており、それぞれが小さな軍を保有していた。このため、王が崩御するたびに内紛が発生し、1568年にはジャガによって首都が占領されてしまう (ジャガの正体については東方からの侵略者、反乱した臣民などさまざまな説がある)。ニミ・ア・ルケニ (カトリック世界から見ればアルヴァロ1世) は首都を取り返し、王に選ばれたが、そのためにはポルトガルの武器と支援を得なければならず、彼はポルトガルにルアンダ州を植民地として差し出した (この地が後にアンゴラとなる)。だが、ポルトガルはやがてコンゴの内政に干渉するようになるなど、これは失策であった。

クイル王朝の創始者アルヴァロと息子のアルヴァロ2世は、怒涛の進歩を目の当たりにし、王国の「西洋化」を図った。よりヨーロッパ人の好みに合わせようとしたか、もしくは避けがたい結末を避けたかっただけなのかはわからないが、いずれにせよこの西洋化は表面的なものにすぎなかった。アルヴァロはヨーロッパ式の称号を導入し (ムウェン・ンスンディは「ンスンディ公爵」となった)、アルヴァロ2世は首都をサンサルバドルと改名した。1596年、コンゴ人の使者が教皇を説得し、サンサルバドルはコンゴとアンゴラを含めた新しい司教管区の中心地として認められた。ところがポルトガル王はアルヴァロ2世の裏をかき、教皇からこの管区の司祭任命権を得た (相応の「寄付」をしたことは間違いない)。

アンゴラとコンゴの関係がこじれていく中、1622年にアンゴラの植民地総督がコンゴ南部を (わずかな間とはいえ) 侵略したことで、両者の関係はさらに悪化した。コンゴ王国では派閥争いが芽を出し、一部の地方君主は軍事と (奴隷などの) 貿易の両面でポルトガルと独自の協定を交わした。20年後の1641年、オランダがアンゴラの一部を掌握すると、ンカンガ・ア・ルケニ (ガルシア2世) 王はオランダに加担してポルトガルと対峙した。しかし、1648年にオランダが「戦略的撤退」したことで、王は窮地に立たされてしまった。国境のンブウィラ地区を巡ってコンゴとポルトガルが小競り合いをはじめると (それほど大きな領地ではないが、双方ともに戦闘の口実に飢えていた)、1665年10月のンブウィラ (歴史学者によってはアンブイラやウランガとも記述) の戦いへと発展した。

ポルトガル軍のマスケット銃兵と軽カノン砲の前に王国軍は惨敗を喫した。コンゴ王国側の戦死者は5千名を超え、その中には王も含まれていた。この戦いの後、キンパンザ派とキンラザ派 (どちらも王族の家系) が王位を争う内戦に突入し、次の世紀まで長引いた。地方は荒廃し、両派とも捕虜のコンゴ人を何千人も奴隷商人に売った。首都も何度か略奪に遭い、1696年までにほぼ放棄されるに至る。そしてついにキバングのペドロ4世が残った (数少ない) 貴族と協定を結び、王位を持ち回り制にすることで、平和がいくらかは戻った。

放棄されていたンバンザ=コンゴは、ポルトガルの支援を受けた現地のキリスト教預言者ベアトリス・キンパ・ヴィタと、彼女の信者アントニアンたちによって1705年に再び占領された。アントニアンとは聖アントニウスに由来する名前で、神の守護を受けた聖なるキリスト教コンゴ王国の建設を目的としていた。しかし、その目的が果たされることはなく、ペドロ4世 (在位1696年~1718年) はベアトリスを捕らえて審問し、異端者として処刑した後、1709年に首都を再び支配下に置いて「独立」したコンゴ王国を取り戻した。

王位の持ち回り制によって比較的平和な時期がつづいたが、それでも時として王家の争いはあった。その点を除けば、18世紀と19世紀の情勢はコンゴにとって上向きだった。コンゴの芸術家たちはキリストを黒人として描く十字架像を制作し、最後まで懐疑的だった者もキリスト教に改宗した。国民の信心深さはすさまじいものとなり、サンサルバドルの破壊された大聖堂を天使がひと晩で再建したという話 (有名だ) も、まるで疑われないほどだった。1836年、ポルトガルはイギリスの強い圧力にさらされたことで奴隷貿易を廃止した。

最終的にコンゴ王国の歴史に終止符を打ったのも、やはり王位を巡る争いだった。1856年にエンリケ2世が没し、キンラザ氏族の2つの派閥が玉座を求めて争った。ペドロ・レロが勝利したものの、そのためにはポルトガルの軍に頼らざるを得なかった。悪魔との取引は必ず代償をともなうものだ。1857年、ペドロ5世はポルトガルに隷属する条約に調印し、ポルトガル王に忠誠を誓った。翌年、ポルトガルはサンサルバドルに駐屯軍を置くための要塞を築き、誰が支配者なのかを明確に示した。1960年にコンゴ共和国が建国されるまで、コンゴに独立国家は存在しなかった。
PortraitSquare
icon_civilization_kongo

地形&社会データ

所在地
アフリカ
面積
最大時に12万9400平方キロメートル
人口
推定50万9000人 (西暦1650年)
首都
ンバンザ・コンゴ
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地形&社会データ

所在地
アフリカ
面積
最大時に12万9400平方キロメートル
人口
推定50万9000人 (西暦1650年)
首都
ンバンザ・コンゴ
固有能力

ンキシ

通常の 文化力に加えて、 遺物、 英雄の遺物、 秘宝、 傑作 (彫刻) からそれぞれ 食料+2、 生産力+2、 信仰力+1、 ゴールド+4。獲得できる 大芸術家、 大音楽家、 大商人ポイントが50%上昇する。宮殿には傑作スロットが5つある。

歴史的背景
伝承によれば、コンゴと呼ばれる王国は、クイル川流域の (広大でありながらあまり豊かではない) ムペンバ・カシという部族王国の争いから生まれたとされる。伝承によれば、力の弱いムペンバ・カシはある時点で軍事主義的な近隣のムバタと同盟を結び、南方の台地の上に築かれていたムウェン・カブンガ王国を征服した。戦士ニミ・ア・ルケニがこの領土を統合した際、山の上の村落ンバンザ・コンゴを首都に定めたことで、西暦1390年頃にコンゴ王国が誕生した。コンゴ王国の絶頂期、領土はアフリカ大陸中部の大西洋沿岸からクワンゴ川まで、北はポワントノワールから南はロジェ川まで広がった。

最初のマニコンゴ (王) は当然ニミであった。ニミが死去すると、兄弟のムボカニ・ンビンガが後を継いだ。彼には2人の妻と9人の子がおり、多産な血統はその後も途切れることなく、独立コンゴの支配者として君臨しつづけた。ムボカニ・ンビンガの治世では、近隣のロアンゴ王国や周囲の小勢力を征服していった。ムボカニ王はまた、親族にコンゴの地方の支配権を与える政策を開始した。この中央集権化の下で、地方勢力の権威は象徴的なものに過ぎなくなった (かつて誇り高く独立していたムバタ王国も、1620年には「コンゴ王の祖父」という扱いでしかなくなっていた)。

こうした時代を通して、王朝は税収と強制労働、そして王国軍によって体制を維持した。軍の維持費を賄うために、海岸線に到着しはじめていたヨーロッパ人と奴隷、銅、象牙を取引することもあった。また、近隣の都市や王国に貢ぎ物を強く求めた結果、ンバンザ・コンゴは1500年代の終わり頃にはアフリカで最も豊かな都市の1つとなっていた。コンゴ王国はバントゥー族戦士の槍の力もあり、着実に成長をつづけた。ヨーロッパ人が到着した頃、コンゴの王は6つの地方 (ムペンバ、ムバタ、ンスンディ、ムパンガ、ムベンバ、ソヨ) と4つの属国 (ロアンゴ、カコンゴ、ンゴエ、ンドンゴ) を支配していた。伝承によれば、王は訓練と規律の行き届いた男女の戦士をたったの1週間で30万人も戦地に送り込むことができたといわれている。

コンゴの人口は首都ンバンザに集中しており、10万もの人が暮らしていた (当時のコンゴの人口の5分の1)。街は無秩序に拡がっていったかもしれないが、この人口集中は食料、資源、労働力の集積につながり、それらは王の命に応じてすぐに用いることができた。また、この集積によってンバンザは広大な商取引の中心地ともなった (いつだって最終的には金儲けにつながるのだ)。象牙や鉱石といった輸出資源の他に王国の勤勉な人々が目をつけた商品は、銅器、その他の金属製品、ラフィアヤシの服、陶磁器といった加工品だった。

1483年にポルトガルの探検家ディオゴ・カンは「未発見」だったコンゴ川を遡上し、その途上でコンゴ王国に辿り着いた。カンは一部の部下を「客人」として残し、コンゴの役人を何名か連れてポルトガルに帰国した。ポルトガル王はカンの功績を認めてキャバレイロ (騎士) の称号を授けた。1485年にカンは約束を守り (先住民に対するヨーロッパ人の態度としては珍しいことだ)、貴族とともにコンゴへ戻った。ンジンガ・ア・ンクウ王がキリスト教に改宗したのもこの頃である。1491年、カンはンジンガや貴族たちに洗礼を与えたカトリックの司祭を連れて、みたびコンゴを訪れた。ンジンガ王は当時のポルトガル王を讃え、洗礼名を「ジョアン」とした。カンは司祭や他の者とともにコンゴ人を1人連れて帰国し、そのコンゴ人は後にンバンザでポルトガル式の学校を開いた。だが、つまるところは押し売りと同じだ。一度ポルトガルを家の中に招き入れた結果がどうなるかは、言うまでもないだろう…

ジョアン1世 (旧名ンジンガ) の後を継いだのは息子のアフォンソ1世 (旧名ムベンバ・ア・ンジンガ) だった。父親はどう見ても熱心な信徒とは言えなかったものの(これは本人も認めている)、アフォンソは敬虔なカトリック教徒で、民の啓蒙に全力を注いだ。ポルトガルと教会の双方から相談役を招いて近くに置き、キリスト教と土着の信仰との統合を図った。その目論見はうまく行かなかったものの、国庫から学校や教会建造の資金を拠出し、現実的なカトリックの基盤が整えられた (臣民がこれを望んでいたかは別の問題である)。叙任された聖職者 (特に現地の言葉を話す者) が不足していたため、若い貴族が何名かカトリックを学ぶためにヨーロッパに派遣された。アフォンソの息子の1人は聖書を7年間学んだ後、北方の遠いウティカの司教に任命され、コンゴの教皇代理とされた。

しかしキリスト教の慈善と徳は、やがて奴隷貿易の急拡大と、ポルトガルの強欲によって妨げられてしまう。カンの到来から数十年で、コンゴ王国の地方領地はポルトガルにとって奴隷の大きな供給元となっていた。ヨーロッパ人が到来するはるか以前からコンゴでは奴隷制が存在しており、コンゴ人の奴隷市場が活況であったことは間違いないが、ポルトガル人がカリブ海やブラジルへ送る奴隷を集める勢いはその比ではなかった。奴隷貿易は莫大な利益を産み、王国南東の国境付近の紛争で捕らえた捕虜をうまく片づける良い方法だったが、コンゴの歴代の王は、多くの自国民が (捕虜の数が少ない時などに) 「違法に」奴隷化されているのではないかと疑った。これは王国の基盤を揺らがせる事態であるため、貿易運営機構が組織され、違法な奴隷化がおこなわれないよう監視した。適法な奴隷は輸出前にポルトガル人司祭から洗礼を授けられたので、少なくとも魂は救われたはずだ。

王国に終焉をもたらしたのはキリスト教でも奴隷制度でもなく、王位継承を巡る血なまぐさい争いだった。ムボカニの命により、当時のコンゴでは王のいとこや叔父、兄弟が地方や属国を治めており、それぞれが小さな軍を保有していた。このため、王が崩御するたびに内紛が発生し、1568年にはジャガによって首都が占領されてしまう (ジャガの正体については東方からの侵略者、反乱した臣民などさまざまな説がある)。ニミ・ア・ルケニ (カトリック世界から見ればアルヴァロ1世) は首都を取り返し、王に選ばれたが、そのためにはポルトガルの武器と支援を得なければならず、彼はポルトガルにルアンダ州を植民地として差し出した (この地が後にアンゴラとなる)。だが、ポルトガルはやがてコンゴの内政に干渉するようになるなど、これは失策であった。

クイル王朝の創始者アルヴァロと息子のアルヴァロ2世は、怒涛の進歩を目の当たりにし、王国の「西洋化」を図った。よりヨーロッパ人の好みに合わせようとしたか、もしくは避けがたい結末を避けたかっただけなのかはわからないが、いずれにせよこの西洋化は表面的なものにすぎなかった。アルヴァロはヨーロッパ式の称号を導入し (ムウェン・ンスンディは「ンスンディ公爵」となった)、アルヴァロ2世は首都をサンサルバドルと改名した。1596年、コンゴ人の使者が教皇を説得し、サンサルバドルはコンゴとアンゴラを含めた新しい司教管区の中心地として認められた。ところがポルトガル王はアルヴァロ2世の裏をかき、教皇からこの管区の司祭任命権を得た (相応の「寄付」をしたことは間違いない)。

アンゴラとコンゴの関係がこじれていく中、1622年にアンゴラの植民地総督がコンゴ南部を (わずかな間とはいえ) 侵略したことで、両者の関係はさらに悪化した。コンゴ王国では派閥争いが芽を出し、一部の地方君主は軍事と (奴隷などの) 貿易の両面でポルトガルと独自の協定を交わした。20年後の1641年、オランダがアンゴラの一部を掌握すると、ンカンガ・ア・ルケニ (ガルシア2世) 王はオランダに加担してポルトガルと対峙した。しかし、1648年にオランダが「戦略的撤退」したことで、王は窮地に立たされてしまった。国境のンブウィラ地区を巡ってコンゴとポルトガルが小競り合いをはじめると (それほど大きな領地ではないが、双方ともに戦闘の口実に飢えていた)、1665年10月のンブウィラ (歴史学者によってはアンブイラやウランガとも記述) の戦いへと発展した。

ポルトガル軍のマスケット銃兵と軽カノン砲の前に王国軍は惨敗を喫した。コンゴ王国側の戦死者は5千名を超え、その中には王も含まれていた。この戦いの後、キンパンザ派とキンラザ派 (どちらも王族の家系) が王位を争う内戦に突入し、次の世紀まで長引いた。地方は荒廃し、両派とも捕虜のコンゴ人を何千人も奴隷商人に売った。首都も何度か略奪に遭い、1696年までにほぼ放棄されるに至る。そしてついにキバングのペドロ4世が残った (数少ない) 貴族と協定を結び、王位を持ち回り制にすることで、平和がいくらかは戻った。

放棄されていたンバンザ=コンゴは、ポルトガルの支援を受けた現地のキリスト教預言者ベアトリス・キンパ・ヴィタと、彼女の信者アントニアンたちによって1705年に再び占領された。アントニアンとは聖アントニウスに由来する名前で、神の守護を受けた聖なるキリスト教コンゴ王国の建設を目的としていた。しかし、その目的が果たされることはなく、ペドロ4世 (在位1696年~1718年) はベアトリスを捕らえて審問し、異端者として処刑した後、1709年に首都を再び支配下に置いて「独立」したコンゴ王国を取り戻した。

王位の持ち回り制によって比較的平和な時期がつづいたが、それでも時として王家の争いはあった。その点を除けば、18世紀と19世紀の情勢はコンゴにとって上向きだった。コンゴの芸術家たちはキリストを黒人として描く十字架像を制作し、最後まで懐疑的だった者もキリスト教に改宗した。国民の信心深さはすさまじいものとなり、サンサルバドルの破壊された大聖堂を天使がひと晩で再建したという話 (有名だ) も、まるで疑われないほどだった。1836年、ポルトガルはイギリスの強い圧力にさらされたことで奴隷貿易を廃止した。

最終的にコンゴ王国の歴史に終止符を打ったのも、やはり王位を巡る争いだった。1856年にエンリケ2世が没し、キンラザ氏族の2つの派閥が玉座を求めて争った。ペドロ・レロが勝利したものの、そのためにはポルトガルの軍に頼らざるを得なかった。悪魔との取引は必ず代償をともなうものだ。1857年、ペドロ5世はポルトガルに隷属する条約に調印し、ポルトガル王に忠誠を誓った。翌年、ポルトガルはサンサルバドルに駐屯軍を置くための要塞を築き、誰が支配者なのかを明確に示した。1960年にコンゴ共和国が建国されるまで、コンゴに独立国家は存在しなかった。