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ポーランド

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マケドニア

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マヤ

マリ

モンゴル

ローマ

ロシア

韓国

大コロンビア

中国

日本

指導者

インカ
固有能力

ミタ制

市民が山岳タイルを利用できるようになる。山岳タイルの 生産力+2。産業時代に到達すると、さらに 生産力+1。隣接する棚畑1つにつき山岳タイルの 食料+1。

歴史的背景
インカ帝国はアメリカ大陸の先住民が築いた最大にして最強、かつ最後の国家の一つである。ケチュア語では「タワンティン・スウユ」と呼ばれるが、これは「4つの地方」という意味である。インカ帝国には多様な言語を話す人々が住み、王宮を中心とした強力な中央集権体制が構築されていた。洗練された社会インフラや街道網も存在し、強制労働によってそれを維持していた。課税や食糧分配のシステムも存在した。特筆に値するのは、文字による記録や車輪が存在せず、動物を労働力として利用することもなかったにもかかわらず、社会が円滑に営まれていた点である。歴史を学ぶ者にとってインカは、政治制度と科学技術には関連があるという主張に対する魅力的な反論材料を与えてくれる文明と言えるだろう。要するに、ワシントンの街にギザの大ピラミッドを築けるこのゲームにぴったりの文明、それがインカなのだ。

インカ帝国の母体となったのは、クスコ王国である。都市国家とみなされることが多いクスコには、いくつもの建国神話が伝わっている。そのほとんどには、伝説の建国者マコ・カパックか太陽神インティが登場する。1438年、皇帝パチャクティの指揮のもと、インカは外交的、軍事的拡大をおこない、隣国を合併、あるいは征服した。沿岸のチムー王国や現在のボリビアにあったアイマラなども、こうしてインカの傘下に入った。パチャクティの征服によって、インカはアンデス山脈のかなりの部分を版図に加え、その後継者たちも征服や外交によって領土と人口を増やしつづけた。

先に紹介したケチュア語の名前が示すように、インカ帝国は大きく4つに分かれており、クスコはその4つがすべて接する地点に位置していた。インカはミタ制と呼ばれる強制労働を制度化していた。これによって健康な成人男性は、国の保護や公共財を利用する権利と引き換えに、農業や軍事の分野で国に奉仕する義務を負っていた。インカは険しい山岳地帯にも優れた街道網を築き、橋を架け、それらを維持した。また、余剰作物は災害に備えて公共の保存施設に蓄えられた。

国に関する計画はすべて中央で策定され、統治者と民衆が相互に責任を負うシステムが人々への資源配分を統括した。サパ・インカ (皇帝) はこの相互責任システムに姻戚関係の絆を加えた。つまり、地域の貴族や被征服地の支配者と自分の身内を結婚させ、血縁と慣習的義務が入りまじった関係を築いたのである。慣行の監督、帝国の維持、ミタ制の実施などについては、皇帝に派遣された官吏が責任をもって取り組んだ。

インカ人はすぐれた天文学者であり、建築家であり、測量技師でもあった。インカでは、キープと呼ばれる紐の結び目を利用した独特の記録方式が、首都から遠方への情報伝や歴史記録の保存に用いられていた (紐だけでなく、織物も表意や記録に利用されたようだ)。建築については、漆喰なしで不揃いな石材を隙間なく積み上げる高度な技術を有しており、インカの建物を観察したヨーロッパ人に嘆息のため息をつかせた。普通なら植物の栽培に向かない丘陵を耕作地に変える棚畑は、こうした土木技術の結晶である。

インカでは布が特に珍重され、織物は贈り物に用いられた。高度な技法で織られ、鮮やかな色に染められる場合もあった。布は身分を表し、上流階級では見栄を張る手段としても用いられた。素材としては綿が一般的だったが、ラマやアルパカの毛もよく使われた。ただし、ビクーニャやグアナコの毛を使えるのは貴族だけだった。ちなみに皇帝は同じ服を二度と着なかったと言われている。

軍事面においては、豊富な公共の備蓄を軍隊に供給し、国が武器庫を維持して兵士に装備させた。整備された街道網のおかげで、国内のどこへでも素早く兵を動かすことができた。また、インカは国の権限として徴兵をおこなえたので、たいていの場合は敵を上回る兵力を投入することが可能だった。しかし、インカの南進はマウレ川でマプチェに阻まれた。 インカはマプチェを「プルム・アウカ」、すなわち「凶暴な敵」と呼んで称えた。

インカを没落させたのは、内紛、そしてフランシスコ・ピサロ率いるスペインのコンキスタドールとの戦いであった。皇帝ワイナ・カパックのもと、当時のインカ帝国は現在のコロンビアの一角まで版図を拡大していた。だが、領土拡大は現地の先住民族に阻まれ、時を同じくして皇帝の後継者問題も持ち上がった。ワイナ・カパックが没し、息子たちの間で内戦がはじまったのである。天然痘など、ヨーロッパから持ちこまれた疾病も猛威を振るい、人口が激減した。そこにピサロが現れ、少数だが強力な武器を持つ兵士を率いて内紛に介入したため、インカ帝国は激震にさらされることになったのである。

ピサロは奸計を弄し、何の説得力もない口実で停戦の約束を破って、王位請求者の一人だったアタワルパを捕えた。インカ側はアタワルパの身柄引き渡しを要求し、身代金として彼の牢を満たすだけの黄金とその倍の銀を払うと申し出た。ピサロはこの条件を受け入れたが、身代金が支払われるとすぐに約束を反故にした。さらに、もう一人の王位請求者だったワスカルが暗殺されると、ピサロはアタワルパにその罪を着せ、即座に彼を処刑してしまった。

一方で、スペイン人はインカの貴族と皇室の離間を図り、実質的な属国とした帝国の帝位に傀儡のインカ人を据えた。スペイン人の支配のもと、拡大解釈されたミタ制はポトシ銀山での労働も含むようになった。また、伝統的な棚畑農耕は廃止され、スペイン人が持ち込んだ病気が多くの人々を苦しめつづけた。1572年、インカ最後の皇帝トゥパク・アマルが捕らえられて処刑されると、インカの抵抗は完全に潰え、帝国はその長い歴史に幕を下ろした。

インカ帝国の組織や技術は、近年、再び脚光を浴びている。アイリュと呼ばれた相互扶助制度は、研究材料として政治学者の注目を集めている。また、垂直列島と呼ばれる農耕方式は、未来の持続可能な食料生産のあり方を示唆している。インカが後世に遺した最大の宝は、金や銀ではなく、ジャガイモのよりよい栽培方法なのかもしれない。
PortraitSquare
icon_civilization_inca

特性

指導者
icon_leader_pachacuti
パチャクティ
特殊ユニット
icon_unit_inca_warakaq
ワラカク
特殊インフラ
icon_improvement_terrace_farm
棚畑

地形&社会データ

所在地
南アメリカ
面積
約77万7000平方キロメートル
人口
最盛期には約1000万人
首都
クスコ
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特性

指導者
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パチャクティ
特殊ユニット
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ワラカク
特殊インフラ
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棚畑

地形&社会データ

所在地
南アメリカ
面積
約77万7000平方キロメートル
人口
最盛期には約1000万人
首都
クスコ
固有能力

ミタ制

市民が山岳タイルを利用できるようになる。山岳タイルの 生産力+2。産業時代に到達すると、さらに 生産力+1。隣接する棚畑1つにつき山岳タイルの 食料+1。

歴史的背景
インカ帝国はアメリカ大陸の先住民が築いた最大にして最強、かつ最後の国家の一つである。ケチュア語では「タワンティン・スウユ」と呼ばれるが、これは「4つの地方」という意味である。インカ帝国には多様な言語を話す人々が住み、王宮を中心とした強力な中央集権体制が構築されていた。洗練された社会インフラや街道網も存在し、強制労働によってそれを維持していた。課税や食糧分配のシステムも存在した。特筆に値するのは、文字による記録や車輪が存在せず、動物を労働力として利用することもなかったにもかかわらず、社会が円滑に営まれていた点である。歴史を学ぶ者にとってインカは、政治制度と科学技術には関連があるという主張に対する魅力的な反論材料を与えてくれる文明と言えるだろう。要するに、ワシントンの街にギザの大ピラミッドを築けるこのゲームにぴったりの文明、それがインカなのだ。

インカ帝国の母体となったのは、クスコ王国である。都市国家とみなされることが多いクスコには、いくつもの建国神話が伝わっている。そのほとんどには、伝説の建国者マコ・カパックか太陽神インティが登場する。1438年、皇帝パチャクティの指揮のもと、インカは外交的、軍事的拡大をおこない、隣国を合併、あるいは征服した。沿岸のチムー王国や現在のボリビアにあったアイマラなども、こうしてインカの傘下に入った。パチャクティの征服によって、インカはアンデス山脈のかなりの部分を版図に加え、その後継者たちも征服や外交によって領土と人口を増やしつづけた。

先に紹介したケチュア語の名前が示すように、インカ帝国は大きく4つに分かれており、クスコはその4つがすべて接する地点に位置していた。インカはミタ制と呼ばれる強制労働を制度化していた。これによって健康な成人男性は、国の保護や公共財を利用する権利と引き換えに、農業や軍事の分野で国に奉仕する義務を負っていた。インカは険しい山岳地帯にも優れた街道網を築き、橋を架け、それらを維持した。また、余剰作物は災害に備えて公共の保存施設に蓄えられた。

国に関する計画はすべて中央で策定され、統治者と民衆が相互に責任を負うシステムが人々への資源配分を統括した。サパ・インカ (皇帝) はこの相互責任システムに姻戚関係の絆を加えた。つまり、地域の貴族や被征服地の支配者と自分の身内を結婚させ、血縁と慣習的義務が入りまじった関係を築いたのである。慣行の監督、帝国の維持、ミタ制の実施などについては、皇帝に派遣された官吏が責任をもって取り組んだ。

インカ人はすぐれた天文学者であり、建築家であり、測量技師でもあった。インカでは、キープと呼ばれる紐の結び目を利用した独特の記録方式が、首都から遠方への情報伝や歴史記録の保存に用いられていた (紐だけでなく、織物も表意や記録に利用されたようだ)。建築については、漆喰なしで不揃いな石材を隙間なく積み上げる高度な技術を有しており、インカの建物を観察したヨーロッパ人に嘆息のため息をつかせた。普通なら植物の栽培に向かない丘陵を耕作地に変える棚畑は、こうした土木技術の結晶である。

インカでは布が特に珍重され、織物は贈り物に用いられた。高度な技法で織られ、鮮やかな色に染められる場合もあった。布は身分を表し、上流階級では見栄を張る手段としても用いられた。素材としては綿が一般的だったが、ラマやアルパカの毛もよく使われた。ただし、ビクーニャやグアナコの毛を使えるのは貴族だけだった。ちなみに皇帝は同じ服を二度と着なかったと言われている。

軍事面においては、豊富な公共の備蓄を軍隊に供給し、国が武器庫を維持して兵士に装備させた。整備された街道網のおかげで、国内のどこへでも素早く兵を動かすことができた。また、インカは国の権限として徴兵をおこなえたので、たいていの場合は敵を上回る兵力を投入することが可能だった。しかし、インカの南進はマウレ川でマプチェに阻まれた。 インカはマプチェを「プルム・アウカ」、すなわち「凶暴な敵」と呼んで称えた。

インカを没落させたのは、内紛、そしてフランシスコ・ピサロ率いるスペインのコンキスタドールとの戦いであった。皇帝ワイナ・カパックのもと、当時のインカ帝国は現在のコロンビアの一角まで版図を拡大していた。だが、領土拡大は現地の先住民族に阻まれ、時を同じくして皇帝の後継者問題も持ち上がった。ワイナ・カパックが没し、息子たちの間で内戦がはじまったのである。天然痘など、ヨーロッパから持ちこまれた疾病も猛威を振るい、人口が激減した。そこにピサロが現れ、少数だが強力な武器を持つ兵士を率いて内紛に介入したため、インカ帝国は激震にさらされることになったのである。

ピサロは奸計を弄し、何の説得力もない口実で停戦の約束を破って、王位請求者の一人だったアタワルパを捕えた。インカ側はアタワルパの身柄引き渡しを要求し、身代金として彼の牢を満たすだけの黄金とその倍の銀を払うと申し出た。ピサロはこの条件を受け入れたが、身代金が支払われるとすぐに約束を反故にした。さらに、もう一人の王位請求者だったワスカルが暗殺されると、ピサロはアタワルパにその罪を着せ、即座に彼を処刑してしまった。

一方で、スペイン人はインカの貴族と皇室の離間を図り、実質的な属国とした帝国の帝位に傀儡のインカ人を据えた。スペイン人の支配のもと、拡大解釈されたミタ制はポトシ銀山での労働も含むようになった。また、伝統的な棚畑農耕は廃止され、スペイン人が持ち込んだ病気が多くの人々を苦しめつづけた。1572年、インカ最後の皇帝トゥパク・アマルが捕らえられて処刑されると、インカの抵抗は完全に潰え、帝国はその長い歴史に幕を下ろした。

インカ帝国の組織や技術は、近年、再び脚光を浴びている。アイリュと呼ばれた相互扶助制度は、研究材料として政治学者の注目を集めている。また、垂直列島と呼ばれる農耕方式は、未来の持続可能な食料生産のあり方を示唆している。インカが後世に遺した最大の宝は、金や銀ではなく、ジャガイモのよりよい栽培方法なのかもしれない。
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