コンセプト
文明/指導者
都市国家
区域
建造物
遺産とプロジェクト
ユニット
ユニットのレベルアップ
偉人
技術
社会制度
政府と政策
宗教
地形と特徴
資源
施設と道路
総督
歴史的瞬間
スキタイ
固有能力

草原の民

軽騎兵ユニットまたはサカ族弓騎兵を訓練するたびに、追加の軽騎兵ユニットまたはサカ族弓騎兵が手に入る。

歴史的背景
スキタイ人は牧畜を行っていた遊牧民の緩やかな (本当に緩やかな) 連合体であり、文字を持たず、中央アジアのステップ地帯を1000年ほど放浪していた。スキタイ人についての情報は非常にわずかで、幾ばくかの古代の「歴史家」 (ギリシャのヘロドトス、ローマ・ギリシャ時代のストラボン、ヒンドゥー教のいくつかの文書) の記述に頼るしかない。絶頂期にはポンティック・カスピ・ステップの全域と、さらにそれを越えた地域 (現在のウクライナから中国東北部) まで広がっていた。彼らはシルクロードをまたにかけ、奴隷貿易で富を築き、独自の芸術様式を生み、ケンタウルスとアマゾネスの伝説を残したが… そのくらいである。

ステップ地帯に居を構え、生活様式や言語にいくらかの類似点を有するものの、それ以外には関連性の薄い騎馬民族。現代の学者の考えでは、古代の物書きが「スキタイ」という語を用いた場合に指していたのは、だいたいこのような者たちであった。ヘロドトスによれば、スキタイ人は東方のステップ地帯に起源を持ち、近縁のマッサゲタイ人との戦い破れた後、西に移動してアラクセス川を越え、30年間にキンメリア人を追い払ったという (キンメリア人はアッシリアへ移動し、そこで暴れまわった)。卓越した馬術と弓術を身につけたスキタイ人は地域中に広がり、マケドニアやペルシアの入植地を襲撃した。

この数十年後の紀元前530年、ペルシアのキュロス大王はメッサゲタエ・スキタイ人の女性支配者トミュリスに結婚を申し入れる。トミュリスが求婚を断ると、キュロスは兵をシルダリヤ川に集め、船を作りはじめた。トミュリスは船の建造の中止を要求し、川から数日進軍した開けた場所 (騎馬戦闘に最適であることは間違いない) で「栄誉ある戦い」を申し出た。キュロスはこれを受け入れ、最精鋭部隊を連れて野営地を出発した。しかし、敵が酒精に不慣れであることを知ると、大量のワインを残し、それをわずかな兵力に守らせた。トミュリスの息子スパルガピセス率いるスキタイの本隊は、野営地を襲撃し、あびるように酒を飲み、そして待ち伏せていたキュロスに倒された (スパルガピセスは自害した)。敗北の報を聞いたトミュリスは、この戦術を「高潔でない」と宣言し、騎馬兵の第2波を率いてペルシア人に迫った。乱戦の中でキュロスは討ちとられ、ペルシア軍は敗走した。トミュリスはペルシア王の死体を持って来させると、その首を切り落とし、復讐の象徴として血をためた器に浸した… なお、これはヘロドトスの書物にある記述なので、実際の出来事はここまでドラマチックではなかった可能性もある。

紀元前513年、完全に腹を立てたペルシア人は、ダレイオス大王の直接指揮の下、7万人の軍勢を動員して再びスキタイ人の土地へ侵攻した。スキタイ人は守らなければならない畑や街を持たなかったため、広い土地と機動力を活かし、巧妙に会戦を避けた。騎馬弓兵は動きの遅い隊列を攻撃し、はぐれた者や本体から離れた荷車を狙い撃ちにした。ヘロドトスによれば、ある時スキタイ人の大部隊がついに戦闘のために整列したところ、突然大きな叫び声がこだまし、それに驚いた野うさぎが茂みから飛び出してきた。すると隊列の何名かは、その野うさぎを追って走り去ってしまった。これを知ってダレイオス大王は、「連中は我々を心の底から侮っているようだ」と言ったとされている。足の遅いダレイオスの軍隊は、いくらか数を減らしながらもついにヴォルガ川へ到達したが、糧食と物資が底をついてしまったため、結局なにも成し遂げられないまま自国へ帰っていった。スキタイ人がその後も意気揚々と国境を襲い続けたことは言うまでもないだろう。

クルガンと呼ばれる巨大な墳墓 (おそらくスキタイ人が作った唯一の永続的な構築物) から見つかった考古学的な証拠から、紀元前470年頃に指導者アリアペイテス (これはギリシャ語の名前。彼の本名は不明である) が複数のスキタイ人部族を統一し、「王」を自称したらしいことがわかっている。彼の後継者が紀元前340年頃まで同盟を統治したが、その後偉大なアテアス (またしてもギリシャ語の名前だ) によって王朝は打倒された。ストラボンによれば、ドナウ川からマエオティアの沼地までのスキタイ人部族をすべて統一したアテアスは、すぐにマケドニアのピリッポス2世と衝突したという。戦争中の紀元前339年頃に90歳のアテアスが戦死してしまうと、彼の「帝国」は崩壊した。それでも10年後、ピリッポス2世の息子アレキサンドロスは再びスキタイ人と戦っている。シルダリヤ川での「決定的な」戦いに勝利して国境付近における略奪行為を終わらせると、ギリシャ人たちは繁栄を求めて南進できるようになった。この戦いの影響はその後も尾を引き、スキタイ人は侵入してきたケルト人によってバルカン半島から追い出されてしまった。ステップ地帯とは違い、山岳地帯では自慢の騎兵も思うように力を発揮できなかったようだ。

同じ頃、一部のスキタイ人部族 (現在ではインド・スキタイ人と呼ばれている) がマウエスの指導の下、南東へ移動してバクトリア、ソグディアナ、アラコシアに入り、紀元前35年頃のアゼス2世の時代までにパンジャーブ地方とカシミール地方のインド・ギリシャ人にとって代わった。しかし、アゼス2世は (現在までに判明している中では) 最後のインド・スキタイ人の王であり、彼の死後にインド・スキタイ人はクシャーナ朝によって打倒されてしまう。しばらくするとパルティア人が西から侵攻してきて、これ以降スキタイ人はインドの記録に現れなくなる。

西方では、クリミアとウクライナのステップ地帯に広く残っていたスキタイ人部族が、さらに3世紀の間、大きな変化のないまま存続した。彼らは馬を駆って略奪をおこなったが、定住することもあった。スキタイのネアポリスとして知られる都市 (現在のシンフェロポール近郊) は、クリミアのスキタイ人同士の交易所として機能した。しかし、拡大を続けるローマ帝国が、スキタイ人の牧歌的な暮らしを終わらせることになる。ゴート族がローマの国境の大部分からサルマタイ人を追い払うと、今度はサルマタイ人がスキタイ人を侵略したのだ (ただし、これは征服というよりも同化と呼んだほうがふさわしい)。そして3世紀の中頃、ゴート族がスキタイのネアポリスを略奪し、公式にスキタイ人の文明は終焉を迎えた (ただし、ローマ人やギリシャ人にはステップ地帯の遊牧民をすべて「スキタイ人」と呼ぶ困った癖があった。たとえば東ローマ帝国の使者プリスクスは、アッティラの民 (フン族) をしつこく「スキタイ人」と呼んでいる)。

こうしてスキタイ人は歴史から姿を消し、ステップ地帯に散らばる草に覆われた塚だけが彼らの道のりの目印として残った。一般的な戦士の小さな塚から、指導者や偉大な戦士の眠る「王家の」クルガンまで、塚にはさまざまなものがあるが、これらは単に土やガラクタを遺体の上にかぶせただけではなく、中心にある部屋の上に芝土を何層も重ねて作ってある。この芝は、死者とともに埋葬された馬が、死後の世界でもやせ衰えないようにと用意されたものだった。あるクルガンでは、指導者のまわりに400頭以上の馬の骨が幾何学的に並べられていた。偉大なスキタイ人が死ぬと殺されたのは馬だけではない。配偶者や家臣も死者を追って死後の世界へ旅立つという、ありがたくない栄誉を賜ったのだ。最大級のクルガンは、6階建ての建物に匹敵する高さがあり、幅も90m以上あった。文字をもたない野蛮な騎馬民族にしては大したものといえるだろう。

ヘロドトスによれば、その埋葬は壮大なものだったという。会葬者は左手に矢を刺し (さすがに弓を持つ手に傷害が残るようなことはしなかったが)、腕や胸を切りつけ、時に耳の一部を切り取った。ある指導者の一周忌では、50頭の馬と50人の奴隷を殺して内臓を抜き、死んだ奴隷を死んだ馬に乗せ、直立状態でクルガンの周りに串刺しにしたという。このような仰々しい行為がギリシャのアマゾネス伝説につながったと考えられている (少なくとも多少は影響しただろう)。ドン川とヴォルガ川の下流沿いにあるこれらの墳墓のおよそ20%からは「まるで男のように」鎧を着て弓と剣で武装した女性が見つかっている。いわゆるアマゾネスそのものではないが、トミュリスにまつわる逸話からもわかるように、スキタイ人には女性戦士もいたのではないかと考えられている。

もし女性の戦士もいたのであれば、きっと強い心臓の持ち主であったに違いない。なにせスキタイ人の戦士は、「文明的な」隣人を震え上がらせていた存在であったのだから。髭は伸ばすに任せ、刺青を入れていたスキタイ人の騎馬弓兵は、短いコンポジットボウで武装していた。傷口が治りにくいように、その矢には返しがつけられていた。また、矢尻には蛇の毒、腐った血液、馬の糞などを塗り、傷を負った相手を確実に死に至らしめる工夫を凝らしていた。残っている記録によれば、スキタイ人は戦闘の後、倒した敵の血を飲み、戦利品を主張するために敵の首を切り落とした。そのような残忍さを示した者だけが、分け前にありつけたのである。血を飲むという行為は野蛮な民族の間では珍しくなかったが、首を切るのは手柄を示す方法としては独特だった。彼らは敵の死体から頭皮を剥いで馬や盾、矢筒を飾り、特に勇敢だった敵の頭蓋骨はメッキして栄誉ある酒杯として使った (スキタイ人は勇気を尊んだのだ)。

スキタイ人が呼び起こす恐怖はギリシャ人にとって非常に大きなものだったようだ。ケンタウルスはスキタイ人がモチーフになっていると考えられているほどである。スキタイ人の騎馬兵はとにかく悪名高い存在だった。聖書で預言者エレミヤはイスラエル人に対し、「残酷で慈悲を知らず、その声は海のように轟き、整列して馬にまたがった」戦士たちに襲われることを警告しているが、これはスキタイ人のことだと考える学者もいるほどである。聖書といえば、スキタイ人にも神々の殿堂はあった。だが、スキタイ人はそれほど熱心に信仰していなかったらしい。彼らの神々が定めた戒律、石に刻まれた律法の類いではなく、柔軟な指針という程度のものだったようだ。

もちろん頭皮や頭蓋骨ばかりではなく、戦利品も戦闘後の楽しみだった。スキタイ人はペルシアやマケドニアを頻繁に襲撃したり奴隷を売ったりすることで金銀を得ていた。スキタイ人の職人は、優れた意匠の品を作ることに長けていたが、中でも好まれたのは、狼、雄鹿、グリフォン、豹、ワシ、馬などの動物が命がけで戦っている姿だった。美術品、陶磁器、青銅器、副葬品の偶像などにはあらゆる種類の動物が見られ、死闘を繰り広げていない場合、それらは眠っている姿で描かれた。彼らの墳墓であるクルガンからは、大量のブローチ、ベルト、兜、イヤリング、首飾り、腕輪などの装飾品が出土しているが、これらにはそうした動物がよく描かれている。

スキタイ人の衰退と消滅の理由には多くの仮説 (学者にとって最大の商売道具だ) がある。一部の学者は、スキタイ人が近隣の者と結婚し、放牧や襲撃をやめて徐々に定住するようになったという説を提唱している。3世紀終わり頃に築かれたクルガンのいくつかには、家庭の団らんを象徴するストーブが入っていた (真のスキタイ人が草葉の陰で嘆くには十分な軟弱さだ)。他には、長い干ばつや馬の伝染病のために定住を余儀なくされたという説や、スキタイ人の酒好き (スパルガピセスの一件を覚えているだろうか?) が昂じて牧草地で穀物を育てるようになったことが遊牧生活の終焉につながったのだと断定する者もいる。

どの説が当たっているにせよ、スキタイ人がステップ地帯を闊歩し、後につづくサルマタイ人、フン族、モンゴル、ティムール、コサックなどが恋い焦がれるほどの残虐性と凶暴性を見せつけたことは確かである。
PortraitSquare
icon_civilization_scythia

特性

指導者
特殊ユニット
特殊インフラ

地形&社会データ

所在地
アジア
面積
おおよそ99万4000平方キロメートル
人口
不明ながら、ピーク時で4~5万人ほどと推定される
首都
なし (歴史上に登場する唯一の都市「スキタイのネアポリス」は、3世紀にゴート族によって破壊された)
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指導者
特殊ユニット
特殊インフラ

地形&社会データ

所在地
アジア
面積
おおよそ99万4000平方キロメートル
人口
不明ながら、ピーク時で4~5万人ほどと推定される
首都
なし (歴史上に登場する唯一の都市「スキタイのネアポリス」は、3世紀にゴート族によって破壊された)
固有能力

草原の民

軽騎兵ユニットまたはサカ族弓騎兵を訓練するたびに、追加の軽騎兵ユニットまたはサカ族弓騎兵が手に入る。

歴史的背景
スキタイ人は牧畜を行っていた遊牧民の緩やかな (本当に緩やかな) 連合体であり、文字を持たず、中央アジアのステップ地帯を1000年ほど放浪していた。スキタイ人についての情報は非常にわずかで、幾ばくかの古代の「歴史家」 (ギリシャのヘロドトス、ローマ・ギリシャ時代のストラボン、ヒンドゥー教のいくつかの文書) の記述に頼るしかない。絶頂期にはポンティック・カスピ・ステップの全域と、さらにそれを越えた地域 (現在のウクライナから中国東北部) まで広がっていた。彼らはシルクロードをまたにかけ、奴隷貿易で富を築き、独自の芸術様式を生み、ケンタウルスとアマゾネスの伝説を残したが… そのくらいである。

ステップ地帯に居を構え、生活様式や言語にいくらかの類似点を有するものの、それ以外には関連性の薄い騎馬民族。現代の学者の考えでは、古代の物書きが「スキタイ」という語を用いた場合に指していたのは、だいたいこのような者たちであった。ヘロドトスによれば、スキタイ人は東方のステップ地帯に起源を持ち、近縁のマッサゲタイ人との戦い破れた後、西に移動してアラクセス川を越え、30年間にキンメリア人を追い払ったという (キンメリア人はアッシリアへ移動し、そこで暴れまわった)。卓越した馬術と弓術を身につけたスキタイ人は地域中に広がり、マケドニアやペルシアの入植地を襲撃した。

この数十年後の紀元前530年、ペルシアのキュロス大王はメッサゲタエ・スキタイ人の女性支配者トミュリスに結婚を申し入れる。トミュリスが求婚を断ると、キュロスは兵をシルダリヤ川に集め、船を作りはじめた。トミュリスは船の建造の中止を要求し、川から数日進軍した開けた場所 (騎馬戦闘に最適であることは間違いない) で「栄誉ある戦い」を申し出た。キュロスはこれを受け入れ、最精鋭部隊を連れて野営地を出発した。しかし、敵が酒精に不慣れであることを知ると、大量のワインを残し、それをわずかな兵力に守らせた。トミュリスの息子スパルガピセス率いるスキタイの本隊は、野営地を襲撃し、あびるように酒を飲み、そして待ち伏せていたキュロスに倒された (スパルガピセスは自害した)。敗北の報を聞いたトミュリスは、この戦術を「高潔でない」と宣言し、騎馬兵の第2波を率いてペルシア人に迫った。乱戦の中でキュロスは討ちとられ、ペルシア軍は敗走した。トミュリスはペルシア王の死体を持って来させると、その首を切り落とし、復讐の象徴として血をためた器に浸した… なお、これはヘロドトスの書物にある記述なので、実際の出来事はここまでドラマチックではなかった可能性もある。

紀元前513年、完全に腹を立てたペルシア人は、ダレイオス大王の直接指揮の下、7万人の軍勢を動員して再びスキタイ人の土地へ侵攻した。スキタイ人は守らなければならない畑や街を持たなかったため、広い土地と機動力を活かし、巧妙に会戦を避けた。騎馬弓兵は動きの遅い隊列を攻撃し、はぐれた者や本体から離れた荷車を狙い撃ちにした。ヘロドトスによれば、ある時スキタイ人の大部隊がついに戦闘のために整列したところ、突然大きな叫び声がこだまし、それに驚いた野うさぎが茂みから飛び出してきた。すると隊列の何名かは、その野うさぎを追って走り去ってしまった。これを知ってダレイオス大王は、「連中は我々を心の底から侮っているようだ」と言ったとされている。足の遅いダレイオスの軍隊は、いくらか数を減らしながらもついにヴォルガ川へ到達したが、糧食と物資が底をついてしまったため、結局なにも成し遂げられないまま自国へ帰っていった。スキタイ人がその後も意気揚々と国境を襲い続けたことは言うまでもないだろう。

クルガンと呼ばれる巨大な墳墓 (おそらくスキタイ人が作った唯一の永続的な構築物) から見つかった考古学的な証拠から、紀元前470年頃に指導者アリアペイテス (これはギリシャ語の名前。彼の本名は不明である) が複数のスキタイ人部族を統一し、「王」を自称したらしいことがわかっている。彼の後継者が紀元前340年頃まで同盟を統治したが、その後偉大なアテアス (またしてもギリシャ語の名前だ) によって王朝は打倒された。ストラボンによれば、ドナウ川からマエオティアの沼地までのスキタイ人部族をすべて統一したアテアスは、すぐにマケドニアのピリッポス2世と衝突したという。戦争中の紀元前339年頃に90歳のアテアスが戦死してしまうと、彼の「帝国」は崩壊した。それでも10年後、ピリッポス2世の息子アレキサンドロスは再びスキタイ人と戦っている。シルダリヤ川での「決定的な」戦いに勝利して国境付近における略奪行為を終わらせると、ギリシャ人たちは繁栄を求めて南進できるようになった。この戦いの影響はその後も尾を引き、スキタイ人は侵入してきたケルト人によってバルカン半島から追い出されてしまった。ステップ地帯とは違い、山岳地帯では自慢の騎兵も思うように力を発揮できなかったようだ。

同じ頃、一部のスキタイ人部族 (現在ではインド・スキタイ人と呼ばれている) がマウエスの指導の下、南東へ移動してバクトリア、ソグディアナ、アラコシアに入り、紀元前35年頃のアゼス2世の時代までにパンジャーブ地方とカシミール地方のインド・ギリシャ人にとって代わった。しかし、アゼス2世は (現在までに判明している中では) 最後のインド・スキタイ人の王であり、彼の死後にインド・スキタイ人はクシャーナ朝によって打倒されてしまう。しばらくするとパルティア人が西から侵攻してきて、これ以降スキタイ人はインドの記録に現れなくなる。

西方では、クリミアとウクライナのステップ地帯に広く残っていたスキタイ人部族が、さらに3世紀の間、大きな変化のないまま存続した。彼らは馬を駆って略奪をおこなったが、定住することもあった。スキタイのネアポリスとして知られる都市 (現在のシンフェロポール近郊) は、クリミアのスキタイ人同士の交易所として機能した。しかし、拡大を続けるローマ帝国が、スキタイ人の牧歌的な暮らしを終わらせることになる。ゴート族がローマの国境の大部分からサルマタイ人を追い払うと、今度はサルマタイ人がスキタイ人を侵略したのだ (ただし、これは征服というよりも同化と呼んだほうがふさわしい)。そして3世紀の中頃、ゴート族がスキタイのネアポリスを略奪し、公式にスキタイ人の文明は終焉を迎えた (ただし、ローマ人やギリシャ人にはステップ地帯の遊牧民をすべて「スキタイ人」と呼ぶ困った癖があった。たとえば東ローマ帝国の使者プリスクスは、アッティラの民 (フン族) をしつこく「スキタイ人」と呼んでいる)。

こうしてスキタイ人は歴史から姿を消し、ステップ地帯に散らばる草に覆われた塚だけが彼らの道のりの目印として残った。一般的な戦士の小さな塚から、指導者や偉大な戦士の眠る「王家の」クルガンまで、塚にはさまざまなものがあるが、これらは単に土やガラクタを遺体の上にかぶせただけではなく、中心にある部屋の上に芝土を何層も重ねて作ってある。この芝は、死者とともに埋葬された馬が、死後の世界でもやせ衰えないようにと用意されたものだった。あるクルガンでは、指導者のまわりに400頭以上の馬の骨が幾何学的に並べられていた。偉大なスキタイ人が死ぬと殺されたのは馬だけではない。配偶者や家臣も死者を追って死後の世界へ旅立つという、ありがたくない栄誉を賜ったのだ。最大級のクルガンは、6階建ての建物に匹敵する高さがあり、幅も90m以上あった。文字をもたない野蛮な騎馬民族にしては大したものといえるだろう。

ヘロドトスによれば、その埋葬は壮大なものだったという。会葬者は左手に矢を刺し (さすがに弓を持つ手に傷害が残るようなことはしなかったが)、腕や胸を切りつけ、時に耳の一部を切り取った。ある指導者の一周忌では、50頭の馬と50人の奴隷を殺して内臓を抜き、死んだ奴隷を死んだ馬に乗せ、直立状態でクルガンの周りに串刺しにしたという。このような仰々しい行為がギリシャのアマゾネス伝説につながったと考えられている (少なくとも多少は影響しただろう)。ドン川とヴォルガ川の下流沿いにあるこれらの墳墓のおよそ20%からは「まるで男のように」鎧を着て弓と剣で武装した女性が見つかっている。いわゆるアマゾネスそのものではないが、トミュリスにまつわる逸話からもわかるように、スキタイ人には女性戦士もいたのではないかと考えられている。

もし女性の戦士もいたのであれば、きっと強い心臓の持ち主であったに違いない。なにせスキタイ人の戦士は、「文明的な」隣人を震え上がらせていた存在であったのだから。髭は伸ばすに任せ、刺青を入れていたスキタイ人の騎馬弓兵は、短いコンポジットボウで武装していた。傷口が治りにくいように、その矢には返しがつけられていた。また、矢尻には蛇の毒、腐った血液、馬の糞などを塗り、傷を負った相手を確実に死に至らしめる工夫を凝らしていた。残っている記録によれば、スキタイ人は戦闘の後、倒した敵の血を飲み、戦利品を主張するために敵の首を切り落とした。そのような残忍さを示した者だけが、分け前にありつけたのである。血を飲むという行為は野蛮な民族の間では珍しくなかったが、首を切るのは手柄を示す方法としては独特だった。彼らは敵の死体から頭皮を剥いで馬や盾、矢筒を飾り、特に勇敢だった敵の頭蓋骨はメッキして栄誉ある酒杯として使った (スキタイ人は勇気を尊んだのだ)。

スキタイ人が呼び起こす恐怖はギリシャ人にとって非常に大きなものだったようだ。ケンタウルスはスキタイ人がモチーフになっていると考えられているほどである。スキタイ人の騎馬兵はとにかく悪名高い存在だった。聖書で預言者エレミヤはイスラエル人に対し、「残酷で慈悲を知らず、その声は海のように轟き、整列して馬にまたがった」戦士たちに襲われることを警告しているが、これはスキタイ人のことだと考える学者もいるほどである。聖書といえば、スキタイ人にも神々の殿堂はあった。だが、スキタイ人はそれほど熱心に信仰していなかったらしい。彼らの神々が定めた戒律、石に刻まれた律法の類いではなく、柔軟な指針という程度のものだったようだ。

もちろん頭皮や頭蓋骨ばかりではなく、戦利品も戦闘後の楽しみだった。スキタイ人はペルシアやマケドニアを頻繁に襲撃したり奴隷を売ったりすることで金銀を得ていた。スキタイ人の職人は、優れた意匠の品を作ることに長けていたが、中でも好まれたのは、狼、雄鹿、グリフォン、豹、ワシ、馬などの動物が命がけで戦っている姿だった。美術品、陶磁器、青銅器、副葬品の偶像などにはあらゆる種類の動物が見られ、死闘を繰り広げていない場合、それらは眠っている姿で描かれた。彼らの墳墓であるクルガンからは、大量のブローチ、ベルト、兜、イヤリング、首飾り、腕輪などの装飾品が出土しているが、これらにはそうした動物がよく描かれている。

スキタイ人の衰退と消滅の理由には多くの仮説 (学者にとって最大の商売道具だ) がある。一部の学者は、スキタイ人が近隣の者と結婚し、放牧や襲撃をやめて徐々に定住するようになったという説を提唱している。3世紀終わり頃に築かれたクルガンのいくつかには、家庭の団らんを象徴するストーブが入っていた (真のスキタイ人が草葉の陰で嘆くには十分な軟弱さだ)。他には、長い干ばつや馬の伝染病のために定住を余儀なくされたという説や、スキタイ人の酒好き (スパルガピセスの一件を覚えているだろうか?) が昂じて牧草地で穀物を育てるようになったことが遊牧生活の終焉につながったのだと断定する者もいる。

どの説が当たっているにせよ、スキタイ人がステップ地帯を闊歩し、後につづくサルマタイ人、フン族、モンゴル、ティムール、コサックなどが恋い焦がれるほどの残虐性と凶暴性を見せつけたことは確かである。