インカの歴史は1533年に最後のサパ・インカ (皇帝) であるアタワルパがフランシスコ・ピサロに処刑されたことで幕を下ろし、その後の南米史はヨーロッパ人の子孫が築いた国の歴史であると一般には思われている。しかしインカの子孫はピサロ以降も長く複雑な歴史を紡いでおり、トゥパック・アマル2世の試みが成功していれば、独立を保つこともできたかもしれないのだ。
アマル2世、本名ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ・ノゲラは、1738年、ケチュアの地域行政長であるクラカの家にインカ王朝の末裔として生まれた。祖先が国を治めていたのは200年以上前のことであり、当初はアマルと名乗っていなかったコンドルカンキだが、インカの文献を読んで強く共感する。ペルー副王領で先住民が搾取的な労働を強いられていることに怒ったコンドルカンキは、反乱を起こすしかないと決意し、かつてスペインに反旗を翻したものの短期間で倒れたインカの末裔にちなんでトゥパック・アマル2世と改名、反乱を宣言した。アマルの反乱は植民地解放運動の先駆けであり、現代の社会正義の実現とヨーロッパ列強の到来以前の体制の復古を目指す運動が融合したものだった。アマルが掲げた奴隷制の廃止、貧しい民への再配分、先住民への土地の返還、先住民とクレオール (中南米で生まれ育ったヨーロッパ人) とメスティソ (白人と先住民の混血) の平等といった原則は、後の革命の支えとなった。
弁の立つアマルは多くのケチュア人を味方に引き入れ、当初は易々と勝利を重ねていったが、最後には裏切られ、捕らえられ、残忍極まりない方法で処刑された。しかし、アマルの反乱はエクアドルやボリビアでの先住民による運動を促し、植民地政府統治下のペルーでもクレオールの反発につながった。今日でも反植民地運動や植民地解放運動へのアマルの影響力は大きく、アメリカのラッパーである「2パック」ことトゥパック・ (アマル・) シャクールの名前はアマル2世にちなんでいる。