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マプチェ

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モンゴル

ローマ

ロシア

韓国

大コロンビア

中国

日本

指導者

スコットランド
固有能力

スコットランド啓蒙主義

「幸せである」状態の都市は 科学力+5%と 生産力+5%。また、キャンパス毎に 大科学者ポイント+1、工業地帯毎に 大技術者ポイント+1を産出する。「興奮している」状態の都市はこのボーナスが2倍になる。

歴史的背景
グレートブリテン島の北端一帯を占めるスコットランドの歴史は、南の強大な隣国と複雑に絡み合っている。その歴史は独立を求める戦いの連続だった。イングランドのみならず、スコットランドはたびたび諸外国から侵略の標的とされたのである。

スコットランドに関する最古の記録のうちいくつかは、ローマ帝国による征服と彼らの旅にまつわるものである。西暦1世紀の終わりごろ、帝国はイングランドとスコットランドの大部分を平定した。当時のスコットランドにはさまざまな先住部族が住んでおり、ローマ人は彼らを「カレドニア人」と呼んだ。ローマとこうした現地部族の間には頻繁に小競り合いが生じた。それに業を煮やしたハドリアヌス帝は帝国を先住部族から守るべく、かの有名な長城を築かせたと言われている (防壁の効果については意見が分かれているが)。

西暦4世紀の中頃になると、ローマ人はブリテン諸島を支配しようという試みをほぼ放棄していた。それから1000年、スコットランドの諸王国は力を蓄え、互いに協力関係を築いていった。そうした勢力のなかに、西のゲール人とダルリアダ王国、そして東のピクト人とその王国があった。

ゲール人の言語 (と文化の多く) は、ピクト人の言語や文化を抑えて広まっていった。しかし、実態としてはゲール人が徐々にピクト人へと取り込まれていったようだ。ピクト人の王国は、のちにアルバ王国へと発展した。アルバとは、ゲール語で「スコットランド」を意味する。彼らの土地で暮らしていた人々は、やがてスコット人と呼ばれるようになった。

9世紀に差しかかる頃、デンマークやノルウェーのバイキングがスコットランド沿岸に襲来し、産声をあげたばかりの王国に新たな脅威をもたらした。もっとも、たしかにスコットランド西部沿岸の集落は、ノルマン人の襲撃にたびたび悩まされたが、彼らの猛威にもっぱら苦しめられたのは、むしろイングランドだった。

1124年、デイヴィッド1世がスコットランド王に即位する。この王の即位は大きな変化をもたらした。その規模があまりに大きかったことから、歴史家はこの期間を「デイヴィッドの革命」と呼んでいる。封建制度の台頭がスコットランドの土地所有権の在り方を変え、政府や軍の構造をも変えたのである。

このデイヴィッド1世の時代、勅許による最初の街が築かれた。正式な認可を受けたこうした自治都市は「バラ」と呼ばれ、その後数世紀にわたってスコットランド君主の重要な収入源となる。バラで生まれた商業 (そして税収入) は、中世を通してスコットランドの継続的な発展を支える立役者となった。

デイヴィッド1世の治世から200年ほど経ったころ、スコットランドの土地と民を狙うイングランドの脅威が強まった。そして悪名高いイングランド王、「長脛王」エドワード1世の治世に、第一次スコットランド独立戦争と呼ばれる戦いがはじまることとなる。この王の容赦のない戦術とスコットランド人に対する嫌悪により、戦いは20年以上もつづいた。

スコットランドで最も有名な2人の英雄、サー・ウィリアム・ウォレスとロバート・ブルースが歴史の表舞台に登場したのは、この戦いのさなかのことである。2人はスコットランドの軍勢を率い、当初は長脛王と、後にその息子であるエドワード2世と戦った。

ロバート・ブルースは、1320年、スコットランド王ロバート1世としてアーブロース宣言に署名した。ローマ教皇に届けられたこの書簡文には、スコットランドの主権が謳われており、これをもってこの文書を世界初の独立宣言とみなす者も多い。後のアメリカ独立宣言にも影響を及ぼしたこの宣言は無事に承認され、しばらくは遵守された。

ロバート・ブルースの後を継いだのは、息子のデイヴィッド2世である。この王が子供を持たぬまま1371年に死去すると、王位はロバート2世の手に渡った。ロバート2世はロバート・ブルースの孫 (母親はロバートの娘マージョリー) にして、スコットランド王室執事長ウォルター・ステュアートの息子だった。

ステュアート家の初代であるロバート2世の即位により、17世紀初頭まで途切れることなくスコットランドを統治したステュアート朝の幕が開いた。ステュアート朝の君主でも特に有名なのが、スコットランド女王メアリー1世だろう。イングランド女王エリザベス1世の暗殺を企んだとして有罪を宣告され、幽閉されたのちに斬首された悲劇の女王である。

1706年、スコットランドとイングランドは、2つの王国を統一すべく交渉に入った。争いのさらなる長期化を避け、両陣営の財政基盤と貿易協定を改善させるためである。両者は「合同条約」に同意し、その後1707年5月1日に「合同法」が成立した。これによって2つの国は正式に統一され、グレートブリテン連合王国が誕生した。

産業革命と時を同じくして、18世紀には「スコットランド啓蒙主義」の時代が到来し、スコットランドの文化が花開くこととなる。建築や土木工学、文学、音楽、医療の発展は、スコットランドの名声と影響力を世界的に高めた。スコットランドの造船技術が有名になったのもこの時代で、木造の帆船から鉄製の蒸気船への移行が進んだ。
PortraitSquare
icon_civilization_scotland

特性

指導者
icon_leader_robert_the_bruce
ロバート・ブルース
特殊ユニット
icon_unit_scottish_highlander
ハイランダー
特殊インフラ
icon_improvement_golf_course
ゴルフコース

地形&社会データ

所在地
北西ヨーロッパ
面積
約7万8000平方キロメートル
人口
現在、推定540万人 (西暦12世紀当時30万人)
首都
エディンバラ
PortraitSquare
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特性

指導者
icon_leader_robert_the_bruce
ロバート・ブルース
特殊ユニット
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ハイランダー
特殊インフラ
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ゴルフコース

地形&社会データ

所在地
北西ヨーロッパ
面積
約7万8000平方キロメートル
人口
現在、推定540万人 (西暦12世紀当時30万人)
首都
エディンバラ
固有能力

スコットランド啓蒙主義

「幸せである」状態の都市は 科学力+5%と 生産力+5%。また、キャンパス毎に 大科学者ポイント+1、工業地帯毎に 大技術者ポイント+1を産出する。「興奮している」状態の都市はこのボーナスが2倍になる。

歴史的背景
グレートブリテン島の北端一帯を占めるスコットランドの歴史は、南の強大な隣国と複雑に絡み合っている。その歴史は独立を求める戦いの連続だった。イングランドのみならず、スコットランドはたびたび諸外国から侵略の標的とされたのである。

スコットランドに関する最古の記録のうちいくつかは、ローマ帝国による征服と彼らの旅にまつわるものである。西暦1世紀の終わりごろ、帝国はイングランドとスコットランドの大部分を平定した。当時のスコットランドにはさまざまな先住部族が住んでおり、ローマ人は彼らを「カレドニア人」と呼んだ。ローマとこうした現地部族の間には頻繁に小競り合いが生じた。それに業を煮やしたハドリアヌス帝は帝国を先住部族から守るべく、かの有名な長城を築かせたと言われている (防壁の効果については意見が分かれているが)。

西暦4世紀の中頃になると、ローマ人はブリテン諸島を支配しようという試みをほぼ放棄していた。それから1000年、スコットランドの諸王国は力を蓄え、互いに協力関係を築いていった。そうした勢力のなかに、西のゲール人とダルリアダ王国、そして東のピクト人とその王国があった。

ゲール人の言語 (と文化の多く) は、ピクト人の言語や文化を抑えて広まっていった。しかし、実態としてはゲール人が徐々にピクト人へと取り込まれていったようだ。ピクト人の王国は、のちにアルバ王国へと発展した。アルバとは、ゲール語で「スコットランド」を意味する。彼らの土地で暮らしていた人々は、やがてスコット人と呼ばれるようになった。

9世紀に差しかかる頃、デンマークやノルウェーのバイキングがスコットランド沿岸に襲来し、産声をあげたばかりの王国に新たな脅威をもたらした。もっとも、たしかにスコットランド西部沿岸の集落は、ノルマン人の襲撃にたびたび悩まされたが、彼らの猛威にもっぱら苦しめられたのは、むしろイングランドだった。

1124年、デイヴィッド1世がスコットランド王に即位する。この王の即位は大きな変化をもたらした。その規模があまりに大きかったことから、歴史家はこの期間を「デイヴィッドの革命」と呼んでいる。封建制度の台頭がスコットランドの土地所有権の在り方を変え、政府や軍の構造をも変えたのである。

このデイヴィッド1世の時代、勅許による最初の街が築かれた。正式な認可を受けたこうした自治都市は「バラ」と呼ばれ、その後数世紀にわたってスコットランド君主の重要な収入源となる。バラで生まれた商業 (そして税収入) は、中世を通してスコットランドの継続的な発展を支える立役者となった。

デイヴィッド1世の治世から200年ほど経ったころ、スコットランドの土地と民を狙うイングランドの脅威が強まった。そして悪名高いイングランド王、「長脛王」エドワード1世の治世に、第一次スコットランド独立戦争と呼ばれる戦いがはじまることとなる。この王の容赦のない戦術とスコットランド人に対する嫌悪により、戦いは20年以上もつづいた。

スコットランドで最も有名な2人の英雄、サー・ウィリアム・ウォレスとロバート・ブルースが歴史の表舞台に登場したのは、この戦いのさなかのことである。2人はスコットランドの軍勢を率い、当初は長脛王と、後にその息子であるエドワード2世と戦った。

ロバート・ブルースは、1320年、スコットランド王ロバート1世としてアーブロース宣言に署名した。ローマ教皇に届けられたこの書簡文には、スコットランドの主権が謳われており、これをもってこの文書を世界初の独立宣言とみなす者も多い。後のアメリカ独立宣言にも影響を及ぼしたこの宣言は無事に承認され、しばらくは遵守された。

ロバート・ブルースの後を継いだのは、息子のデイヴィッド2世である。この王が子供を持たぬまま1371年に死去すると、王位はロバート2世の手に渡った。ロバート2世はロバート・ブルースの孫 (母親はロバートの娘マージョリー) にして、スコットランド王室執事長ウォルター・ステュアートの息子だった。

ステュアート家の初代であるロバート2世の即位により、17世紀初頭まで途切れることなくスコットランドを統治したステュアート朝の幕が開いた。ステュアート朝の君主でも特に有名なのが、スコットランド女王メアリー1世だろう。イングランド女王エリザベス1世の暗殺を企んだとして有罪を宣告され、幽閉されたのちに斬首された悲劇の女王である。

1706年、スコットランドとイングランドは、2つの王国を統一すべく交渉に入った。争いのさらなる長期化を避け、両陣営の財政基盤と貿易協定を改善させるためである。両者は「合同条約」に同意し、その後1707年5月1日に「合同法」が成立した。これによって2つの国は正式に統一され、グレートブリテン連合王国が誕生した。

産業革命と時を同じくして、18世紀には「スコットランド啓蒙主義」の時代が到来し、スコットランドの文化が花開くこととなる。建築や土木工学、文学、音楽、医療の発展は、スコットランドの名声と影響力を世界的に高めた。スコットランドの造船技術が有名になったのもこの時代で、木造の帆船から鉄製の蒸気船への移行が進んだ。
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