ラパ・ヌイは、ポリネシアの東端、南米チリの沖合に浮かぶ、広さ約163平方㎞の小さな島だ。ラパ・ヌイを有名にしているのは、この島に立つ巨大な石の彫像、モアイである。モアイはそれ自体が非常に目をひくが、その建造と設置は島の歴史と切っても切れない関係にある。
ラパ・ヌイに人が住みはじめたのは、西暦900年頃と考えられている。口伝によれば、始祖にあたるのはホトゥ・マトゥアなる人物で、マルキーズ (マルケサス) 諸島からカヌーに乗ってきた人々の長であったらしい。この最初の入植者たちの素性については興味深い異説がたくさんあるが、いずれについても裏付けとなる考古学的、史学史的な証拠は見つかっていない。ただ、人間がやって来て住み着いたこと、そして何よりも外来種であるナンヨウネズミが入ってきたことにより、島の生態系が大きなダメージが受けたことは間違いない。さらに、モアイの建造は労働力と資材を結集した一大事業であったため、これも直接的、間接的に島の森林破壊を加速させた。にもかかわらず、ここに移り住んだ人々は、すべてをこの絶海の孤島で調達する以外になかったのである。
考古学と口伝は、その後の時代が暗いものであったことを明らかにしている。この島で得られる食料だけすべての人々を安定して養うことは不可能だった。争いが島を支配した。そのことは、この時代の遺体を見れば明らかだ。モアイの建造は未完のまま終わり、マケマケ神の「鳥人」教団が台頭して指導的な地位を手に入れ、島の宗教を塗りかえた。ヨーロッパ人が初めてこの島を発見したのは、1722年の復活祭、つまりイースターの日であった (これがイースター島という別名の由来である)。その際の記録には、驚くべきモアイ像と荒廃した生態系のことが記されている。その記録によると、当時の島には3m以上の樹木が存在していなかったらしい。モアイの大半は、1722年から1860年までの間に土台からひっくり返されてしまったが、これは社会の混乱によるものと考えられている。
1862年には奴隷狩りがおこなわれ、数百人の島民が殺されたり南米に送られたりした。奴隷にされた人々の大半は、その後、天然痘や結核で命を落とした。生きて戻った者もいたが、その数はごくわずかで、しかも天然痘を持ち帰ってしまったため、島の人口はさらに減ることになった。1864年、キリスト教の宣教師たちが初めて島に上陸した。その結果、伝統的な衣服や習俗は廃れ、文化的、宗教的な品々は破壊された。土地もかなりの部分が奪われた (代金が支払われても、雀の涙ほどの金額だった)。島は羊の放牧地となり、島民は暴力によって労働を強制された。
1877年の時点でラパ・ヌイの先住民はわずか100人前後にまで減っていた。それからさらに10年後には、その生き残りの90%も死亡するか、島から逃げ出してしまった。ロンゴロンゴという独自の文字の読み方を含む島の伝統文化も、モアイの建造の歴史も、すべて永遠に失われてしまったのである。
現在、ラパ・ヌイはチリの保護領となり、島の大部分が国立公園に指定されている。今の島民が受け継いでいる島の伝統文化は、入植者とポリネシア人の流れを汲んでいる。ラパ・ヌイの歴史は、意図せぬ生態系の破壊がどのような結果をもたらすか、我々に警告しているかのようだ。また、植民地時代の歴史については、当時の最悪の慣行の見本と言っても過言ではないだろう。モアイの多くはアフと呼ばれる石の祭壇に再び安置され、ユネスコの世界遺産にも登録されている。だが、彼らが重たい口を開き、数百年にわたって見てきたものを語り出すことはない。